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20 王権の証

 緋い十字槍を携えた女、ヴァイオレットはその刃で怪物を押し退け、吹き飛ばした。怪物はヴィオレを敵と見なし、攻撃を仕掛けるもその(ことごと)くが弾かれ、いなされる。緋の槍と石化した左足が競り合い、火花が散る。打ち勝ったのは女だった。怪物は転がるように身を逃し、体勢を整えると、ヴィオレへと混じり気のない敵意をぶつけた。

 一連の攻防の内、彼女の身体に触れたのは肩に掠れた、たった一撃のみ。その傷を気にする様子さえ見せずに、彼女はユリアスの方へと向き直った。


「お久し振りです、ユリアス様」

「は…?いや……ああ、久し振り……?」


 彼女は至って普段通りで、怠惰に緩んだ空気もそのままだった。場にそぐわない、ともすれば気の抜けた挨拶に、ユリアスは戸惑いで応える。だが、その呆けた表情も、直ぐに塗り替えられた。ヴィオレの肩から染み出す血に、表情を険しくする。


「ヴィオレ、傷が」


 物が焼けるような音と共にヴィオレの肩が削られていく。溶解液に、その肉が爛れ始めていた。対して、彼女は殆ど動揺もなく、己の傷を一瞥した。


「……ああ、毒ですか」

「な──」


 異常な光景と、そこから導き出される事実に、ユリアスの喉が縮まった。血が付着していない。傷もない。無くなっていた。まるで、蜃気楼が掻き失せるように、もしくは、()()()()()()()()()。傷は緋い霧となり、蒸発するようにして消えた。

 それに名を付けるなら一つ。オーガを始めとする高位魔獣の得意技。


「『超再生』…?まさか」


 口を衝いたそれは、本来ならば有り得ない可能性だ。種族魔術は、(ヒューム)ならざるモノ、いわゆる魔物や魔族、神獣のみに許された力である。ならば、(あらかじ)め霊術を仕込んでいたと考えるのが妥当の筈だ。しかし、どうにもそうとは思えない。術が仕込まれていた気配は微塵も感じなかった。


「……その通りです」

「…ヴィオレ」


 あっさりと、ヴィオレは己が人外であると認めた。


「私は、吸血鬼(ヴァンパイア)。貴方達の言う『化物』、その筆頭です」


 魔族の中でも上位に目される吸血鬼。真祖の流れを汲むものは、生まれながらにAAランクが確定すらしている、正しく化物だ。

 基本的に、魔族と人族は相容れない。吸血鬼族や悪魔族は、人族と血と憎悪で結ばれた、語り尽くせぬ因縁がある。

 彼女は人外で、ユリアスのような人族とは敵対する種だ。ユリアスから疎ましく思われるかもしれない。その不安を鉄面皮で覆い隠して、彼女は彼へと尋ねた。


「貴方は、そんな私を受け入れますか?」

「当たり前だ」


 考える必要はない。慰めでもなかった。自分の思うままに言葉を発す事が、何よりの彼女に対する誠意だと信じ、ユリアスは言い切った。彼女が、ヴィオレであるという確信があった。彼女が彼女であるならば、種族等、些末事でしかないのだと。

 それを聴き、ヴィオレはその無表情を僅かに崩し、そうですかとだけ呟いた。


「ユリアス様。アレの相手は私にお任せ下さい。貴方様の邪魔立てはさせませんので」

「……ヴィオレ…君はどこまで知っている?」


 怪物は拘束されたように動かず、ユリアスはその理由を知る由もない。腹立たしげに此方を睨め付けるそれは、戦意を失った様子は微塵も無かった。警戒を保ちながらも、彼女へ問い掛ける。


「…そうですね。貴方が魔王である、という事と、神器の下へ向かっている最中である、という事くらいでしょうか」

「………そうか」


 言葉少なく、ユリアスはただ頷いた。聞きたい事は山程にあった。何故、ヴィオレがここに居るのか。ヴィオレは何者なのか。数え始めれば切りがない。複雑な想いも、答えを簡潔にした一つの要因であった。


