第23話 冷めたのり弁と履歴書
秋の冷たい風が、うぶたけた街の路地裏を吹き抜けていく。
うすら寒い空の下、宗男は公園の古びたベンチに深々と腰掛け、手にしたコンビニのレジ袋を力なく膝の上に置いた。
三十年間、真面目一筋で勤め上げてきた中堅商社の事務職。それが一ヶ月前、会社の業績悪化という一言であっけなくリストラされた。五十五歳。再就職の厳しさは覚悟していたつもりだったが、事務職の求人に片っ端から応募しても、戻ってくるのは不採用通知ばかりだった。
焦りと屈辱に背中を押されるようにして、宗男は「誰にでもできる」と高を括っていた製造業の町工場――「吉村鉄工所」の求人に手を広げた。事務職としてのスキルを一切活かせない現場作業。自分にとってはあまりに不本意で、屈辱的な選択だった。
「誰にでも出来る仕事だというのに……なぜだ……」
宗男は膝の上で固く拳を握りしめた。
今日の面接には、万全を期して臨んだはずだった。三十年の社会人経験を示すため、一番上質なスリーピースのスーツを着込み、靴を磨き上げ、これまでのキャリアを誇る履歴書を丁寧に提出した。
しかし、面接室の待合スペースで鉢合わせしたもう一人の応募者――洋という若い男の姿を見たとき、宗男は思わず眉をひそめた。
よれよれのTシャツに、膝の抜けたジーパン。泥のついたスニーカー。面接だというのに履歴書すら持たず、提出したのはその場で手書きしたようなシワだらけの用紙一枚。どう見ても社会人を舐めているとしか思えない不真面目な身なりだった。
勝った、と宗男は確信していた。いくら人手不足の現場とはいえ、常識のある社会人と、無礼な若者のどちらを選ぶかなど目に見えている。
だが、三十分後に言い渡された結果は、宗男の不採用と、洋の即時採用だった。
「納得がいかん……! あんな舐めた態度のアラフォーにもならない若造が受かって、なぜこの私が落とされるんだ!」
宗男は苛立ちを紛らわせるように、レジ袋から買ったばかりのコンビニのノリ弁を取り出した。プラスチックの蓋を乱暴に剥がし、冷め切ったご飯とちくわの天ぷらを口に押し込む。だが、胃の奥が怒りと屈辱で焼けつくように熱く、喉をまったく通らない。
「チッ……不味いな」
二口ほどかじっただけで、宗男は弁当の蓋を叩きつけるように閉め、ベンチの横にある溢れかえったゴミ箱へと投げ捨てた。半分以上残ったノリ弁が、不格好な音を立ててポリ袋の波に沈む。
「あんた、まだそれ食べられるんじゃない?」
背後から掛けられた唐突な声に、宗男はびくっと肩を跳ねさせた。
振り返ると、ベンチの脇に一人の少女が立っていた。
動くたびにふわりと揺れる長めの茶髪と、どこか深い色をした瞳。一見すると十七、八歳ほどのどこにでもいる少女に見える。だが、動いているのに微細に静止しているような、妙に浮世離れした違和感があった。
――残飯の女神ノコリ。
宗男の制止を気にも留めず、ゴミ箱の前にしゃがみ込むと、宗男が捨てたばかりのノリ弁の容器をひっぱり出した。
「おい! 何をしているんだ君は! 人が捨てたゴミを漁るんじゃない!」
宗男が慌てて立ち上がり声を荒らげると、ノコリは冷めた目を彼に向けた。
「ゴミじゃないよ。あんたが勝手に諦めただけでしょ。ちくわの天ぷら、端っこしかかじってない。ご飯だってほぐせばまだ食べられるのに」
「そういう問題じゃない! 私は気分が悪いんだ。腹が立って喉を通らないんだよ!」
「ふーん」
ノコリは軽々しく受け流すと、お弁当箱を両手で持ち直し、軽妙な口調で言った。
「ノコリでいいよ。……で、何にそんなに腹を立ててるの? スーツのおじさん」
宗男は一瞬毒気を抜かれたが、自分の中に渦巻く理不尽な怒りを誰かにぶつけたくてたまらなかった。相手が訳のわからない少女だと分かっていても、吐き出さずにはいられなかった。
「今日、町工場の面接を受けたんだ。私は三十年、大手で事務職を務め上げてきた。今日も万全のスーツで、社会人としての常識とキャリアを示した。だが落とされた! 代わりに受かったのは、Tシャツにジーパンで面接に来た、履歴書もロクに書けないような礼儀知らずの若造だ! これが腹を立てずにいられるか! あの工場のアホな面接官は、見る目がなさすぎるんだ!」
一息に捲し立てた宗男は、肩を上下させて息を吐いた。
しかし、ノコリの表情は一切変わらなかった。彼女は軽蔑するでも、同情するでもなく、ただ呆れたように息を漏らした。
「あんた、外側だけスーツで綺麗に飾ってるけど、中身はスカスカだね」
「何だと……!?」
「服が立派でも、中身の人間が『こんな仕事、本当はやりたくない』って顔してたら、誰だってわかるよ。……あんたが残したお弁当、見せてもらうよ」
ノコリは宗男の反論を無視し、手に持ったノリ弁の容器に残った冷めたご飯へ、そっと指先を触れさせた。
——魔法『残響』。
ノコリの脳裏に、そして空間の震えを通じて宗男の意識の底に、食べ物に刻み込まれた強烈な記憶の断片が流れ込んできた。
――冷たい雨が降る、昨日の路地裏。
