桜散る夜8 公園3
ゴールデンウィーク以降、職場批判をおおっぴらにしなくなった松月は、朝は9時に出社し、ときどき残業をするようになった。
昼間は督促業務を精力的にこなした。
少々、熱心すぎるくらいに。
二年目三年目が一時間おきに喫煙室ですごす間も、自分の席でノートに何か書きこんでいた。
あるとき、コディ2で松月にきいた。
その日の昼間、僕はチンチクに喫煙室へ呼びつけられた。
松月が熱心なのはいいが少し勘違いしているので同期としてひとこと忠告するように、とコバシリからいわれた。
勘違いしているかどうかはともかく、松月の勤務態度が、二年目三年目をへんに刺激しているのは明らかだ。
松月はまるで取り合わなかった。
そして、たまに二年目三年目と業務分担を巡って口論した。
料金センターの全体業務を、いち早く体系的に把握しようとしていた。
明細書の作成や料金の返還処理は単純で簡単な作業にみえたが、二年目三年目は「お前にはまだ早い」と却下しつづけた。
明細書は管理システムからプリントアウトしたデータを明細作成用ソフトへ手入力して印刷する(このソフトがウィンドウズでなくDOS端末でしか動かないため使いづらい)。
前払い料金の返還処理は決められたパターンに従って返還額を計算する(このパターンが三年目にならないと教えられない)。
何が早いのか。
反論すると、「一人前に仕事もできないくせに」と返される。
それなら仕事を教えてほしいといっても、「お前にはまだ早い」の繰り返しだった。
松月は、ひとつの結論に達した。
ここの業務分担は上下関係を維持するためだけにある。
しかし、現場では迅速な応対が重要なサービスであり、料金センターのような現場においては、すべての社員が全体の業務を把握しているべきだ。
単純で簡単な業務なら、なおさらのこと。
明細書作成や前払い料金返還の依頼があっても、二年目三年目が不在のときは
「担当者が不在でして」
とこたえて、重大なクレームになることはなかった。
電話口であからさまな不満を示す顧客は、「クレーム客」として扱われるだけ。
M社の常識は世間の非常識。
担当者が不在。
よくあることだと誰もが認識していた。
しばらくして、松月は、週に二回の飲み会より残業を選ぶようになった。
どうせ三年目までの集まりだし、行く必要はないのだが(僕も二次会のカラオケは断っていた)、二年目三年目(とヤムダ)はそのペースでなければ絆が崩壊してしまうような具合で結束していた。
僕は、飲み会に参加して、二年目三年目との間にあるどうしようもない溝をいちいち確認するだけの反復にいい加減うんざりして、そうなったときにはもう麻痺していた。
ときおり、彼らと僕の間に溝以外のかすかな何かを感じることもあった。
それはまた、溝の深さをたしかめる小石でもあった。
飲み会の雑音のなか、どこかの崖を緩慢に際限なく転がっていく小石の
コツン、コツン、コツン
という音に耳をすませていた。
僕たちが先輩という言葉を使わない理由は、べつに何でもかまわない。
独特な上下関係を支える業務分担や飲み会のせいではない。
日記には、松月が二年目三年目から受けた教育のことが多く記されている――
お前が何をしようと最低三年はこの部署にいるんだ、とエレベーターのなかで突然コバシリにいわれたこと。
仕事のミスを大袈裟に扱われたこと。
キミはほんとバカだよなあ頭わりいよなあ、と朝からいきなりオオチクにいわれたこと。
――ほとんどは松月からきいたことだ。
日記のなかで、それらの出来事は日々を象徴することがらのよう。
意味がたちまち干上がった言葉の抜け殻のよう。
あいかわらずひと気のない公園だ。
ベンチから立ち上がり、職場へ戻ることにする。
どこにいようと、ただ歩いているだけなら、結局は職場へ戻ってしまう。
そうでないなら、自分の居場所に関心をもつかもしれないが、たいしたことではない。
僕が去れば、誰もいなくなった公園は、世界から跡かたもなくきえる。
ふり返れば、あらわれる。
ケイタイの時計をみる。
三十分ほど外出している。
職場を離れていた理由を考えるのが面倒だ。
「理由がない」というのが理由だから、想像力がまったく働かない。
どうせ愛想がないと思われている。
ぶっきらぼうにやってもかまわない。
仕事のあとの行動は、すぐに思い浮かぶ。
夕食とシャワーと日々の家事をすませ、とくすることもなくラジオや音楽を聴いたりテレビを観たりケイタイのメールをして時間をつぶす。
何をみてもきいても同じ。
12時頃ベッドにもぐる。
アラームはセットしない。
カスタマセンター研修の二日目からずっとそうしている。
会社に遅刻したことはない。
毎朝ほぼ決まった時間に眼をさまし、テレビをつけ、天気予報を確認する。
週間天気予報もみて、翌朝には忘れている。
明日以降のことは、当日の朝にならないとわからない。
いつか寝過ごすのかもしれない。
だけど、カップラーメンの三分のようにそのときを待っているわけではない。
ただなぜかそうしている。
―――――
松月の彼女 in シンガポール。「スパイスかけすぎちゃった。やばい、そうとう辛い。辛すぎてむり。でも、もったいないから食べる。あーーー、辛い……」