「ユリアス様」


 ヴィオレの声が響く。いつもの投げやりな雰囲気は欠片もなく、そこには憂慮と、確かな好意があった。


「貴方様が、何を想い、何を覚悟して、自ら魔王となる道を選んだのかまでは、私は知りません」


 ですが。そう言うと、彼女は今迄になく真摯な、改まった様子でユリアスを見詰めた。


「貴方様が傷付く必要はないのです。あの神獣を殺したい、そう仰るならば、私が代わりに殺しましょう。もし、全てを忘れたいと仰るならば、私が貴方様の記憶も封じましょう。今まで通りの暮らしが送れるように」


 貴方様は、如何したいのですか? そう、覚悟を問いかけた。

 それは甘い囁きなのかも知れない。引き返す最後の機会なのかも知れない。それでも、ユリアスに引く気はなかった。神獣を殺す事が目的ではない。サクヤを助ける事こそが目的なのだから。何より、己は戦士だという強い自覚があった。怖気付いた戦士など置物にもならない。そのような為体(ていたらく)、愧死に値する。


「いや、いい。ヴィオレが戦うというのなら、俺も一緒に戦おう。それで答えになるか?」

「…ええ。…はい」


 ヴィオレは首を垂れ、口数少なく肯定する。彼女の肩を借りながら、ユリアスは身を起こした。骨が折れ、激痛を訴える左半身を妖力で強化し、強引に体勢を保つ。


「ヴィオレ」

「何でしょうか」


 首を傾げる彼女に、緊張を押さえつけ、口にする。彼女もまた、こんな気持ちだったのだろうかと思えば、緊張は軽くなった。


「俺は、場合によっては人を辞めるかもしれない。その気が無くとも、種族も生き方も、今とはかけ離れたものになるかもしれない。それでも、そんな俺を受け入れてくれるか」

「当たり前です」

「……そうか」

「ええ。御安心下さい。貴方様の身に何があろうと私だけは、永遠に貴方様の味方ですから」


 迷う素振りすら見せずに、答えは即座に返ってきた。それに俯き、笑みを忍ばせた。やはり、嬉しいものだった。


「…そうか。ありがとう。行ってくる」


 膝を曲げ、足を上げる。砕けた左半身を引き摺り、ユリアスは両開きの扉へと歩き始めた。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 足に『影』が纏わり付き、自由を失った怪物が女を忌々しげに睨み付ける。血走った目は怒りと屈辱に曇り、膨張した筋肉が充血し、赤く染まっている。どうにかして眼前の女を殺したかった。一番の良い所で邪魔をし、剰えこのような不愉快極まりない待遇を与えるとは、と。


「rarararara」


 怪物は己の使命を間違うこと無く認識していた。受けた命令、即ち『魔剣の破壊』、そして『魔王の殺害』。その命令を履行する為、その砕け欠けた足をやたらに動かそうとする。だが、その行為に現状を変え得る力は備わっていなかった。


「rura,ru,ra,ra,ra,raaaa……」


 重なる様に響く鳴き声を奏でながら、邪魔者を見据える。黒い髪の女。緋い瞳は感情を映さず、ただ人形のように、微動すらせずに佇んでいた。


「全く…助かりましたよ。貴女が来なければ今頃どうなっていた事か」


 そこに、一人の男が現れた。返り血を滴らせる黒の鎧とくすんだ金髪、酷薄に歪んだ口端。肥大化した左腕に怪物の首を提げた男だった。


「お久し振りです。()()()。いえ、今はヴィオレ、でしたか?」


 慇懃丁重に頭を下げるその男を軽く一瞥し、女は嫌々とばかりに口を開く。


「……久し振りですね、オーエノルド。一応、今はヴァイオレットと名乗っていますが」


 それがどうかしたのか、と暗に言う女を意識せず、男は一人気ままに話す。戦闘前にはあった焦燥はなく、女の実力を信じ切り、気を緩めてすらいた。


「ほお、つまりは愛称ですか。仲が良好なようで何よりです。…それにしても、貴女には本当に助けられましたよ。私とした事が手間取ってしまいましてね。ですが貴女が帰って来たからにはもう何も問題はありません。こうして再会できた喜びを共に分かち合おうじゃありませんか」