Tシャツ姿の若者――洋が、ボロボロの靴を濡らしながら、街灯の下で小さなパンの耳をかじりついていた。彼の財布の中身は、数枚の小銭しかない。家賃は滞納し、明日食べるパンすら買えない極限状態。
『頼む……何でもいい……使ってくれ……! 俺にはもう、これしかないんだ……!』
面接の待合室。洋はTシャツ姿のまま、血の走った目で必死に作業工程の掲示板を暗記していた。面接官の前に立ったとき、洋は深々と頭を下げた。
『経験もありません! 服もこれしかありません! でも、俺は今日採用してもらえなきゃ、明日食べるご飯もありません! 死ぬ気で働きます! どんな泥仕事でもやります!』
その目には、明日を生きるための本物の「飢え」と、逃げ場のない「覚悟」が宿っていた。
――画面が切り替わり、今度は宗男の記憶。
今朝の豪華なマンションの玄関。姿見の前で高級スーツの襟を正す宗男。
『ふん、製造業の現場作業など、私のようなベテラン事務職がいれば一発だ。貯金も退職金もまだ十分にある。まあ、落ちたら落ちたで、また別の仕事を探せばいい』
面接室での宗男の態度。面接官の問いに対して、どこか見下したような笑みを浮かべ、過去のデスクワークの栄光ばかりを語る姿。面接官の目は、冷ややかに宗男の手元――余裕からくる油断と、現場仕事をどこか軽んじている「甘え」を見抜いていた。
残響が途切れた。
ノコリは指を離し、ふうと静かに息を吐き出した。
魔法で見えたのは、二人の間にあった「覚悟の重さ」の決定的な差だった。面接官が選んだのは、スーツという外飾りの常識ではなく、命をかけて現場にしがみつこうとする洋の「飢え」だったのだ。宗男の「まだ大丈夫」という心の奥底にある慢心が、面接官には完全に見透かされていた。
宗男は膝を震わせ、公園の地面を見つめたまま固まっていた。
残響を通じて、自分がいかに浅はかで、上から目線で面接に臨んでいたかが頭の中に直接叩き込まれたのだ。洋のあの必死な目と、自分の腹の底にあった「いざとなれば貯金がある」という甘え。
「……な、なんだ……今の映像は……」
宗男の声が途切れ途切れに漏れる。
ノコリは宗男に同情することなく、冷ややかな声で告げた。
「あのTシャツの人はね、明日を生きるために今日のご飯が必要だったんだよ。だから、どんな仕事でも泥をかぶる覚悟でそこに来てた。……でもあんたは違った。『本当は事務職がいいんだけど、仕方なく来てやった』って顔をして、心の中でその仕事を馬鹿にしてた。あんたのその余裕と甘えが、面接官には一番不気味に見えたんじゃない?」
「私は……私は真面目に生きてきたんだ! 三十年も会社のために――」
「三十年会社にいたから何?そんな経験役に立たないよ」
ノコリはズケズケと言い放った。
「経験を誇るのはいいけど、新しい場所に行くのに過去の肩書きにしがみついてちゃ、ただの邪魔な荷物でしょ。あんた、スーツは着込んでたけど、心は何も着てなかったんだよ。中身が空っぽのハンガーと同じ」
宗男は言葉を失った。
怒りすら湧いてこなかった。突きつけられた真実はあまりにも残酷で、自分がいかにプライドという名の透明な鎧に守られ、現場の厳しさから逃げていたかを嫌というほど思い知らせていた。
「あんたが捨てたこのノリ弁さ」
ノコリは手に持ったお弁当箱を見つめた。
「半分以上残ってるけど、冷めて油が回って、もう美味しくない。あんたのそのプライドと同じだね。捨てられないまま、腐らせてる」
「その腐ったプライドを抱えてそのまま飢えるか、それとも脱ぎ捨てて泥をかぶるか。……あたしには関係ないけどね」
「待ってくれ……! 私は……私はこれから、どうすれば……」
宗男がすがるように声を絞り出したが、ノコリは振り向くことなく、夕闇が迫る路地裏へと去っていった。
公園に一人取り残された宗男は、ベンチに深く沈み込んだ。
すっかり冷え切った秋の風が、彼の高級スーツの生地を冷たく叩く。
洋のように着の身着のままで泥に飛び込む覚悟も持てず、かといって過去の誇りを捨て去ることもできない。宗男の手元には、まだ十分な貯金と、使えなくなったプライドだけが残されていた。
自分はこれから、どこへ向かえばいいのか。
宗男は夕闇に包まれていく公園のベンチで、ただ一人、深く頭を垂れて立ちすくむことしかできなかった。
街灯がぽつりと灯り始めた街角。
ノコリは歩道橋の上の影に腰掛け、懐から古びた日記帳を取り出した。何度もめくられた革の表紙を指で撫で、ペンを走らせる。
『人間は、外側をどれだけ着飾っても、腹の底にある「甘え」を隠しきれない』
『三十年の誇りは、明日を生きるための飢えに敗れた』
『冷めきったノリ弁の油は、男が手放せないプライドの味がした』
ペンを止め、ノコリはパタンと日記帳を閉じた。
「……まったく、人間ってカッコつけることばかりに夢中で、自分の心の飢えには鈍感なんだから」
ノコリの口角が、わずかに冷ややかに上がった。
彼女は深い色の瞳で、群青色に染まった夜空を見上げる。
ビルの谷間から月が寒々と光っていた。
ノコリは日記帳を腕の中にしっかりと抱え直し、次の「残された想い」が待つ街の闇の中へと、静かに歩みを進めた。




