19 目覚めの時
寒気に全身の毛が逆立つ感覚で飛び起きた。
か細く差し込む朝陽の光がドルト杉に吸収され、城周辺は住民達が灯した照明によって薄明りを保っている。早朝ながら、全ての城民が警戒態勢に入っていた。不安を煽るように、五つ鳴らされた鐘の音が、異様な空気を伝え広めた。城中が喧騒に包まれていた。鼻先を撫でるこの匂いを、ユリアスは知っている。狂乱の気配、戦場の匂いだ。
昨晩、あれからユリアスは自室に戻って直ぐに眠りに落ちた。そして今日、謁見の間にて神器を取りに行く積もりであったというのに。最悪な寝起きに目つきを尖らせる。
「神獣───!」
(もう起きたのか?!まさかッディアゼルの話ではまだ時間が掛かるはず……)
だが、これ程までの殺気。アレ以外には有り得ない。
切れる息を、歯を喰い縛る事で繋いだ。怖気に鳥肌が立ち、三半規管が狂う。起きて早々、粘ついた汗が背中を伝っていく。
「サクヤ……ッ!」
それでも、思い浮かべるのは一人の少女の顔だ。萎縮する心を叩き直して迅速に戦闘準備を整える。靴を履き、直ぐ様腰に黒剣と、昨日ノイタッシュから渡された短剣を佩く。爪先を床に打ち付け靴を整え、机の上でユリアスを見詰めるロイクへ向き合う。
「ロイク、お前には下の援護に行って貰いたい」
「……グゥ」
「心配するな。俺は俺でやる」
信頼を込めて紫の瞳に語り掛ける。起き上がり、毛を逆立てる彼へ覚悟を問うた。
「いけるか」
「ルァ!」
闘士を込めて鳴く彼の鼻先を撫でて、ユリアスもまた気合いを呼吸に混ぜ込んだ。
鎧も盾もなく、魔道具は短剣以外は一つもない。あるのはこの身と黒剣、そして懐中時計だけ。本当に最低限の用意でしかないが、仕方がない。全身の妖力、霊力を掌握しようと意識を向けていれば、扉がいつもより幾分乱暴に叩かれ、オーエンの声が部屋に響いた。
「御客様!今、宜しいでしょうか?」
「ああ」
迷いなく答え、招く。焦るオーエンの声に、予想できる限り最悪の状況が、ユリアスの頭に描かれ始める。
「失礼致します。先程、神獣が……」
黒地の鋼に赤と金の装飾が目立つ鎧姿のオーエンは、部屋に入るなり跪き、鞘に収まった剣を床に置き、無礼を詫びた。
「起きたんだろう?」
「ッ、はい。……御客様は、どうかこちらへ。退路は私共が切り開きます」
先導しようとするオーエンを押し留め、窓から城下を見下ろす。異形の怪物共が湧き出て、悪魔と魔族混合の兵隊が応戦していた。少数混じる魔族がどうかは計り難いが、悪魔に関しては強力な種族だと断言できる。成人すれば最低でもAランク相当の魔力量を持ち、種全体の平均量ではAAランクにもなる。神宿者でもなくAAAランクに至る者はそう居ないが、それでも尚最強種族の一角として見れる。しかし、数は力だ。幾ら悪魔の軍が屈強で、魔王城の抗戦機構が優れているといっても、限度がある。そもそも、悪魔とは少数で構成された民族だ。どれだけ保つかは未知数だった。
「サクヤは無事なのか」
「はい。安全な場所で待機して頂いております」
「そうか。なら、現状を教えてくれ」
「…ええ。神獣が城に張られた結界を破りました。とは言え、未だ一部分のみなので神獣本体は侵入しておりませんが、その取り巻きが幾らか城内に入り込んでいます」
「取り巻き…あの化物共のことか」
城下で戦闘を繰り広げる異形の群れを目端で捉える。十中八九、ユリアス達を襲った化物共の仲間だろう。大半はBランクだが、中にはAランク、AAランクの強敵も少なくない。兵士の質、技量の差では悪魔側に軍配が上がるか。やはり、数で負けている。