 一人で喋り続ける男に、女は面倒臭そうに、鬱陶しそうに小さく鼻を鳴らした。男は変わっていなかった。百年前の女の記憶と、嫌気が差す程一致していた。悪魔らしいといえば悪魔らしいが、この『変わらなさ』が過去の苦い思い出を掘り起こしてくるのだ。


「…それで?何の用ですか?」

「冷たいですね…。一応これでも貴女の兄貴分なのですが。百年前はあんなに懐いて………なかったですね」

「兄?私に一度も勝てた事がないのに?」

「……『宵月王(レクスノクティス)』に勝てと? 触れねば力を発揮できないこの私に? 神器も持たない私ではとてもとても……無理を仰る」


 彼とて決して弱い訳では無いが、彼女と比べれば幾分か格が落ちる。彼女こそはSランク神宿者(ホルダー)冠持ち(クラウンホルダー)でありながら、生まれついての種族にも恵まれた、最強格の存在だ。対して彼はAAAランク。その差は歴然としていた。

 男は大袈裟な手振りで否定を示すと、窓から伝わる喧騒に耳を傾け、それから滑稽にも藻掻く怪物を嘲笑と共に見遣った。


「リンカ、どうします? まあ要らないでしょうが、加勢は必要ですか? 今は高く日が登っています。貴女の力は充全には程遠いでしょう?」

「不要です。それに、あの方に傷を付けた事、私の手で後悔させねばなりませんので」

「ははは! 良いですね。可能な限り、酷く苦しく殺してやって下さい」


 光の薄い瞳を細める女に、男は愉快そうに手を打つ。それを無感動に受け流し、女は緋色の十字槍を構え直した。


「貴方は下の加勢にでも行ってください」

「勿論。陛下の護衛は貴女に任せます。()()()()()()()()()。私もまた、全力で被害を抑えますので。それでは、御武運を」


 男はそれだけ残して去っていく。それを確認せずに、女は会話の間、延々と足掻き続けていた怪物に向き直る。


「…………」


 語る言葉はない。死を宣告する必要もない。女が身に纏う暗い灰色のロングコートの一部が、靄に包まれ、黒の鎧へと変化した。

 彼女はSランク神宿者(ホルダー)、『宵月王(レクスノクティス)』。固有魔法は『虚月』。闇を手繰り、影に潜む、夜の双王が片割れ。

 その神器の名は『夢貌(オネイロス)』。あらゆる質量、あらゆる(かたち)を取る、()()は衣服形の神器だ。その手に握られるは、吸血鬼の王家に伝わる至宝たる名槍『極緋(キョクヒ)』。それらを携えた彼女を打ち破れる存在など、そう多くはない。今が例え昼間であるとしても、この怪物が彼女に勝てる道理は一つもなかった。


「GUUUU、RAAaaaaaaaaaaaaa!!」


 漸く『影』を引き千切り、自由になった怪物は殺意と悪意に彩られた絶叫を上げる。父の形見たる宝具を構え、女は、血の色に塗れた殺意を、その緋い瞳に浮かべた。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 閂が外され、重々しい音と共に大扉が開かれていく。そこに人気はなく、寂れた空気で満ちていた。嘗ては多くの家臣達が膝を付き、頭を垂れていたであろうが、今となっては矢鱈に広い空間があるばかりで、一人の雑兵さえ残っていない。

