ラジオ企画から生まれた外伝:Mother
ウェブラジオ企画『名杙家公認☆東日本良縁協会仙台支局臨時放送局(https://mqube.net/play/20171118199665)』内の企画において、見事に優遇権を勝ち取ったキャラクター・分町ママについてじっくり掘り下げました。
何気に初登場のキャラクターがいたり、色々と複雑な設定や背景がありますので、それらを探しながら読んでいただければと思います。
主な登場キャラクター:分町ママ、ユカ、統治
――『彼』にとってそれは、年に一度の恒例行事となっていた。
2月上旬、東北地方にある宮城県では、刺すような寒さが人々に襲いかかっている……そんな、真冬。
彼――名杙領司は、供物用の花束と日本酒の一升瓶を抱え、宮城県塩竈市の高台にある共用墓地を訪れていた。
寒さで全てが凍え、沈黙する季節。しかも平日の午前中ともなれば、周囲に人の姿など見当たらない。ここが住宅街や幹線道路から離れた場所にあることもあり、自分の足音や息遣い以外の音は届かない……そんな、全てから隔離された空間。
彼の足は迷うこと無く、一箇所を目指していた。比較的新しい墓石が立ち並ぶ最奥、少し視線を向ければ、港町と海が見える場所。黒く光る御影石に刻まれた名前を見つけると、しわが深く刻まれた目尻が下がる。
「……今年も1年、ありがとう」
彼は低い声でそう告げると、持っていた花を生け、持ってきた日本酒を躊躇いなく墓石の上からかけていく。
その、次の瞬間――
「――あら、勿体無い。そっくりそのまま私に渡してくれればいいのに」
頭上から聞こえる声に、彼は一度手を止めて……白い息を吐いた。
「……ねぇ統治、一つ、聞いてもよか?」
時を同じくして、『東日本良縁協会仙台支局』。
支局長の政宗は外へ営業中。内勤の統治とユカは、それぞれに仕事を進めていたのだが……ふと、集中力の切れたユカが、正面にいる統治にちょっかいをかけはじめた。
キーボードを叩く手を止めてイヤホンを片方外した統治が、少し迷惑そうに首をかしげる。
「書類の締切なら、俺じゃなくて片倉さんに相談してくれ」
「ちっ、違うよ、ちゃんと間に合うけん大丈夫!! って、そうじゃなくて!!」
脳裏に浮かんだ「締切破ると怒ります」と無言で訴えるスタッフの顔を慌てて打ち消したユカは、以前から気になっていたことを尋ねてみることにする。
「分町ママのことなんやけど……」
予想外の固有名詞に、統治が訝しげな表情で問いかけた。
「分町ママが、どうかしたのか?」
「うーん、前々から不思議に思っとったっちゃけど……どうしてママって名杙の『親痕』になれたと? 申し訳ないけど、スナックのママがあの名杙の『親痕』って……やっぱりどうにも結びつかんっちゃんねー」
それは、以前からユカが疑問を抱いていた事柄だった。
『親痕』というのは、『痕』の中から厳選された存在だ。特に名杙ともなると、その辺にいる『痕』を無造作に選ぶわけにはいかない。
分町ママは、人柄で考えれば基準を簡単にクリアしているのだが……生前の職業や立場を考えると、世間体を気にする名杙家が20年近くも『親痕』として頼るような存在には思えなかったのだ。
ママは今でこそ『仙台支局』を中心に面倒をみてくれているが、実際は名杙当主と繋がっている『親痕』だ。それだけ当主に信頼され、一目置かれているということになる。
と、いうことは……生前に、それだけの『何か』があったということ。
ユカと初めて会った時、彼女は笑って、こんなことを言っていた。
「多分……20年くらい、かしら? はっきり覚えてないんだけど、バブリーな時代を謳歌した後、冷え込んだ世界で生きていけなかったみたい。まぁ、こっちでも楽しくやってるし、いくら飲んでも限界がないから、むしろ楽しんでるかも?」
果たしてこの言葉も、どこまで事実なのか。そもそも人間の記憶は『縁』に付随しているので(という考え方が『縁故』内では一般的である)、20年前にはほぼ全ての『縁』が切れている分町ママの中に、生前の記憶がはっきり残っているかどうかも怪しい。
ユカの問いかけに、統治は少し考え込んでから……。