「アレらは何にせよ数が多い。今はディアゼル閣下が前線に出ていますが、結界が完全に破られた場合、例え閣下でも流石に厳しい。ですので、破り切られる前に御客様だけでも、どうか……」
「あの魔族…悪魔達に混ざっている金の角を持つ魔族、あれは何だ?」
「は───?セグド族の事でしょうか。初代魔王陛下の血を継ぐ魔族ですが…」
「強いのか?」
「はい。我々悪魔と同程度には」
「そうか」
オーエンの話に耳を傾けながらも、結論は既に出ていた。もう、決めた事だった。少し予定が前倒しになっただけだ。
「『謁見の間』に案内してくれ。神器を取りに行く」
「!…しかし……」
「オーエン」
執事は目を見開き、その後表情に躊躇の念を浮かべる。
それでも、目を合わせ、もう一度口にする。
「頼む」
「…ハッ!承りました。陛下」
ユリアスによる命令とも取れるそれに、今度は迷う事なく、オーエンはその場で首を垂れた。
◆ ◆ ◆ ◆
長い廊下を駆け抜ける。オーエンの背を追いつつ窓から外を伺えば、続々と怪物達が増えていくのが分かった。数分前は小隊規模だったというのに、今では大きなうねりとなって、城壁を囲み、攻め入って来ている。不安定になった魔力が可視化し、色の斑な球体が城を覆っている。結界が綻んでいる事が如実に現れていた。
「……多いな」
歪な姿の化物共は結界の穴に群がり、その間を次々に通り抜けて行く。橋の壊された空堀を渡る為、味方を堀に突き落とし、突き落とされ、異形の山で橋を渡していく。それら異形の見た目は様々だ。同じ見た目をした化物達が集まり、一つの小隊を作っている。その小隊が幾つも集合して、大隊を成していた。
「な、ぁッ」
そこに轟音が響き、巨大な震動が襲った。廊下の窓枠に、巨大な、竜のような、人のような『神獣』が映った。ソレが、結界にその拳を叩きつけ始める。城自体にも衝撃が襲い掛かり、地面を、柱を、床を通ってユリアスの身体の平衡感覚を奪いにかかる。
「あれが…神獣」
無論、それで転ぶ程ユリアスもヤワな鍛え方はしていないが、これで戦え、というのは酷だ。体幹を崩されないようにしながら、あれらの相手をしなければならない。
だが、それよりも気にかかる事がある。
「精霊が、泣いている?」
精霊が悲痛な声が大気に伝播した。それは普段決して聞こえるものではない、有り得ざる悲鳴だ。殆どの純人族は精霊の声を聞くことは叶わない。例外は精霊魔法が行使された場合のみ。
だと言うのに、魔力は罅割れ、嘆く気配が消えることはない。少し聡い者ならば気付ける程の深い悲しみ、苦痛の気配だった。
「ええ。奴の能力は言うなれば『精霊殺し』。我々悪魔は精霊に近しい存在。そして、奴の力は精霊から魔力を無理矢理に奪い、使役するというモノ。精霊ほどではありませんが、悪魔もまたその影響を受けるのです。………我等とは、最悪なまでに相性が悪い」
昏い憎悪の籠った声を発しながら、オーエンはユリアスを振り返る。
「急ぎましょう、陛下。『奴』と、奴と手を組む虫けら共の狙いは確かではありません。ですが、あれらが謁見の間に向かう可能性は十二分にあるかと」
「ああ、行こう。案内してくれ」
◆ ◆ ◆ ◆
住館の廊下を走る事加えて数分、居館最上階、五階の廊下の隅で、二人は足を止めた。一度も来た事も来ようと思った事もないそこは、やはり美術品で飾り立てられている。何れもが絵画図鑑に模写が綴じられるべき、一級品の美術品群だ。その内の一つに、成人男性程の大きさをした赤黒い油絵、魔界を題材とした油絵があった。それは名高い絵画家の代表作にして、魔界を描いた連作の一枚であり、そこには相争う悪魔達が息づいている。
オーエンはその傍へと歩み寄り、指先に火を灯す。
