転落
カレンダーが七月に変わる頃。
登校前にはセミが鳴き始め、季節は夏を迎えようとしていた。
そんな中、学校では早々に、プールの授業が行われていた。
僕は裸にされ、プールの水の中に投げ入れられる。
先生達は、まだ来ない。
五十嵐君達の笑い声と、女子達の悲鳴が、プールの底からでも聞こえた。
学校でのいじめは、益々酷くなる一方だ。
五十嵐君を取り囲む、取り巻きの四人組。
金子君、荒井君、高山君、関口君が、先にプールに入って、僕の体を押さえつける。
五十嵐君は、「そのまま離すなよ。」と四人に命令すると、僕の頭を片手で掴み、強引に水底に沈めた。
「森本を綺麗にしなくちゃなぁ~。なぁ‼皆もそう思うだろ?」
五十嵐君が煽るたびに、笑い声は大きくなっていく気がした。
上から両手で体重をかけられ、更に抵抗出来なくなっていく。
息が出来ない僕は、冷たい水の中でもがき、何とか五十嵐君達の手を振りほどく。
ゴホゴホとむせながら、カルキの味がするプールの水を、必死に吐き出した。
「死んじゃえ。」
耳元で五十嵐君はそう言うと、また僕を水に沈める。
「そーだ!そーだ!」
「溺れちまえ‼」
鼻から水を吸い込み、また抵抗出来ない時間は長くなる。
息が限界を迎え、ゴボゴボと無数の空気の泡が弾けた。
体が痺れていく。何も考えられない。
意識が…遠のく。
担任の先生が到着したのは、僕が完全に溺れてからだった。
「森本君‼森本君‼」
「しっかりしなさい‼」
スローモーションのような村上先生の声が、どこか遠い所から聞こえた気がした。
青い空。
バスタオルでくるまれ、誰もいなくなったプールサイドで、僕は一人倒れていた。
自力でプールサイドまで上がれない僕を、村上先生は体育教師の男の先生と、一緒に抱えて運んでくれたらしい。
狂ったように僕の名前を呼び続ける先生は、薄っすら目を開けた僕に、分かりやすく安堵した。
全裸でプールに溺れている僕と、水面に浮かぶ僕の水着。
その光景を見て、先生はどう思っただろう。
誰かが故意にやった事は、明らかだった。
冷え切った体をゆっくりと起こすと、背中を摩りながら先生は、「立てる?」と聞いた。
「大事を取って、給食の時間まで保健室で休みましょうね。」
コクンと頷き、ペタペタと裸足でプールサイドを歩く。
太陽の光を反射した水面は、何事も無かったかのように、キラキラと輝いていた。
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保健室に着いた僕は、着替えを済ませると、保健師の先生を待つ間、村上先生の事情聴取を受けた。
「正直に言ってね。」
最初にそう言って前置きをすると、先生は俯く僕の膝に手を置いた。
「こういう事って、今回が初めてじゃないよね?」
「ねぇ、いつから?」
「誰がやったの?ねぇ?もしかして、五十嵐君達と何か関係があるのかな?」
矢継ぎ早に聞く先生に、だんまりを決め込む僕。
そうです。五十嵐君達がやりました。
僕、いじめられてるんです。
もう、ずっと前から。
更衣室で裸にしたのは、金子君、荒井君、高山君、関口君の四人組。
そう命じたのは五十嵐君。プールから落とすように言ったのも、五十嵐君です。
そう言えたら、楽になれるような気がした。
だけど、その代償と引き換えに、いじめがエスカレートする事は、目に見えていた。
失うものなんて何もない僕から、五十嵐君達は、いつも綺麗に奪い、剝ぎ取っていく。
でも、ここで言わなかったら、僕はいわゆる〝卑怯者〟という奴だろうか。
正義と本音の間で揺れ、胃がキリキリと痛み出す。
思えば、僕と先生のやり取りは、毎回こんな感じだ。
はぁーと溜息をつき、一呼吸置くと、先生はこんな事を言った。
「本当の事を言って欲しいの。それとも、先生に何か言えない事情でもあるのかな?」
「…。」
「五十嵐君達は、森本君が自分からプールに飛び込んだって、言ってるんだけど…。」
「えっ…?」
耳を疑った。自分から?
