第22話 墓標に残されたお饅頭
秋の湿った風が山あいの古びた墓地を吹き抜け、枯れ葉を墓石のすき間へとカサカサと転がしていく。
白く薄曇った空の下、大樹はコートの襟をかき合わせ、黒ずんだ墓石の前にただ一人で立ち尽くしていた。定年退職を迎え、これからの長い余生を年金とわずかな蓄えだけでどうやり過ごすべきかと考え始めた矢先、寺の住職から手渡された一枚の書類が、彼の足元を深く揺さぶっていた。
「……墓じまい、か」
呟いた声は誰の耳にも届くことなく、冷たい風の中へ消えていく。
大樹には妻も子どももいない。身寄りといえば、この墓に眠る両親だけだった。若い頃は仕事に追われるまま過ぎ去り、気がつけば定年を迎え、誰からも必要とされない独り身になっていた。自分がこの世を去った後、この墓を誰が守り、誰が手を合わせるというのか。答えは明白だった。後を継ぐ者はどこにもいない。だからこそ、管理のできなくなる前に「墓じまい」をして更地に戻すよう、寺から催促されていたのだ。
頭では理解していた。放置して無縁仏になるくらいなら、自分の手で区切りをつけるべきだと。だが、ポケットの中に押し込んだ申請書類にどうしても署名することができず、かれこれ一時間も墓石の前で立ちすくんでいた。
墓石の台座には、数日前に大樹自身が供えた茶色いお饅頭がひとつ、ぽつんと取り残されていた。秋の乾いた空気と冷気に晒され続けたそれは、水分をすっかり奪われ、表面がひび割れてまるで石のように硬く乾燥しきっている。
自分が死んだとき、誰が自分の存在を覚えていてくれるだろう。
自分が去った時、誰がこの墓にお供えをするのだろう。
この墓石という唯一の証すら手放してしまったら、自分という人間がこの世に生きていたことすら、誰にも知られずに消えてしまうのではないか。そんな底知れぬ恐怖が、大樹の足を石のように縛りつけていた。
「ねえ。それ、もうカチカチで石みたいだよ。誰も食べてくれないの、お饅頭がかわいそうじゃない」
不意に背後から声がした。
振り向くと、そこには不思議な装いの少女が立っていた。動くたびにふわりと揺れる茶色の髪と、深い色の瞳。一見すると十七、八歳ほどのどこにでもいる少女に見えるが、その佇まいには人間社会の時間の流れからぽつんと切り離されたような、妙な違和感が漂っている。
――残飯の女神ノコリ。
大樹の制止を気にも留めず、墓前に置かれた乾燥饅頭にスッと顔を近づけ、細い指先でツンツンと突いた。
「な、なんだ君は……! 人のお墓で勝手に何をしているんだ」
「別に。だって、ずっとそこに転がってるんだもん。これ、もう『食べ物』じゃなくて『残されたゴミ』になっちゃってるよ」
「ゴミとは何だ! それは両親への供え物だ!」
大樹が思わず声を荒らげると、ノコリはゆっくりと顔を上げ、冷めた目を彼に向けた。その瞳は、大樹の顔を見るよりも、彼がポケットを握りしめている手元を観察するときの方が遥かに鋭かった。
「供え物ねえ。でも、お墓の主はこんな干からびたものより、あんたの困り顔に参ってるんじゃない?……それ、手に持ってるの、お墓を壊す書類でしょ」
「っ……!? なぜそれを……」
大樹が息を呑むと、ノコリはくすりと意地悪そうに口角を上げた。
「顔に書いてあるよ。『僕は一人ぼっちだから、これくらいしか縋るものがないんです』ってさ。……あんた、お墓を大事にしてるんじゃないよね。自分が寂しいから、石ころにしがみついてるだけじゃない」
「君に何が分かる! 子どもも親戚もいない人間の惨めさが、そんな若い娘に分かるものか!」
感情を爆発させた大樹の言葉を、ノコリは軽く受け流した。
「ノコリでいいよ。あたしは人間じゃないから、あんたの悲劇なんて分かんない。でもさ……残されたものの声くらいは聞こえるよ」
ノコリはそう言うと、大樹が制止する間もなく、乾燥してひび割れたお饅頭の表面に、躊躇なく自らの指先を触れさせた。
「あんたが供えたお饅頭、見せてもらうよ」
指先が固い皮に触れた瞬間――魔法が発動する。
——魔法『残響』。
ノコリの脳裏に、そしてその場に漂う空気の震えを通じて大樹の意識の底に、お饅頭に刻まれた過去と現在の記憶の断片が、強い匂いと温度を伴って立ち上がった。
――もう何年も前の、温かな茶の間の光景。
まだ幼かった大樹が、父親の膝の上にちょこんと乗り、満面の笑みでお饅頭を頬張っている。母が淹れた緑茶の湯気が立ち上り、ちゃぶ台を囲む家族の笑い声が部屋中に満ちていた。母が優しく笑いながら「大樹、半分こにしようね」と、柔らかいお饅頭を割って渡してくれた手つき。甘い餡子の匂いと、自分は愛されているという確かな手応え。