 細かな装飾の施された柱は荘厳に立ち並び、その間には偉角羊(カルデン)の羊毛で編まれた絨毯が敷かれている。貴石があしらわれたシャンデリアは複雑に輝きを反射し、天井から等間隔に垂れ下がる、魔王の紋章(シジル)が刻まれた旗が王の威光を顕す。最奥には磨かれた黒の玉座が備えられ、その手前には色褪せた白の大剣──魔剣『皇魔(レガリア)』が突き立てられていた。その、台座に突き刺された身の丈程もある大剣に向かって、足を動かす。


「…………」


 足元が覚束ない。砕けた半身を引き摺りながら、赤い絨毯の上を進む。身体を僅かに動かす度に、身体中に激痛が走った。左半身から血が垂れ落ち、絨毯を彩る金糸に染み入る。ひしゃげた腕が限界を迎え、盾が左手から抜け落ちた。駆け巡る激痛に、妖力を使い過ぎてはいないか、これ以上の戦闘は可能か、考え、やめた。


 今、魔剣より他に重要な物など、存在しなかった。

 執着心に意識が絡め取られる。自身が蝕まれていく感覚。だが、それは欠けていた何かが填め込まれていく感覚でもあった。


「……」


 台座の前で両足を揃えた。王権の象徴たるこの剣は、成程確かに、謁見の間、玉座の前が良く似合っている。

 魔剣に黒の()()が浮く。一つ。また一つ。それは、脈動していた。無機質さを感じさせない、生物的な大剣だった。血管が浮き上がるのに伴い、段々と刀身に蒼の紋様が滲み出る。それに、伸ばした指先を向ける。


「…」


 右手の中指の先端が柄頭に触れた。五指を広げ、黒染めの柄に被せると、包むように握っていく。欠けていたモノが手に戻り、漸く、漸く、その魂が、完成へと向かって動き始めた。皇魔は、その身を預けるに相応しい、真なる主に狂喜し、()()が裂け、黒い血液が刀身を覆い、白銀から漆黒へと塗り潰していく。血液はそれに留まらず、主を()()させようと、その手を伝い、身体に這い初め───────


 ユリアスは、剣の柄から吹き出した【黒】に、呑み込まれた。



◆ ◆ ◆ ◆



 一人の少年が、メイドに手を引かれ、走っていた。走って、走って、走って。炎上する街の門前で足を止めた。メイドの髪は黒く、瞳は緋い。対して、少年の髪は黒。そして、深い蒼の瞳を持っていた。彼の名を、ユリアスと言った。


「申し訳御座いません、ユーリ様。出来るだけの事はやりました。ですが、曇天とはいえ今は昼。私の力は、弱すぎる」


 メイド、リンカの懺悔が少年の耳を通り抜けた。少年はただ己を無くし、倒壊していく街を眺め続けた。火の手は関所にまで達し、街は真っ赤に染まっている。少年は未だに状況が飲み込めていなかった。

 守るべき、そう教わってきた街の人達が死んだ。妹のように可愛がっていた少女が死んだ。剣の師であり、誰よりも尊敬していた父が、死んだ。殺された。


「……旦那様を、お救い出来ませんでした」


 少年は身体を戦慄かせ、焼け付いた喉を詰まらせた。眼が熱い。熱波に粘膜が燻されていく。蒼眼から雫が滴り、瞳を濡らす。

 何もできなかった。復讐心に駆られて切り掛かろうにも、足がすくんで、動けなかった。結局、リンカに抱えられ、逃げてしまった。

 リンカに責はない。弱く、力もない癖に魔物を呼ぶ自分にこそ責がある。情けなさに脳裏がひりつき、呼吸が乱れる。汗の滲んだ手から剣がすり抜け、乾いた音を起て、地面に横たわった。


「…俺の所為なのか」


 あの、首無し騎士(デュラハン)共の長、銀の騎士は『魔王』と口にした。他の誰でもない、少年を指してそう呼んだ。

 一説によれば、高位の魂を持つ者は、何処に居るのか、それが何の魂なのか、知られてしまうらしい。ならば、あの騎士がこの街を襲ったのも、偶然ではない筈だ。あの騎士が、魔王を、少年を狙っていた事は明白だった。


