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鏡張りの部屋  作者: 市川滝
9/10

捨てる


光が見えた。鳥の声がする。

小窓から入る木漏れ日は、鏡から真っすぐ光を反射して、僕だけを照らしていた。

海は、僕の望みを叶えてはくれなかった。

僕を殺してはくれなかったのだ。

まだ命があるその絶望を、静かに受け止めていた。


「あんた…こんな所で何してるの‼」

突然、入って来た母さんは、僕を見るなり酷く驚いた顔をしていた。

いつから気を失っていたかまでは覚えていないが、たぶん丸一日くらいは寝ていたのかもしれない。

僕の目の前で、ギャンギャン喚き立てる母さんは、僕の腕を掴み、リビングまで連れて行った。

「あんた、昨日から帰って来ないと思ったら学校行って無いって、どういう事‼」

朝のニュースが、土曜日の天気予報を告げていた。

仕事中に、担任の村上先生から連絡の入った母さんは、僕が昨日学校を飛び出した事と、昨日クラスであった出来事を知ったらしい。

「もしかして…ずっとあの部屋にいたんじゃないでしょうね?」

「…。」

「ちょっと‼何とか言いなさいよ‼」


そしてこの時、僕はようやく気づいた。

海は、僕を消してくれなかった。

でも、海は僕から何も消してくれなかった訳じゃ無かった。

消してくれたものは、いくつかあったのだ。

その証拠に、僕はもう、母さんの否定の言葉には傷つかなくなっていた。

母さんからどんなに強い力でぶたれても、蹴られても痛みを感じなくなっていた。

どんなに空腹でも、苦しまなくなっていた。

「大体、あんた日中の授業も寝てばかりだそうじゃない‼」

そして、母さんが電話で知ったのは、昨日の事だけでは無かったようだ。

「まさか、あんた…‼毎晩、あの部屋に行ってんじゃないでしょうね‼」

母さんは、一通り怒りを晴らすと、僕が二度とあの部屋に入らない様に、外側から鍵を掛けてしまった。

鍵は、母さんが持っている。

ふんっ‼と鼻で荒い息をすると、母さんは誇らしげに鍵をどこかに隠した。

せっかくの遊び場を没収されて、僕が悲しむと思っているのだ。

けれども、悲しむどころか、僕は無表情で虚ろな目。母さんは、そんな息子をとても気味悪がった。

「何よ、あの子‼当て付けかしら…‼気持ち悪いっ‼」

まるで、感情が無くなってしまったようだ。

あぁ…。なんて、楽なんだろう…。

弟の秀も、リビングに降りて来た。

秀は、僕の様子を横目で見るなり、「何かあったの?」と母さんに尋ねている。

いつもの朝。でも、ランドセルを持って来ようとは思わない。

「何でもないのよ。顔洗って来なさい。」

母さんは、何も無かったかのようにそう言った。でも、母さんの笑顔はいつにも増して引きつっている。

テーブルで、朝食を食べる母さんと、秀の二人の声。もう、テレビの音も随分、遠くに聞こえる。



しかし、僕だけでは無く、家にも異変が起き始めたのは、その後すぐだった。

最初の異変は、つけていたテレビが、急についたり消えたりするようになった。

母さんは、面倒臭そうにテレビの電源を入れ直したり、配線を付け替えたりしていたが、テレビの画面は直るどころか、どんどん砂嵐に変わっていく。

「何よ‼買ったばかりなのに…‼不良品じゃない‼」

何をしても直らないテレビの故障に、母さんは益々不機嫌になった。

しかし、その後も異変はこれだけに留まらなかった。テーブルに置いていた食器が、急に床に落ちて割れたり、部屋の照明も付いたり消えたりし始めたのだ。

これには、弟の秀も怖がって、何か変だと言い始めたが、母さんは大丈夫だと勇めた。


けれども、本格的な異変はこれからだった。

〝笑い声がする”と母さんが言い始めたのだ。

「笑い声がするのよ‼子供の…‼」

僕には、何も聞こえなかったが、それから母さんは、何かに怯え始めた。

「どこ…?どこなの…‼」

部屋中を歩き回り、まるで何かを探しているような感じだ。

秀は恐怖のあまり、泣きながらリビングの机の下にうずくまっていた。

―怖がっていないのは、僕だけ。―

「きゃあああああああぁ‼」

部屋中を歩き回っていた母さんが、階段の辺りで突然、悲鳴を挙げた。

「いる…‼いるのよ‼そこに…‼」

そっと様子を見に行くと、母さんは尻餅をつきながら階段の方を指さしていた。

僕もすぐに階段の方を見てみたけど、そこには何もいなかった。


それでも暗闇しかない階段を、ずっと指さす母さん。

全身からガタガタ震え出し、開けっ放しの口は、何を言うでもなくパクパクしている。

これが…あの母さん…?