映像が音を立てて崩れ、冷酷な現在の記憶へと切り替わる。
――誰もいない、静まり返ったアパートの一室。
天井の蛍光灯が無機質な音を立てる中、定年を迎えた大樹は一人きりで、スーパーの割引シールが貼られた冷め切った惣菜を黙々と口に運んでいた。テレビの無意味な雑音だけが部屋に響き、誰とも言葉を交わすことなく、ただ壁に自分の影を落としながら老いていく自分。
過去の圧倒的な温もりと、現在の冷え切った孤絶。
お饅頭に刻まれていたのは、大樹がずっと見ない振りをしていた「自分はもう誰からも必要とされていない」という残酷な現実だった。
残響が途切れる。
ノコリは静かに指を離し、ふうと息を吐き出した。
魔法が見せたのは、ただの記憶の断片に過ぎない。大樹の孤独を癒やすこともできなければ、彼が抱える老いと死への恐怖を消し去ることもできない。魔法は事件を解決する便利な道具ではなく、人間の弱さを容赦なく突きつける鏡に過ぎなかった。
「……ハッ。水分が抜けた餡子みたいに、パサパサで喉に詰まる味だね」
ノコリは不機嫌そうに呟いた。
「あんたが失いたくないのは、お父さんやお母さんとの思い出じゃないよ。『誰かに愛されていた過去の自分』だ。……でもさ、その思い出の場所を守るために、干からびたお饅頭を放置して、一人でシクシク泣いて……それって本当に『供養』なの? ただの現実逃避じゃない」
ズケズケと言い放たれた言葉が、大樹の胸を深く抉った。
大樹は反論しようと口を開かけたが、声にならなかった。怒りではなく、隠していた惨めさを全て暴かれた恥ずかしさと情けなさで、膝から崩れ落ちそうになった。
「私……私は、ただ……」
大樹の声が震える。
「この墓まで無くしてしまったら、私がこの世にいた証拠が、どこにも残らなくなってしまう……。父さんも母さんも、私が死んだら、誰にも思い出してもらえなくなる……」
ノコリは大樹の言葉を静かに聞いていたが、同情するような甘い顔は一切しなかった。
「証拠なんて、最初からどこにも残らないよ。人間はみんな消えるんだから。……残すか捨てるか決めるのは、あんた自身だ。」
ノコリはそう吐き捨てるように言うと、くるりと背を向けた。
大樹は誰もいなくなった墓地の中で、一人ぽつんと取り残された。
風が強く吹き抜け、彼のコートの裾を激しく煽る。
大樹はゆっくりと立ち上がり、ポケットからあの申請書類を取り出した。
どちらを選んでも、彼を待っているのは救いのない孤独だった。
墓を残し続ければ、自分が死んだ後に無縁仏として放置され、誰にも知られず荒れ果てていく未来が待っている。墓を閉じれば、両親とのつながりを証明する最後の形を、自らの手で破壊することになる。
大樹は震える手でボールペンを握り締め、墓石の平らな面に用紙を置いた。
涙で視界が滲んでいたが、彼はついに、署名欄に自らの名前を書き込んだ。
そして、書類をしっかりと封筒に収め、糊を付けた。
両親との思い出という「過去へのしがみつき」を捨てる決断。
だが、その決断によって彼が手に入れたのは、希望でも救いでもなかった。ただ、自らの足で歩いて帰らなければならない、冷たく静まり返ったアパートの部屋という「逃げ場のない現実」だけだった。
大樹は一度も振り返ることなく、重い足取りで墓地の坂道を下っていった。その背中は、過去を断ち切った男の強さなどではなく、ただ小さく、切なくすり減っていた。
夜風が冷たく吹き抜ける街角。
ノコリは街灯の薄暗い明かりの下で、持ち歩いている古い日記帳を開いた。
彼女はペンを取り出し、淡々とした筆致で今日の記憶を文字として刻んでいく。
『人間は、失う恐怖に耐えかねて過去にしがみつき、そして最後には自らの手でその絆さえも切り捨てる』
『乾燥したお饅頭には、誰にも継がれないまま風化していく記憶の味がした』
『誰もいない部屋へ帰る男の背中は、あまりにも軽くて、あまりにも重かった』
書き終えると、ノコリはパタンと日記帳を閉じた。
「……人間って、本当に虚しい生き物だね」
ノコリの口元に、わずかに皮肉めいた、けれどどこか寂しげな笑みが浮かんだ。
彼女は深い色の瞳で、誰もいない暗い空を見上げる。
そこには、冷たく光る星が、人間の蠢く街をただ無感情に照らしていた。
ノコリは日記帳をしっかりと抱え直し、次の「残された想い」が待つ闇の中へと、ゆっくり歩き出した。