「俺が物心ついたときから……彼女は名杙の『親痕』だったんだ。正直、それを疑ったこともなかった」
「そりゃあそうだよね。ただ……」
ただ……言葉を切ってから、ユカは誰もいない天井を見上げた。
まだ彼女の『出勤時間』ではないので、その気配はないけれど。
でも、いつの間にか探してしまう、話をしたくなってしまう、そんな、不思議な存在。
「……きっと、あたしたちの知らない何かがあって、それでも今、あんなに楽しそうなんだろうなぁ、って……そう思ったら、ちょっと気になったんよ」
ユカの言葉に統治は静かに同意すると……そういえば今の時期、父親が1人で誰かの墓参りに出かけることがあることを、ぼんやりと思い出していた。
「こんな寒い時期に、毎年申し訳なくなるわよねぇ……」
苦笑いを浮かべながら、分町ママは領司と同じ目線の高さまで降りてきた。その手には珍しく何も持っておらず、彼の視線の先にある、比較的新しい墓石を見つめる。
「って言っても……私は、自分が生きていた頃のことなんか、もう覚えていないんだけどね」
それは……もう30年近く前のこと。
80年代中盤、まだ、世間が『昭和』と呼ばれていた、どこか古き良き時代。
宮城県仙台市にある東北随一の歓楽街・国分町。その中に、特に地元民に人気のスナックがあった。
そこに行けば、『彼女』に会える――そんな、名物ママのいるお店。
その小さなお店は、ママともう一人・源氏名を『梨華』という20代後半の若い女性で切り盛りしていた。
仕事が上手く行かなかった時、逆に成功した時、何となく人寂しくなった時……どんな時でもフラリと立ち寄って、美味しいお酒とママとの会話を楽しんで家路につく、そんな、どこにでもあるようで、ここにしかないお店。
そんなお店に転機が訪れたのは、名杙慶次という男性客が出入りするようになってからのことだ。
年齢は30に届かない程度、ルックスも悪くなく、人当たりも良かった彼は、ママや梨華との距離を縮めるのも早かった。ママとしても彼は年齢の割に羽振りがよく、また、至って紳士的に振る舞って楽しんでくれるので、久しぶりに上客がついたと思っていたのだ。
梨華から「彼との子どもを妊娠した」と、告げられるまでは。
「今年もまた来ることが出来たわ、梨華」
墓石に刻まれた名前を指でなぞり、彼女は目を細める。
子どもを妊娠した梨華は、程なくして慶次と結婚し、お店を辞めていった。
学生時代から苦労していた梨華が、順番は逆なれども、玉の輿ともいえる結婚をして巣立っていったことに……ママは内心、安堵していたのだ。
ママ自身、若い頃の病気が原因で、子どもを産むことが叶わない人生だった。時代として、子どもを産めない女性への逆風は今以上に強く、ましてや水商売で生計を立てている女性と共に歩んでくれる男性など皆無、いたとしても遊び人だ。本気で自分を見て、愛してくれる人など……いるはずがない。
自分はもう、1人で生きる覚悟を決めている。
ただ、娘のように接してきた彼女には、人並みの幸せを掴んで欲しかったから。
それが叶った日は、本物の娘を嫁に出した気分で、とても美味しいお酒を呑むことが出来た。
梨華が店を寿退店してから約2年後、冬の、とても……とても寒い日の夕暮れ。
いつも通りお店にやってきたママは、店の前で子どもを抱いて立ち尽くしている女性を見つけ、目を見開く。
「え……!?」
いるはずのない女性、でも、自分が見間違えるわけもない。
共に苦楽をともにして、幸せな後ろ姿を送り出した――娘のような存在の、彼女のことを。
そこにいたのは……憔悴しながらも目に強い光を宿した『梨華』と、彼女が産んだ娘。母親によく似た、はっきりした顔立ちの可愛い女の子だった。
「梨華……梨華なの!?」
久しぶりにその名前を呼ぶと、懐かしさと、どうして戻ってきたのかという苦々しさが心の中でせめぎ合う。
ママに対して軽く会釈をした梨華は、何か言おうと口をひらきかけたが……「ここでは寒いし、込み入った話は店の中でしましょう」というママの提案に同意して、3人で店の中に入った。
