29 フェルレッティというもの 前
***
「お嬢、サンジェナのとやり合った末に、二日酔いだそうで?」
「……やり合ったわけではないわ」
口ひげを揺らして苦笑いするニコラに、椅子の背もたれに寄りかかったディーナは弱々しく反論した。
来訪した男に一人で対応することを迷いもしたが、例の薬を補充しにきたと言われると無碍に追い返すわけにもいかなかった。
「あまり気に病まなくても、伯爵はあなたをことさら気に入ってると思いますがね。大聖堂の慈善コンサートでも、たいそう機嫌が良かったらしいし」
「気に病んでなどいません」
立ちっぱなしの叔父は励ますように話すが、ディーナは体調の悪さを理由にあまり仰々しく反応しないようにする。
今となってはますますアウレリオの真意がわからないし、ここで男に長居されて余計なことを言ったら、それこそとどめになりかねない。
「そういえば、そのときに何をお渡しに?」とシガレットケースを手に問われたときにも「さあなんだったか」と適当に濁した。語尾が消えたのは吐き気のせいもあった。
「あまり辛いようなら、ベルナルドからそれ用の薬をもらうといいですよ。しかしまあ、なんでよりによってあの酒を選んだんです」
幸い、ニコラはものの数分で灰皿のない部屋から出ていったので、一人になったディーナはふらふらと寝室に戻った。
(薬……いえ、部屋から出ないほうがいいわよね)
寝台横の小さなテーブルに置かれた水を一口飲んで、仕掛け指輪のエメラルドを持ち上げる。貰った錠剤を補充するためだ。
今日の薬は、いつもより早い時間にやってきたテオドロに渡し済みだ。
その際、彼が枕元においていった朝食は、ディーナの気分に配慮したような、小さなパスタと野菜が入った優しい味のスープだった。
(……わざと酔わされたとしか思えない)
ともすると、自分はテオドロに信用されていないのか。
そう考えると、ますます一人でベルナルドのもとには行きづらかった。
(そういえば、謝りそびれちゃった)
気がかりは山ほどあるが、幹部会までとりあえず横になっているしかなさそうだ。
そう思い、寝台に手をついて、顔をバルコニー側へと向け。
――磨かれたガラス扉の向こう、横に張った枝葉の隙間からこちらを見つめる男と目があった。
ベルナルドが、いた。
「……!?」
悲鳴をすんでのところでこらえたディーナの視線を受けて、枝にしがみつくベルナルドはパアッと目を輝かせる。
「ロ」
男の口が開いた直後、ドンッと下方で発砲音がして、枝の上の体が揺れた。
「ウーゴ、お前何す」
「降りてこい。足もがれてえのか」
地上から届くルカの声に再びの発砲音が重なる。ベルナルドの青白い頬に赤い裂傷が走った。
「何を、僕はロレーナ様のことが心配で陰ながら見守ろうとっ、」
喚きながら、ベルナルドはバランスを崩し、つるりとディーナの視界から消えた。
呆然と見つめる窓の向こうから、枝の折れる音が続き、ドスンと音が響く。ルカの罵倒が後に続いた。
「…………ま、待って先生!」
ディーナは我に返って、バルコニーへと駆け寄った。
「ロレーナ様にお招きいただけるなんて、この身に余る光栄です」
「……ディーナよ。さっき怪我はしなかった?」
陶然とした顔で部屋へやってきた痩せぎすの男に、一応の気遣いを示す。見る限りは、髪がぼさぼさなだけでほとんど無傷のようだった。袖が破れて頬に赤い線が走っているのは、その前の銃撃によるものだろう。
「なんとお優しい言葉。この役立たずのベルナルドの、骨の髄まで沁み入るようです。ええ大丈夫、それよりご所望の品はこちらですね」
言って、ベルナルドは小瓶に入った粉薬を差し出した。袖の縁から、手首の内側に掘られた蛇の入れ墨が見える。
「二日酔いということで、ロレーナ様のお体の大きさならこの量で充分でしょう」
「ありがとう」
受け取って、部屋を出ずに薬を手に入れられたことに安堵して――そういえば、これは本当に飲んで大丈夫だろうかと、突如不安が襲ってきた。つい、目を輝かせる医者の背後に、視線を送る。
終始仏頂面で部屋の扉の横に立っているルカに。
「別に、変な混ぜもんはされてませんよ。ドクターは仕事だけは一流です」
「……」
「……先に飲みましょうか?」
テオだったらしてくれるだろうなと、チラッと思ったことを言い当てられる。気まずくて、「結構よ」と拒否した。