「オーエン、何を……」
「申し訳御座いません、陛下。今暫くお待ち下さい」
訝しむユリアスの手前で、オーエンはその灯火を、迷いなく魔界画へ移した。瞬く内に絵画は燃え上がり、焼け落ち、その後には額縁のみがそこに在った。
「! これは…」
残された銀の額縁が濁り、暗く澱んだ黒銀が瞬いた。額縁の内側、絵画が嵌められていたそこは、空間が歪み、不安定に揺れている。大気の歪曲した気配が、ユリアスの程近くまで伝い、震える。先が伺えないそこは、穴の様に見えた。
「異界の入り口か」
「その通りです。ここは魔界を経由し、この住館から本館へと移動する為の、言うなれば『渡り廊下』。現在、本館への入り口は塞いでおります故、こちらを使用して頂きます。道中、僅かな間とはいえ魔界を通る事になりますが、宜しいでしょうか?」
「構わない。連れて行ってくれ」
間髪置かずに答える。手を伸ばせば届く場所にあるそれからは、こちら側の世界からはかけ離れた魔力が溢れ出している。だが、あの、死の臭いで充満していた地下の異界に比べれば、どうという事はない。ずっと、ずっとまともだ。
「では、参りましょう」
「ああ」
オーエンに続いて額縁の中へと足を沈める。黒い捻れがユリアスの肉体に絡まり付き、衣服の上から違和感が襲う。数秒を待たずして、呑まれていく感覚が晴れ、歪んだ視界が正される頃には、ユリアスの足は紅い絨毯を踏んでいた。
「本当に、廊下だな」
「ええ。この城は現世と魔界の境目に建つ城。現世側の魔王城にはない渡り廊下が、魔界側の魔王城にはあるのです。ややこしくはありますが」
内観はユリアスが見知った魔王城の廊下と変わらない。これはディアゼルの趣味なのか、その他全ての廊下と同じく、やはり芸術品で賑わっている。だが、見た目以外の全てが異なっていた。魔力の濃度と質、空気の湿度と匂いが違う。先程まで耳を刺していた喧騒も、パタリと途切れて沈黙を得ていた。
「急ぎましょう。恐らく、奴らの狙いは御身と神器です。神獣が結界に侵入するより先んじなければ」
「そうだな」
今のユリアス達に、並べられた骨董品で目を慰める暇はない。足早に進み、画廊の行き止まり、ドアノブを捻った向こうには、いつか見た玉座の間へ続く一本道があった。紅い絨毯の両脇に騎士鎧の列を侍らせる、先日エリーと共に訪った廊下だ。オーエンに続いて扉を潜り、異界と現界の境界線を跨ぐ。
「…」
呆気なく、境目は潜られた。扉が閉まる音に横目で振り向くも、既に扉はそこになく、あるのはただ壁のみだった。
先を進むオーエンが振り返り、ユリアスを促す。
「こちらです。……ッ!」
咄嗟に、双方共に剣を抜いた。気配だ。強大な魔力を持つ存在が、敵意も悪意も一切隠さず、豪速で迫って来ている。方向は、下から。
人気の無い廊下を、破砕音が支配した。窓が縁ごと弾け飛び、ガラスの破片が宙で煌めく。地上から此処までの高度を無視して、不気味な影が飛び入った。
「GUuUuuuuuuu、RaaaaAaaaaAAAAA!!!!」
耳朶を打ったそれは、強烈な殺意を秘めた咆哮だ。殺意の音色と共に現れたのは怪物。猿、狼、蛇。その全てを混ぜた、おぞましいモノ。辛うじてヒトのカタチを取るそれは、二人の眼前に降り立った。
「……クソッ、バカなッ、対空攻撃網を潜り抜けたかッ!」
オーエンが悪態を洩らす。
どう見ようとも、格が違う。下の化物共とは、比にならない怪物だった。
AAAランク。Aランク下位のユリアスでは、乗り越えられない差をつきつける怪物だった。それが、お誂え向きに二体。
「いけますか」
「やるしかない。俺は右を、オーエンは左を」
「───ハ」