普段、小さな子どもを入れるような店内ではないので、店に入ったママは周囲を軽く見回った後、ソファや低いテーブルを使って店の一角を囲い、ベビーサークルのようなスペースを作った。
そして、まだ戸惑いが残る梨華に、いつも通りの口調で提案する。
「その子、ここで遊ばせておきなさい。子どもに聞かせるような話でもないでしょう?」
「ありがとうございます……」
梨華は抱いていた娘をその中に下ろすと、自分は柵代わりにしているソファに腰を下ろす。娘は特に泣くことも怯えることもなく、見知らぬ世界に興味を持っているようで、どこかめを輝かせながら周囲を見渡し、ソファやテーブルの脚を叩いたりし始めた。
ママは近くにあった椅子を持ってきて彼女の前に陣取ると、呼吸を整え、率直に問いかける。
「どうしてまたここへ戻ってきたの? 梨華、貴女は……幸せな結婚をしたはずでしょう?」
その質問に、梨華は一度、長いため息をついてから……少し震えが残る声で、答えを紡いだ。
「……その、つもりでした。あの人は確かに色々だらしないところもあったけれど、子どもが産まれれば変わってくれる、そう、思っていたんです……」
「……そう」
膝の上で両手を握りしめる梨華に、ママは内心、自分の見立てが甘かったことを強烈に後悔していた。
確かに、結婚したり、子どもが生まれたりすることで、これまでの態度が変わる男性は一定数存在する。
しかしそれは、あくまでも一定数であり、『全員』ではないのだ。むしろ変わらない方が多いことなど、これまでの経験から理解していたはずなのに。
慶次は確かに軽薄で、何を考えているか読めないところがある青年だけれど……出自がはっきりしているし、お店ではとても紳士的だった。
そして何よりも、彼の隣で笑っている彼女の顔が、とても幸せそうに見えたから。
だから信じた。
梨華が愛した男を信じて、彼女を送り出したのに。
あの時、自分が梨華に反対していたら……こんなことには、ならなかったのだろうか。
無言で続きを促すママに、梨華はちらりと娘の方を見てから……もう一度、長く息を吐く。
そして梨華は語った。自分が生んだのが女の子だったことで、名杙の家からの風当たりが更に強くなったこと。
そして、慶次の愛人が男の子を出産したことで、自分たちが追い出されたことを。
時代錯誤とも思えるような仕打ち、しかし、それを平然とやってのける家だからこそ、今、彼女は路頭に迷ってここに来るしかなかったのだ。
「ちょっと待って梨華、あなた達は今、どこに住んでいるの? まさか……!?」
女子供が2人、路上で生活をしているのではないか。
青ざめた顔で問いかけるママに、梨華は慌てて首を横に振る。
「今は実家に戻ってます。ただ……正直、あまり居心地は良くないので、いずれは2人で家を出たいんです」
「そうなの……とりあえず安心したわ」
足を組み替えたママが安堵の息をついた刹那、梨華が背中が見えるほど頭を下げて、両肩を震わせながら懇願した。
「私はこの子を守らなければいけません。お願いします……ここで、働かせてください」
そこにいたのは、己のプライドを全て捨てて、娘と2人で必死に生きていこうとする、覚悟を背負った母親の姿。
涙をこらえて頭を下げる梨華の肩に、ママは一度、ポンと手を添える。
そして「顔を上げなさい」と声をかけてから……努めて冷静に問いかけた。
「梨華、確認しておきたいことがあるの。貴女が夜に働いている間、娘はどうするの? 実家とはいえ、まさか家に1人で置いておくつもり?」
「夜間保育に預けます。とりあえず空きがある園には問い合わせていて、手続きさえ済めば入所出来るそうです」
「抜かりないわね」
「娘のことですから」
そう断言した梨華には、母親としての優しさと強さがあると、率直に思った。
ただし……これだけは言っておかなければならない。ママは心を鬼にして、唇を噛みしめる。
「梨華、貴女がとても理不尽な目にあったことは分かったわ。けれど……それのツケが子どもにいくのだけは絶対に避けなさい。この子にはこの子の幸せがあるの、貴女には、それを守る義務と責任がある、分かるわね」
「……分かってます」
