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桜散る夜9 梅雨

 梅雨のある日。

 松月が会社を休む。

 松月がいないと、ほとんど誰とも話さない。

 職場を抜けだして、前に行った公園を適当に探しながらぶらつく。

 記憶違いか、みつからず、雨が降りだしそうで、戻る。

 塩見カチョウの話では、三十九度の熱をだしたということだった。

 終業時刻にケイタイが鳴り、コディ2で待ち合わせる。

 曇天の大気が湿っている。

 松月は先に来ていて、客は彼だけだ。

 ずる休みだったことは電話できいていた。

 ムースケーキ(サムズアップ)を食べてコディコーヒーを飲んでいる。

 普段より健康そうにみえる。


「アラームが鳴らなくてさあ、起きたら九時二十分だったんだよ。まったく行く気なかったね」


 とっさに()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それならいっそ電話もしないで無断欠勤してやろう、と思ったらしい。

 結局電話を入れたのは、それが会社独自のルールではなく一般常識だから。

 そんなことを寝起きの五分くらいの間に考えたという。


「変だよな。休む電話をするだけなのに」


 僕の分のコディコーヒーが運ばれてきて、一口飲んだ。

 ブラックの液体が身体のなかへ流れこむ。


「平日に会社へいかないとさ、自分から何かしないと時間が進まないように感じるんだよ」


 コーヒーがいつもより苦く感じる。

 角砂糖を入れようか迷い、とりあえず受け皿(ソーサー)に乗せる。

 松月も壜から角砂糖を一つ取り上げて、珍しそうにながめ、コーヒーのなかへ落としてスプーンでかき回しながら話をつづける。

 会社へ電話したあと、まず二度寝をした。眠くなかったが、寝てもいいような気がした。あまり眠れず、10時過ぎにベッドからでてテレビをつけた。たまたまつけたチャンネルでやっていた情報番組を観た。JリーグのVゴール方式をまずJ2から廃止する案が検討されているというニュースがあった。空腹を感じたのでテレビをけし、コンビニへ行ったが何も買わず、ときどき出社前にモーニングを食べる近所の喫茶店へ入り、サンドイッチとコーヒーを注文した。店内はまあまあ混み合っていて、隣のテーブルには二人のおばさんと小さな男の子がいてメニューをみていた。ウェイトレスが待っていた。おばさんの一人が早く決めなさいとせっついている。子どもがなかなか決めないせいかメニューのなかを指差し、これでいいわねとウェイトレスに注文した。子どもはメニューをみつめたままだった。ウェイトレスが去り、松月はトイレへ行った。手を洗うとき、鏡に映る自分をみた。


 本来ここにいるはずのない自分


 左右の瞼がちがっていることに、気づいた。左はいつもどおりの二重で、右の瞼が三重になっていた。部屋の洗面台では気づかなかった。変な格好で寝ていたのか。それとも、何かしたおぼえはないがついさっきそうなったのか。右の瞼をながめた。鏡のなかでは、左の瞼が三重になっている。

 棚からスポーツ新聞と日経新聞を取ってテーブルへ戻る。サンドイッチとコーヒーがおいてあり、隣の子どもはパフェを美味しそうに食べていた。

 息子が会社を辞めてねえ

 おばさんの一人がしゃべっている。最初は気のせいと思った。どうして気のせいと思ったのかわからなかった。おばさんはたしかに息子が会社を辞めたことを話題にしていた。コーヒーを一口飲み、サンドイッチをほおばった。よくあることかもしれないが、おばさんの息子は配属された部署に馴染めなかったらしい。

 あの子は昔からひとりでいたがるところがあって

 おばさんはいった。松月は、サンドイッチをほおばりながら、会社を辞めたところで結局は()()()()()()()()になるだけだ、と思った。

 子どもは、パフェを大事に少しずつ食べていた。

 ()()()()()()になんか入りたくないと思った。

 自分で注文したわけでもないパフェを美味しそうに食べている子どもの笑顔に、嫌悪を感じた。

 眼のまえにいたら、反射的にパフェを取り上げたかもしれない。

 コーヒーを飲みほして店をでた。

 栄へでて、映画を2本観た。映画鑑賞は暇つぶしに最適だと松月はいい、角砂糖の溶けたコーヒーを飲む。

 僕は、角砂糖を受け皿(ソーサー)に置いたままだ。

 コーヒーのなかで角砂糖が溶けていく時間のあいだ、松月は自分から何かしなければ消費されない時間について話した。

 溶けた砂糖を意識する。

 それだけで僕のコーヒーからも苦味がきえていくようだった。

 もし松月がいなければ、こうしてコディ2でコーヒーを飲む時間自体がなかっただろう。

 僕は窓をながめる。

 正面の松月をじっと見るわけにはいかないので、窓に映る松月をながめる。

 ところが、窓には、僕の姿しか映っていない。

 僕しか、映っていないようにみえた。

 空で何かが強く光り、僕の姿も窓からきえる。

 一日じゅう同じ色あいで固まっていた空がついにくずれて、雨が降りだす。

 いきなりの土砂降り。

 僕と松月の輪郭だけが、窓に貼りついていた。

 僕は窓から、正面の松月に視線を移す。

 松月の右瞼は、よくみるとまだ三重のままだ。




―――――

 息子が会社を辞めたというおばさんの21世紀。「あの子は昔から部屋にひきこもるところがあって……でも、あの子が悪いんじゃないの。全部会社のせいなのよ」



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