短い了承を合図に、オーエンの右腕を守っていた籠手に罅が入り、崩れ落ちる。それを以て魔法が発動した。その右腕は、黒く、不吉な輝きを帯び始め、終には割れ、そこから這い出るように肥大化し、黒の肌に毒々しい桃色が浮かぶ。それこそがオーエンの、悪魔としての勲。『魔腕』のオーエノルド。『残虐』オーエノルド。魔導書に名を刻む、大悪魔の名だ。
「ヌ……ゥ!」
だが、そのオーエノルドでさえ苦戦していた。
衝突したオーエンと怪物は、攻撃の応酬を続ける。その魔腕が振るわれ、怪物の身に触れた途端、そのケダモノは異様な感覚に微かに硬直した。
『魔腕』は、触れた部位を中心に、相手の妖力を狂わせる魔法だ。その相手の妖術を奪い、或いは肉体の損壊を狙う。強力だが、触れなければ始まらない。それがデメリットとして働く場合もある。
事実、オーエンの右腕からは煙が立ち昇っていた。
「グゥッ……」
怪物の持つ『溶解液』。それを魔腕に掛けられ、小さくない怪我を負った。その様に笑う怪物に、青筋を立てたオーエンが魔法を発動させた。先程オーエンが触れた部位は、怪物の左肘。そこを起点に、妖力が暴走した。
「GA!?」
左腕がひしゃげ、あらぬ方向へ向けられた怪物が狼狽え、オーエンが間合いを詰める。それに怪物もまた応戦した。一合、二合と続けられる殺し合いに並行して、ユリアスもまた死合っていた。
「……ッ」
第一波をどうにか凌いだユリアスが、怪物から距離を取り、剣の間合いから外す。素早い動きに、妖力による強化のみでは不足と見て、霊力を励起する。
「『我が刃金の響けるを聞け』」
剣先が床を擦る鋭い音と共に、魔術が詠唱される。霊力を消費して身体強化を己が身に施した。妖力強化と並行し、二重で肉体性能を増強する。多大な魔力を代償に、ユリアスの戦闘力が跳ね上がる。しかしそれでさえ未だ足りない。
(は、やッ!?)
怪物は刹那の内に距離を殺し、その猿の如く腕をユリアス目掛け降り下ろす。それに跳び退けば、眼前の床が削れた。嫌な臭いとともに何かがひしゃげ、蒸発するような音がする。
半ば以上条件反射で後方へと二歩下がる。
「な……」
絨毯を突き破り大破した床は、溶解していた。煙と異臭を立てて、床の傷が段々と広がっていく。これを浴びた先の苦痛は容易に想像が付いた。
ユリアスの耳端に、オーエンともう一体の怪物による戦闘音が引っ掛かる。戦いが成立している。目前の怪物と同種と見られるアレは、大悪魔オーエノルドを相手取れている。その事実がユリアスへと緊張を与えた。
「『我が血を捧ぐ』『炎を此処に』【火球】」
左手から自身の血を垂らし、魔力と共に魔術の代価とする。すれば、左手からヒトの頭程の炎の塊が吹き出した。怪物へと飛来するそれは確かに着弾し、体表で爆発を起こした。が、
(焦げ一つないか)
相当量、魔力を注いだ筈だ。事実、速射重視の単純な魔術とは云え、あれはかなりの威力を持っていた。Aランクでさえ表面に焼き目程度は残る火力だ。だというのに、あの状態。霊術による攻撃は有効打にはなり得ない。
一月を経た事で伸びた邪魔な前髪を、左手から滴る血液で後ろに流し固める。両の眼で敵の姿を射貫いた。
オーエンの援護を望むのは現実的ではない。ならば、ユリアス自身で片を付ける必要がある。しかし、正面から戦うのは困難だった。狼のような敏捷性、そして豪力。何よりも警戒すべき毒。本来、距離を取って戦いたい相手だ。だが、速すぎる。距離を取る間に殺されるならば、接近戦より他はない。