「俺の所為で、この街は滅んだのか。……俺が、魔王なのか」


 無かった事にしたかった。押し潰れそうな程の責任感も、身を引き千切らんばかりの罪悪感も。全て忘れてしまいたかった。『魔王』、あの騎士に言われた時、『自覚』が芽生えた。己こそが魔王であるという自覚。それは己の最期に対する何よりの理解でもあった。


 自身の責任で街が滅んだという事実。騎士へと向ける憎悪。勇者達に殺される結末。その全てが、少年の心を追い詰めた。少年の心にはあまりに重すぎるそれを、しかし、今更知らない振りなど出来なかった。


「なんで」


 自身の心を守る為、騎士に対する殺意が、鮮烈に刻まれていく。だが、自分勝手に逃げ出して、その果てに復讐などと、滑稽ではないか。それも分かっていた。


「なんで」


 二人の幼馴染みは、何処に行ってしまったか分からない。もしかしたら、死んでしまったかも知れない。自分のせいで。何が悪かったのか。何か間違えたのか。生まれを間違えたのだろう。生まれを間違えたから、自分は狂わなければならないのか。


「なんで」


 頭が痛い。頭蓋に罅でも入ったように、ガンガンと疼く。知らない記憶が氾濫し、脳を掻き乱し、攪拌する。


「なんでッ」


 内側から膿み、腐り、崩落していく。魂が澱んでいく。これ以上なく呪われた魂に、己で呪詛を重ねていく。

 未だ幼い少年は、それを堪える術も、止める術も知らない。侵食されていく感覚に恐怖し、成す術無く潰される。


 己が何をしたというのか。何もしていない。何も成せなかった。助けてくれと請われたからそうした。護りたいと思ったから盾となった。それが敵だと云うのなら、大戦を生き延びた貴神だとしても、迷わずこの手に掛けた。その何処に誤りが、罪があるというのか。王として民を想い、繁栄を願い、同胞の安寧の地を拓こうと、保とうとした。それさえ許されなかった。憎い。腹底が捩れそうだ。己が憎い。白が憎い。何より、勇者が憎い。愛を語らい合ったその口で謗り、背中に回し合ったその腕で殺意を示した。心臓を引き裂く裏切りを、忘れはしない。怪物と罵り、糾弾し、迫害してくる物を家族などと呼べるものか。だから殺した。害される前に殺した。その判断に後悔などない。誇りは踏み躙られ、悪名と共に語られた。大切なモノを護ろうとして、護れた事は一度もなかった。憎悪が魂に影を落とした。悲哀に啜り泣き、殺意が胸倉を掴み、凶気に吼え立てる。心に棲む全てが、それ等のみへと染まっていく。



「───────」



 不意に、温かな物が少年を包んだ。良く知っている匂いだった。自分に忠義を立ててくれている、一人の女性の匂いだった。


「あ…」


 己を抱き締める彼女の貌を見た。抑え漏らした感情に、無表情が崩れていた。最近になって、漸く顔に色が表れるようになった彼女は、泣きそうな眼で少年、ユリアスを見詰めていた。


「貴方は私の空白を埋めて下さった」


 そっと、頭を撫でると、女性は少年の顔を見て、くしゃりと表情を歪めた。


「そんな顔を、していて欲しくはないのです」


 少年の頬に、冷たい手が添えられる。焦げ付く空気の中で、その手は何よりも確かな物に感じられた。熱の無い掌は、それでも温もりを持っていた。


「ユーリ様、御命令下さい。貴方様の記憶を封じる許可を、私に御降し下さい。私には、それが出来ます。今の貴方様には早過ぎたのです。街がこうなり、加えて魔王だと自覚さえしてしまった。この記憶を封じなければ、貴方様は自我を保てないでしょう」