ここ数日で無意識に“毒見してもらって当然”と思っていた自分に呆れながら、水に溶かした薬を飲み下す。無味無臭だった。
「ありがとう、先生。ごめんなさいね、テオへの薬と一緒に届けてもらえば一回で済んだのに」
そう言うと、ベルナルドはきょとんとした顔をした。えっ、とディーナは青ざめたが、嫌な予感はルカが払拭した。
「あなたの従僕への薬は、ベルナルドの管轄下にありません。アウレリオ様が直々に届けさせてんです。今日はニコラだったでしょう」
ディーナはほっと胸を撫で下ろした。昨日の今日で、薬をすり替えられてはたまらない。
(ああ、だからルカはテオドロが倒れたとき、ベルナルドのもとには行かなかったのね)
そう合点がいった傍らで、ベルナルドも何か思いつくものがあったのか、突然弾んだ声を上げた。
「ああ、僕の管轄外というと“蛇の毒”のことですね?」
「へ……何?」
「伝説です。フェルレッティ家の方々の間で伝わる門外不出の毒。作り方も使い方も伝わらない毒が、ご当主の牙にだけ蓄えられてるとか」
人外じみた話は、なんのことかさっぱりだった。おとぎ話まで血なまぐさいのが、フェルレッティ家らしいといえばらしいが。
「違う? ならもしかして“裏切り者のスパイス”? あれは特別な日の晩餐に使うもので、最近ようやく僕も再現ができるようになって」
興が乗ったのか、ベルナルドの口が止まらない。まだ薬の回らないディーナの頭が聞きたくもない伝奇でぐわんぐわんと揺れた。
「楽しそうなところ悪いが、引き上げるぞドクター。後の仕事がつかえてる」
横柄な横槍が天の助けのようだった。
「まあ、お忙しいところを呼び止めてごめんなさい。……そういえば、ルカはなんでここに?」
今更だが、ルカはその場にいただけで、ディーナは呼びつけていない。が、腕を組んだ男は青い目を細めて試すように言った。
「ベルナルドと二人きりにしてよかったんですか?」
「……」
「すぐ退散しますよ。幹部会の準備もあるし。ほら行くぞドクター」
「いやいや待て待て、ジュリオ殿の姿が見えませんね? ロレーナ様を放ってどこに?」
首根っこを掴まれたベルナルドからの問いに、内心ぎくりとしながら「テオのことなら、ちょっとおつかいに出てもらってるだけよ」とはぐらかす。
「……バルトロと女のところとか?」
ルカの指摘に体が固まる。それを見て、言い当てた本人はニヤ、と意地悪く笑った。
「気になりますか。まあ、妹だと客観的に証明できるものが髪色以外にない身ではね」
「……着の身着のままで運河に落とされたのに、証明できるものなんて」
言いながら、ふと頭にロザリオのことが浮かんだが、ルカの言葉が先を越した。
「薬は持ち出さなかったんですか」
「薬?」
「この屋敷から。なにか一つでも。空き容器でも残ってないんですか」
心当たりがなくて、ディーナは首を傾げながら答えた。
「……何も持ち出さなかったわ」
ルカはそんなディーナをしばらく見つめたあと、小さく口を開いた
「……じゃあ、最後に言ったわがままの内容とかは」
問いかけというより、呟きに近い物言いだった。
――最後のわがまま。
“あれが欲しいわ。持ってきて”
ディーナは持ちっぱなしだったグラスを握りしめた。
「……当時の幹部は誰もいないもの。覚えていても、答え合わせができないでしょ」
そう言って答えを拒否するディーナに、ルカは一瞬だけ目を伏せ、そしていつも通りの少し不機嫌な声を出した。
「実際のところ、テオドロにさせてることは徒労だと思いますよ。奴自身、そう実感して戻ってくるでしょうね」
どういう意味だと目を瞬かせると、ルカはつまらなそうに言葉を補足した。
「アウレリオ様はあなたを本物だと思ってらっしゃる。サンジェナから来たあの女じゃなくて」
ディーナは驚いた。そういえば、ニコラも似たようなことを言っていた。
「な、なんで?」
ルカは見返してくるだけで、何も言わない。目元の痣は、薄くなっている。
「あなたたちも、わたしを信じてくれてるの?」
「……アウレリオ様が言うなら。フェルレッティとは、そういうものですよ」
重ねて聞いて得られたものは、本心を見透かせない答えだった。
一方でベルナルドは「サンジェナ?」と、先ほどのディーナのように首を傾げている。興味が無い話題だったようだ。