せめて盾が欲しい。幸い辺りには剣と盾を持った騎士鎧達が並んでいる。猛烈な速度で迫る中段蹴りを黒剣で受け、踏み堪えずに後ろに跳ぶ。蹴りの勢いと相まって、低空飛行で騎士鎧まで吹き飛ばされる。空中で体勢を整え、着地の際の隙を消し、地を足で踏むと同時に手近な鎧へ手を延ばす。盾はその籠手に握り込まれ、奪い取るには手間が掛かる。ならばと鞘に収められた剣の柄を掴み、逆手で引き抜いた。
「GUUUU……?」
「な……!」
不意に、騎士鎧達に違和感を覚えた。兜の、目に当たる部分に光が灯ったのだ。
「魔導人形か!」
「ruu,ra?」
騎士鎧の形をした魔導人形が動き出し、怪物へと切り掛かる。敵味方の区別は付くようで、ユリアスへ襲い掛かることはなかった。が、それらは一合二合と打ち合うと、容易く怪物に破壊され、金属片へと成り下がる。一糸乱れぬ隊列を組んで襲い来る魔導人形を、怪物は次々と壊していく。魔導人形の隊列の隙間を縫って、霊術による火力支援を行うも、やはり効果は薄かった。
「ra,ra,ra,ra,ra,raaaaaaa」
「……フゥゥ…」
流れるようにして魔導人形の大半が壊された。人形らも攻撃の手を緩め、怪物の周囲を囲むような形へと陣形を変える。怪物は已然として平然としているが、この時間も無駄ではなかった。怪物と魔導人形についての情報を得られた。怪物に関しては、新たな技は見られないが、それでもその動きの癖は読めた。魔導人形については大した情報はない。彼等は概ねAランク程度であり、怪物への有効打となり得る一手は持っていない。精々が障害物といった所か。
魔導人形がアテにならない以上、ユリアス自ら仕掛けるべきだ。
「ra,a,a,aaa?」
楽しげに鳴き、怪物は魔導人形の残骸を戯れに踏み潰した。
ロイク達の援護は望めない。だが、彼等が城内の敵の足止めをしているというだけで救いだ。あの数の敵軍が流れ込めば、ユリアスは死ぬ。
進まなければならない。進むには殺す他ない。
脚と腕に妖力と霊力による身体強化を重ねて掛け、駆け出す。怪物と交差した瞬間、左に持つ騎士鎧の長剣を、壊れる事を覚悟で全力で振り抜く。剣は、怪物の身体に僅かに食い込みもせず、半ばから折れた。怪物はユリアスへと溶解液を掌から飛ばす。それに、長剣の残骸を手放し、避けた。避けた先へと瞬時に怪物が回り込み、蹴りを放つ。腹の肉を抉られながらも直撃は躱し、転がるようにして、床に落ちる人形の残骸の剣を補給する。新たな剣を拾う隙を怪物が捉えた。下から掬い上げられた鉤爪を右の黒剣の柄で受け、左の剣でその頭へと渾身の一撃を叩き付ける。怪物は咄嗟に身を屈め、四足歩行の体勢を取る。そのまま後ろ足を軸に半回転し、ユリアスの兜割りを避けた。
今度は地面を這うように動き、怪物が牙を突き出す。ユリアスは詠唱も無く揺火の魔術を発動させ、その眼前を灯火で覆ってやる。攻撃としては全くの無意味。だが、目眩しとしては有効だった。
「セィァ!」
直様起き上がった怪物へ、左の騎士剣で切り掛かる。それを右腕で受けた怪物と、一瞬力が拮抗する。そのまま剣から手を放し、身を屈ませる。手から剣が弾き飛ばされたが、ユリアスの狙いはそこにない。腰の短剣を空いた左の手で握った。思いの外軽い感触に動揺する怪物の左足に、短剣を突き刺し、跳び退いてその場を離脱する。
「『解放』」
「gu,rara?ra?ra?ra?」
刺さった短剣を中心に、左足が石化していく。あの短剣は呪具。昨日ノイタッシュから渡され、結局使い道のなかったモノだ。彼の持つ石化の魔術を込められたあれは、攻撃と行動阻害を兼ね備える。関節までも石と化すため、左足を満足に動かす事は叶わない。もし動かせば足が崩れかねない。
その短剣を引き抜くと、怪物は腹立たしげにうめき、姿を消した。
(上!)