 メイドの言葉に少年は喉を詰まらせた。忘れたかった。けれど、忘れてはならない事だと知っている。けれど、このままでいれば壊れてしまう。だから、


「忘れさせて、ほしい」

「分かりました」

「でも、忘れてはいけないんだ。これは手放してはいけない物だと思う」

「……」

「だから、例えば…夢の中でだけ、思い出せるようにしてほしい」

「……それで良いのですか。それは、悪夢ですよ?」

「……うん」


 メイドは意見を呑み込み、従順に頷くと、少年の足元で跪いた。


「…リンカ?」

「貴方様には、今日の出来事の記憶を忘れて頂きます。『あった』という事実だけは認識できるようにしますが、魔王に関連する記憶は完全に封じます。その上で、夢の中でだけ、思い出せるようにします。宜しいですね?」


 無言で首肯する少年に、メイドは頷き、続ける。


「私は、これから、あの騎士の足留めをしに行きます。そこからは、街道に沿って走って下さい。三日もすればソランという町に着く筈です。着いた後はこの手紙をソランの冒険者ギルドの職員…赤い髪に灰色の眼をした女性職員に渡して下さい。そうすれば、面倒を見てくれますから」

「でも……あの騎士に挑むのか?…無茶だ。リンカには、死んでほしくない。………俺も、連れていってくれ」


 少年の言葉に嬉しそうにメイドは微笑んだ。小さな主に必要とされれば、生きて帰ってくる可能性も上がろうというものだった。だが、少年を死地に伴う積もりは毛頭なかった。


「有難い御言葉ですが、ここは私一人にお任せ下さい」

「だけどッ」

「ユリアス様!」


 その剣幕に、少年は弾かれたように瞳を見開き、言葉を途切れさせた。それから項垂れ、己の非力を呪った。


「なりません。お聞き入れ下さい。どうか…」

「…」

「…それに、問題ありません。私は神宿者(ホルダー)『新月の王』。であると同時に、吸血鬼(ヴァンパイア)でもあるのです。多少傷付こうと、死にはしません」

「え………」

「気持ち悪いですか?」

「いや、リンカなら、神宿者でも、吸血鬼でもいい」


 小さな主の声に躊躇いはなかった。不器用な程真っ直ぐな少年の言葉に、嘘偽りがない事を侍女は知っている。目尻を緩めて微笑むと、彼女は本題に入った。


「ユリアス様。貴方様は『魔王』。黒を代表する、偉大な王です。私は、父からそう教わり、貴方様を御守りする為に此処へ来ました」


 少年は目を附せる。魔王である、それは、何よりも受け入れ難い事実で、何よりも否定してもらいたい事実だった。俯いた少年の視界に、女の青白い手が入り込んだ。それは少年の手を取ると、励ますように強く握った。


「ですが、人間にとって魔王は敵です。今の貴方様には苦痛にしかならないでしょう。今から、その事を忘れてもらいます。このままでは、貴方様は正気ではいられないでしょうから。ですから、その前に、私と【契約(コントラクト)】を結んで下さいませんか?」

契約(コントラクト)?」

「私の力が使えるようになる、と思って頂ければ充分です。とは言え、記憶を喪い、『自覚』すら消えるのですから殆ど満足には扱えないでしょうが……。それでも、傷の治りが速まる程度の効果はある筈です。私の力が、貴方様の生きる一助となるでしょう。………どうですか?」


 彼女の言葉の意味は今一つ理解出来ない。だが、それで彼女との間に固い繋がりができることは理解した。


「わかった。俺は、どうすれば良い?」

「……有り難う御座います。そうですね…魂に、集中して下さい。そうすれば、力の使い方は自ずと理解出来ますから」

「……分かった。やってみる。………」


 魂と精神、そして肉体は、心臓という柱を通して繋がっているとされる。心臓とは魂と肉体を繋ぐ部位であり、ならばと、目を閉じ、左胸の上に掌を置く。一心に集中し、規則正しく刻まれる拍動と、心臓の奥深くに息衝く、神たる機関を意識に捉える。幾莫かして、少年は目を開けた。