「そうよ。止めようとしたけど、森本君が皆を笑わそうと、ふざけたんだって。それって本当なの?」
鈍い頭痛が、強い毒のように全身にゆっくりと回っていく。
まるでまだ、水の中にいるみたいだ。
二時間目の終わりを告げるチャイムの音。
校庭では一年生の男の子達が、笑いながら友達と楽しそうに、校庭を走り回っていた。
出来れば僕も、あの中に入りたかった。
ふいに、その子達の無邪気な笑い声が、五十嵐君達の笑い声へと重なった。
「そうです…。」
「…え?」
「僕が…自分でプールに入りました。」
嘘をついた。
僕はまた、落ちていく。
水の底でもない、深い深い所へ。
僕の正義は、僕の自分自身の弱さに、飲み込まれていった。
納得のいかない先生は、もう一度念を押す。
「本当に…? 先生、森本君がふざけ半分でそんな事をするようには…。」
「ごめんなさい…。」
短い休み時間が終わり、校庭で遊んでいた男の子達も、教室に入っていく。
先生が言おうとした最後の言葉は、聞かなかった。
どこかほっとしている自分がいる。
その後、先生はこの一件について、これ以上聞いてくる事は無かった。
冷たい保健室。流れる沈黙が、まだ許されていない感じがしてしまう。
「その怪我も、この学校で出来たもの…?」
急に僕の背後から、保健師の小泉先生が、よく通る声で言った。
「え…?」
「え…?」
音もなく近づいて来た小泉先生に、僕と村上先生の声は重なった。
そう言えば、後から来る事になっていた小泉先生を、僕も村上先生も、すっかり忘れていたのだ。
小泉先生は、僕と少し二人きりにするよう先生に言うと、首元に掛けた聴診器を机に置いて、椅子に座り直した。
小泉先生は、学校でも有名な美人の保健の先生で、よく似合っている白い白衣からは、今日も花の香りが微かにしていた。
白衣のポケットから黒いペンを出し、机の引き出しから、取り出したファイルを開く。
「怖がらなくていいのよ。」
優しい声とは反対に、先生の視線は冷たい。先生は、「他にも見ていい?」と言い、僕にTシャツを脱がせた。
その間、先生は何も言わなかった。けど、それもそうだろう。
今、先生が見ているのは、僕の体の至る所に出来た無数の痣なのだから…。
新しいものから、古い傷跡。
もうかさぶたになった傷跡や、消毒もしていない小さな傷は、膿んで赤くなっている。
母さんと僕との事を知る人は、この学校には一人もいない。
一通り見ていった先生は、何も言わずにファイルに何かを書いていく。
分かっている。
この先生は、村上先生とは違う事を疑っている。むしろこちらの方が、村上先生よりも、幾分怖かった。
「痛かったね。」
やめて…。叫びそうな声を押し戻した。
誰も知らない。けど、それで良かったのだ。
太ももに置いた拳を、手の平に爪が食い込むぐらいに握った。
鼻の奥の方に、鋭い痛みが走る。お願い…。
今だけは、泣きたくない。
その哀れみの一言が、僕を一層惨めな気持ちにさせる。
「一応、応急処置だけしておくね。」
丁寧に消毒し、先生が傷口にガーゼをつけている間、僕は必死に堪え続けた。
「今日は疲れたでしょう。そこのベッドで休んでていいからね。」
そして、先生は最後にそう言って、どこかへ行ってしまった。僕は、馬鹿だ。
こんなの、母さんとの事を言いつけているようなものじゃないか。
もしかしたら、先生は職員室に行って、母さんに電話をかけているのかもしれない。
あぁ…。
今日は、どんな酷い日になるだろうか。
言い知れぬ不安が、忍び寄った。
だが、この期に及んで僕はまだ思っている。誰かに、自分の気持ちを分かって欲しいと。
愛される事を、諦めきれていないんだ。
誰も僕を助けられない事は、僕が一番知っているのに…。
僕でさえ僕を助ける事は出来ないのだから。
僕にとって、生きる事は地獄だ。
それでもこの先、この逃げ場のない人生の地獄から、僕が這い上がれる日は、いつか来るのだろうか。