上空からの踵落としに横に転がり、間一髪強襲を避ける。避けた先、魔導人形の残骸に混じった盾が左手に触れる。それを拾い、しっかりと握り締めた。
不機嫌そうに鼻を鳴らす怪物に冷や汗が流れる。硬化した足を逆に攻撃に使われた。そもそも、あの怪物は、足が壊れることすら考慮していない。確かに片足を封じたが、状況が好転したとは思えなかった。
今の蹴りで床が砕け、破片が飛び散り、幾つか身体に刺さった。溶解液も全てを躱しきれた訳ではない。腹が裂け、かなり血が出ている。痛みは集中力を喰らい、蝕もうとしていた。
(拙い……)
埒が明かない。相手の攻撃を必死になって避けるだけで、有効打は当てられていない。このままでは死にかねない。
少し、冒険する必要があった。脳裏に過ぎるのはディアゼルとの『契約』だ。あれにより、悪魔公たる彼と深い縁が出来た。それこそが武器だ。だがしかし、それは当然難題だ。やれるかと、己に問うた。やるしかないと、言って聞かせた。
意識を刃の如く研ぎ澄ます。怪物の手の動き、足の動き、肩の動き、指の関節、瞼の揺らぐ様、それら全てに注意を配る。
片時も気を抜く事は許されない。張り詰めた緊張が身を貫き、脳を炙った。
「ru」
「『汝、焔背負いし火山の化身。真の焔を宿す者』」
瞬く間も無く現れた怪物。
凄まじい勢いで振り下ろされた腕に、詠唱を止めず、『勘』に逆らわずに身体を動かし、最小限の動きで躱す。集中は切らさない。今から放つのは『肉体』と『精神』、双方の魔力を用いた魔術剣技。黒魔の森でも放った、あれと同じ系統のモノだ。
「『振るう刃は雲を裂き』」
だが、目を瞑り、他を投げ打ち構える暇などない。術を構築しながら、敵の攻撃にも対応する。そんな離れ技が求められている。
騎士鎧が体を張り、怪物を押し留めようとする。それも虚しく打ち壊され、残骸へと成り果てていく。怪物の狙いは直ぐにユリアスへと戻った。
「『纏う焔は火竜を屠り』…!」
妖力と霊力を混じらせ、黒剣と肉体を一体とする。剣と身体の上を術式が走っていく。肩を下げ、半身になる事で肩狙いの蹴りを避けたが、完全ではなく、鋭利な爪の先が肌を浅く裂いた。
「『国さえ砂漠へ変えにけり』」
毒液が顔面目掛けて蒔かれ、それを盾で防いだ。盾で視線を切られ、死角が生まれる。怪物の右腕が、ユリアスの左脇に滑り込む。だがそれは、敢えての誘いだ。五指がユリアスの脇腹を抉り潰すより、ユリアスの身体がズレる方が速かった。怪物もまた追い縋る。左の手刀が横薙ぎに振るわれ、ユリアスの頭を切り飛ばさんとする。それに剣を一瞬噛ませ、上に弾く。その動きで、ユリアスの脇が微かに空いた。完璧な一撃が、完全な隙を穿つ一打が、怪物の右拳が繰り出される。だが、無理に大きく身を捻り、逸らした。
「『誠赤たる其の一撃、を』ッ!」
避けられた事実に少なからず動揺する怪物へ、その剣技を発動させる。理想とするのはディアゼルの斬撃だ。地下でみたアレを、精一杯のモノマネで再現する。ユリアスの呼気に火の粉が混じり、黒剣が狂熱を帯びた。
「【赤煉】ッ」
身体を捻った動きを利用して、袈裟掛けに振り切った剣は、怪物の首に吸い込まれ───
「gu,u,u,u,u,uuuuuuu」
「ッ、な、ぁ」
避けられた。怪物は肩を前に押し出し、身を後ろに逸らし、右肩を犠牲にした代わりに、首と心臓だけは守った。その右肩から焦げた臭いと赤い鉄の臭いが噴出する。だが、二つの急所は守った。命は、守りきってしまった。