「…つかめた」

「それでは、誓いを」


 跪いたまま、女は己が主を見詰め、その誓いを口にする。


「私が陛下に望むのは、一つ。私の主となる事を」

「俺がリンカに望むのは……うん。俺の事を、支えてほしい」


 形式張った言葉は要らない。ただ、己が相手に望む事を伝え、自身が配下であると、自身が主であると、誓い、契約するだけ。


「貴方様の影となり、貴方様を支える事を、此処に誓いましょう」

「リンカの主として、いつか必ず、相応しい者になる」


 互いに視線を交換し、共に囁く。


『【契約(コントラクト)】』


 契約は結ばれた。これは明確な縁として、これから先二人の間を繋ぎ続けていく。メイドはそれを噛み締めると、寂しげに呟く。


「これで、後は貴方様の記憶を封じてお終いです。私の魔法は闇と影を司り、私の神器は夢を操ります。夢とは詰まる所、記憶と心理の世界。私の神器を用いて、私含め、住人の顔は全て忘れてもらいます。……何かの拍子に、思い出さないように」


 メイドは少年の顔を見て、苦笑する。少年は想いを持て余し、どう声を掛ければ良いかも分からず、乳飲み児がそうするように、メイドに瞳で縋っていた。


「これで一生会えない訳ではありません。この魔法は貴方様が魔王となれば自ずと解けるでしょう。その日まで、例え顔は忘れていても、私は側で貴方様をお支えします。…………けれど、そうですね。私の偽名をお教えしましょう」


 それだけが、少年に与えられる記憶の欠片だった。エイミー、レイシア、キフリー、モーガン……幾つか名を挙げて、閉口する。


「……(ヴァイオレット)。ヴァイオレットにします。ユーリ様が好きな花の名前。貴方様の前には、必ずこの名前で現れましょう。貴方様の前で偽名を名乗るのは心苦しいですが…。しかし、それ以上は……申し訳ありません」

「ううん、それだけでも、良い。ありがとう」


 小さな主の言葉に頷き、女は再び表情を殺した。最後に、この言葉だけは伝えておきたくて、彼女は、少年の目線に自分の目線を合わせた。


「御安心下さい。ユーリ様の身に何が起ころうと、私だけは、このリンカだけは、永遠に貴方様の味方ですから。ですから、それだけはどうか、覚えておいて下さい」


 そう告げ、彼女は少年の頭を撫で、夢の欠片を埋め込む。今日の事は忘れて、魔王としてではなく、一人の少年として生きてもらう為の魔法が、組み上がった。



◆ ◆ ◆ ◆



 暗く、懐かしい思い出から、意識が浮上していく。後頭部に柔らかい触感を感じながら、瞼を持ち上げれば、あの日と変わらぬ緋い瞳が、ユリアスの顔を覗き込んでいた。万一に備えて守ってくれていたのだろう。目の動きだけで扉の向こうを確認すれば、肉塊に成り果てた怪物の姿があった。それから視線を外し、ユリアスは品良く彩られた天井と対面した。


「夢を見ていた」

「…はい」

「あまり良い夢ではなかった。けれど、思い出すべき事を思い出せた」

「……………」

「ヴィオレ。いや、()()()

「はい」

「ありがとう。今まで支えてくれていて。きっと、俺が旅をしていた時も、何処かで見守ってくれていたんだろう?」

「…ええ。……はい」

「ぁぁ」


 肩を震えさせ、力無く呻く。腕で目を覆った。良い気分ではない。生きているのかも分からない幼馴染みの少女。自分を庇って死んだ父。目の前で息絶えた、妹のようだった少女。その全てをまざまざと思い出した。だが、絶望に沈んでいる訳でもない。やるべき事がある。倒すべき相手が居るのだから。


 リンカの膝から起き上がる。もう少しこうしていたかったが、そんな暇はない。気が付けば、身体中の傷は全て無くなっていた。リンカの持つ種族としての固有妖術『超再生』の効果だ。あの日結んだ【契約(コントラクト)】が、完全に魔王(ノトリアス)として目覚めた今になって、力を持ったのだろう。