あんなに僕に辛く当たり、恐怖の対象でしかなかった母さんは、今では見る影も無い。

みすぼらしく、小さくなった母さんを、冷えたリビングの扉の陰から、ただ見ていた。

「傷だらけの…男の子…にっ睨んでる‼」

   ―傷だらけ?男の子?―

「海…?」

吸い寄せられるように、階段へと向かう僕の腕を、母さんはものすごい力で掴んだ。

「行っちゃ駄目っ‼」

振り返ると、恐怖のあまり母さんの右頬は、ピクピクと小刻みに痙攣している。

たかだか、様子を見に行くだけでこの怯えよう…。母さんの目には今、一体何が映っているのだろう。


夕方になると、母さんはどこかに電話をし始めた。リビングの机の上には、不動産会社と書かれた名刺が散らばっている。

「ちょっと‼どうなってるのよ‼この家、引っ越して来たばかりなのよ‼」

「だから‼変な事が起きてるって…‼」

ヒステリックに怒鳴り散らす母さんの声は、電話越しで何かを聞いた後、ピタリと止まった。

「え…?」

受話器を持ったまま、母さんの横顔は愕然としている。

受話器の向こうではまだ、誰かの喋り声がしていたけど、母さんはそれには答える事無く電話を切った。

しばらくすると、母さんは追い詰められた様子で、この家を出ると言い出した。

「あんた達も、さっさと準備しなさい‼」

急いで荷物をまとめる秀と、何もせずその場に座り込んだままの僕。

とうに限界を超えている母さんの苛々は、僕の頬を激しくぶった。

「早くしろ‼」

バチンッと強烈なビンタが、僕の頬を容赦無く叩いた時…。


また、あの時のような事が起こった。

母さんの鏡台の鏡が、一瞬にして粉々に割れたのだ。

そして、更にその直後。

部屋中の電気が消え、鏡の破片は勢いよく飛び散った。

もはや、パニック状態の母さんと秀。

「きゃあああああああァ‼何よ‼何なのよ‼もう…‼」

僕は、嬉しくてしょうがない。海が…いる。

見えないけど、これは海がやっているんだ。

泣きそうになりながら怒る母さん。

騒音と共に、再び部屋に電気がついた。

母さんは、そのタイミングを見計らって、一目散に玄関に走って行く。

その後を、秀が泣きながら「待って‼」と追いかけて行った。

「あんたも、早く来なさい‼」

まだ、荷物も何も持っていない僕。

母さんは、玄関先で僕の腕を無理やり掴んで外まで引っ張っていく。

嫌だ…嫌だ…‼僕は、まだ海に会いたい‼

口に出す前に、僕は母さんの手を振り払っていた。


「なっ…‼」

バシッという音がして、母さんは少し後ろにのけぞった。〝信じられない”そういう顔をしている。

抵抗する意思すらない。母さんは、僕をそうゆう風に見ていたらしい。

けれども、咄嗟に〝触るな〟と思った事に、自分でもびっくりしている。

消えたはずのある感情が、沸々と蘇ったようだった。

僕なんかに、手を払いのけられた事が、よっぽど屈辱的だったのか、母さんは玄関を出る前に、負け惜しみのように言い放った。

「誰が、あんたみたいな出来損ない…こっちから願い下げよ‼本当に…あんたなんか…産むんじゃなかった‼」

玄関の扉を乱暴に閉めた母さん。

「この家で、死んじゃえばいいのよ‼」

もう、二度と戻っては来ない気がした。


自然と、足はあの部屋へ向かった。

母さんが隠した鍵の在処は、分からない。

だけど、その扉は開くような気がした。

扉の前に両膝をつき、額と両手をつける。

目を閉じて、扉の向こうに話しかけた。

「会いたい…。」

鍵のかかったはずの扉は、僕の声に返答するかのように、ゆっくりと開いていく。

ギイーと古い音を立てて、開いた扉の先に、鏡の前で立つ海がいた。

嬉しさのあまり、泣きそうになる。

海は少し、困ったように微笑むと、照れくさそうに僕に言った。

「俺も…。」

鏡の前で座る二人。

僕は何度も頷いた。

海は、僕の額に自分の額をくっつける。

思った通り、海の額はひんやり冷たい。

でも、僕には心地の良い温度だ。

すぐそこに、息づく海がいる。そうゆう気がして、また涙が出た。

真剣な海の眼差しと、目を閉じる僕。


独り言のように、海は終わりに向けて、静かに僕に確認をした。

「もう、戻れないんだぞ…。」

まるで、自分自身にも言い聞かせている様な海の言葉に、僕は迷わず笑って言った。

「戻る気なんて無いよ。最初から…。」

意識が遠のいて行く。

鏡の前で横たわる僕。

海が、僕の手を優しく握った。

苦しくは無い。

痛みも苦しみも、傷つく心も、海が全部消してくれたから…。

視界がぼやける。

海が、泣いているように見える。

目が…見えなくなっていく。

八歳の夏。

この日、僕は〝僕〟を捨てた。

母さんを捨てた。

秀を捨てた。

学校を捨てた。

世界を捨てた。

―そして、生きる事を捨てた。―


光の中。

海の声が聞こえた気がした。

ようやく僕は、解放される。

この、ありきたりな〝地獄〟から。


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