怪物が空気を砕き、殺しながら、左脚を横に薙ぐ。
「が、ア!?」
盾で防ぎながらも派手に吹っ飛んだユリアスは、鎧の残骸に突っ込む。金属質な物が崩れ落ちる音を響かせながら、起き上がったユリアスは、目を見開いた。
居ない。怪物が居ない。見失った。
「ッゥ?!」
左。
溶解しかけた盾を向ければ、腕に、全身に衝撃が伝わる。身体ごと引き千切らんばかりのそれに耐え、踏み留まる。つい、反射的に、左を確認した。
だが、またしても怪物の気配はそこにない。動きが明らかに変わった。
「しまッ」
た、そう言い切らぬ内に、それは右に現れた。筋肉に膨張した左腕を振り上げ、怪物は笑っていた。
ユリアスの頭に描かれるのは、様々な死。なぶるように殺すか、もしくは頭を砕いて幕引きか。
ユリアスは選択を間違えた。踏み留まらなければ良かったのだ。吹き飛び、場所を変え、備えれば結果は違ったかも知れない。
だが、もう遅い。後悔するには遅すぎる。
迫り来る左腕。振り下ろされる死。
それを、止める音があった。
ガチリ、と音を発てながら、その腕を止めるのは槍だった。一本の槍。緋い十字槍だ。
予想だにしなかった人物の乱入に、頭が混乱し、戦地であるにも関わらず、集中の糸が切れる音がした。
「御待たせしました、ユリアス様。ここからはどうぞ、私にお任せ下さい」
耳に良く馴染む声だ。何度も聞いた声だ。言ったその後ろ姿は、見覚えのあるものだった。
気怠げな気配に、紫掛かった黒い髪。見えない瞳の色はきっと、炎の様に緋いのだろう。
そう、忘れる筈もない。ユリアスのよく知っている彼女。
「…………ヴィオレ?」
冒険者ギルドの受付嬢、『鮮血姫』の名で呼ばれる彼女、ヴァイオレットだった。
魔力と魔術について:
魔術とは今や、我々の生活の一部となっている。才能の大小により扱える魔術の難度は変わるが、殆どの人間は簡易な魔術を使用して、己の生活を支えている。しかし、だからこそ、そういうものだと処理して、忘れてしまっているのではないだろうか。魔術とは本来、摩訶不思議な力なのだ。初めてそれに触れた幼いあの日には、大層驚いたものである。(中略)
そもそも魔力とは何か、という命題への明確な解答は未だに出ていない。(中略)
説は幾つかあるが、ここでは魔力とは『意味』に宿る力であるという説を推したい。或いはこれは『価値』に宿る力であるとも言い換えられるかもしれない。(中略)
魔力は『意味』に宿るものであるから、自然の形や動物の仕草などに『意味』を見出せば、そこに魔力が宿る。
魔術とは連想ゲームだという言葉を聞いたことがあると思う。(中略)
我々は『意味』を操る術を持っている。『言葉』である。『言葉』を使うことで『意味』を操り、魔力が得る形を誘導してやる。それこそが『詠唱』である。『詠唱』の形は言葉だけではない。『文字』によっても詠唱は可能だと私は考える。(中略)
そして『意味』を持つものの中で、最も雄弁に『意味』を含み、魔術として扱い易いものがある。それが『物語』である。神話や伝承などの物語が持つ魔力はとても大きい。それが有名であればあるほど、その登場人物が神秘的であればあるほど、その魔力は強くなる。であるからこそ、我々は魔術の詠唱に、伝説や神話の一説を組み込むのである。
『魔導基礎』 マグリア・ライ・ハーガラダ著 より一部抜粋