「……」


 未だ台座に突き刺さる神器『皇魔』を眺める。蒼い紋様はそのままに、白銀の輝きを持った刀身は漆黒に染まり、時折、禍々しくぼんやりと明滅していた。その柄を握り、腕に、胸筋に、力を込める。


「…重いな」


 身の丈程の長さのある大剣だ。それに相応しい重さが感じられた。だが、今は、肉体を強化せずとも持ち上げられる。肉体が吸血鬼と悪魔のそれに近づいている証拠でもあった。


 軽快な金属音が震え、響き、皇魔が台座から抜き去られる。吊るす為の装備がないので、背負う事は不可能だ。けれど持ち歩くには不便過ぎる。それならばと、確信を持って、神器に籠った力を発動させた。


「ああ」


 『皇魔(レガリア)』の持つ能力は、【契約(コントラクト)】を結んだ相手の持つ神器の権能、その全てを足し合わせたモノ。今発動させたのはリンカの持つ神器『夢貌(オネイロス)』の、あらゆる貌を取る効果。それによって姿を変えた皇魔は、現在長剣程度の長さに収まっていた。

 シャンデリアから注ぐ光に、皇魔を翳し、その輝きに魅入った。手に取らずとも、遠目でも分かる業物。今まで扱ってきたどの剣とも異なる。比べる事すら烏滸がましい。大剣から長剣へと姿を変えても尚、それは変わらない。


「フゥゥ……」


 過去への感傷を捨て、戦意を高めようとすれば、それは際限無く高まり、殺せ殺せとユリアスの意識を駆り立てる。それが正にユリアスの心中を侵略せんとしたその時、ユリアスは我に帰って歯噛みした。


「────っ……良くないな」


 冷汗が背中を濡らした。神獣への殺意を高揚感のままに高めていく自身を、強く律する。あくまで、サクヤを助ける為に魔剣を手に取ったのだと、何度も、何度も言い聞かせ、固く強く柄を握り締める。

 昂る心を押さえつけ、隣に意識を向ける。自分の影で、自分の知らない所で、いつも支えてくれていた女性(ひと)。漸く会えた、その喜びと、今までの感謝を飲み下して、静かに命じた。


「行こうか、リンカ」

「私は貴方様の影。何処へなりとも」


 即座に返ってきた答えを背に、ユリアスは歩き出した。


偉角羊カルデンについて:

 先日、禁足地のほど近くの山陵地帯で、大きく立派な羊の魔物を見かけた。黒く大きな角を六本持ち、軽やかながら堂々とした足取りで闊歩していた。あれが噂に聞く偉角羊カルデンなのだろうか。だとすれば納得だ。そうでなくとも、きっと尊い精霊様のお使いなのだろう。


『日記』 ベヨ・アルカン著 より一部抜粋



 三日前の調査により、メツナの洞窟内に神代の人々が描いたと思われる壁画が一部確認された。その壁画の中に偉角羊カルデンと見られる羊型魔獣の姿があった。この洞窟は祭壇として使われていた形跡があり、やはり太古から偉角羊カルデンが捧げ物として好まれていたことは疑いようが無い。古い魔族の文献に拠れば、角とは魔族にとって王冠を想起させるものらしく、これを持つ魔獣は高貴な存在として扱われていたという。逞しい角を持つ偉角羊はその筆頭だろう。


『調査メモ』 サルガ・カインツ著 より一部抜粋



「そもそも、この偉角羊カルデンというのは大変貴重で有用な魔獣なのです。その魔力を厖大に蓄えた六本角は高級な魔術触媒に、毛皮は当然靭性に富んだ布地に、しなやかな肉には旨味が凝縮されており、脂は接着剤や塗料の原料となります。眼球や蹄、骨の一片ですら数多の魔術師達が羨む程のものなのでございますから、一体どれ程の狩人達がこれを狙っているのか、想像も付かないでしょう?」


『冠狩り』 ラプルス・M・ホイルク著 より一部抜粋

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