梨華もまた、悔しそうに唇を噛み締め、膝の上で両手を更に強く握りしめた。
これは、自分の愚かさが招いたこと。
妊娠をすれば、子どもを産めば、この人は自分だけを愛してくれる。
きっと、幸せになれる。
そんな根拠のない夢物語を信じて、彼が差し出したガラスの靴を履いた。
そして今、そのガラスの靴は砕け散り……全て失った、惨めな裸足で立ち尽くしている。
目の前にある道は、まだまだ長く、とても険しい。
弱音を吐いたり、辛くて、辛くて……今日のように泣きたくなってしまう瞬間も、再び必ず訪れるだろう。
それでも。
今後歩き続けることで、足がどれだけ痛くても、どれだけ傷を負っても……梨華は娘を抱いて歩いていくと、心に決めていた。
ママはそんな彼女の手の上に自分の手を重ねて、首を横に振る。
「けれどね、それを1人だけで背負う必要はないのよ。貴女には私がいる、常連のお客様もいる。そして何よりも……この子がいる。この子の幸せを守るために、誰よりもこの子と向き合って生きていきなさい。逃げるのだけは絶対にダメよ。私が後ろで仁王立ちして、いざとなったら通せんぼしてあげるわ」
暖かいママの手が重なっているので、梨華は、目尻の涙を拭うことが出来ない。
化粧をしている頬に道を作るように、涙が下へ落ちていく。
「ママが怒っても、そんなに怖くないからなぁ……」
「あら、言ってくれるじゃない。ママの本気は怖いのよ?」
そう言って2人で笑い合うと、以前のような懐かしい空気を感じることが出来て。
しばらくクスクス笑っていると……そんな2人のところに、トコトコと近づいてくる小さな影があった。
彼女は梨華の背中にぴたりとくっついて、大きな瞳で、ママをじぃっと見つめている。
ママは梨華から手を離すと椅子からも降りて、彼女と目線を合わせるために、床にしゃがみこんだ。
「初めまして。お名前は……言えるのかしら」
ママの問いかけに、彼女は口を大きくあけてよく通る声で返答する。
「なー」
「なーちゃん……?」
答えを求めて梨華を見上げると、梨華は苦笑いで彼女の名前を告げた。
「『はな』です。中華の『華』の一文字で、『はな』」
その名前が、梨華の名前から一文字拝借していることはすぐに分かった。そもそも彼女に『梨華』という源氏名をつけたのはママだ。自分の名前――名字から一文字与えて、当時、梨の季節だったこともあり、2つ合わせてこの名前にしたのだ。下の名前から一文字与えるのは気が引けたし、何よりも彼女は華やかだったので、この文字を与えたことをよく覚えている。
その漢字が、どんな因果か娘にも引き継がれているということが分かると、目の前にいる小さな命に、より多くの愛しさが湧いてきた。
勿論、名付けに梨華自身がどこまで介入しているのかは分からないけれど……これもまたご縁。この子はきっと、将来、人の中央で華やかに立てる女性になる、そんな、根拠のない自信まである。
まるで……孫を見つめるおばあちゃんみたいじゃないか。
ママは内心「歳を取ったわね」とため息をつきながら、改めて華と向かい合う。
梨華が華を促して、自分の背中に隠れるのではなく、自分の隣に立つように移動させた。
華は仕切りになっているソファによじ登りながら、ママの方をチラチラと気にしている様子。
「華ちゃん……可愛い名前ね」
ママはそう言って、ソファの上に立ち上がった華を見上げた。
「私は、立華明美。でも、分町ママって呼ばれてることの方が多いわね」
「まー……?」
「そう。でも、華ちゃんのママはここにいるわよね」
そう言って梨華を指差すと、華は首を横に振った。
「これ、ままじゃない、おかさん」
「あらそうなの? じゃあ……私の事は、ママって呼んでくれるのかしら?」
この問いかけに、華は口元を緩ませてこう答える。
「まー!!」
両手を上げてドヤ顔で言い放つ華に、梨華が苦笑で訂正した。
「華ちゃん、ママだよ、『ママ』」
「まー!!」
正しいでしょうこれが大正解だよ、と言わんばかりの表情で宣誓されると、大人としてこれ以上何も言えなくなってしまう。
更に訂正しようと奮闘する梨華を、ママが苦笑いで制した。
「もういいわよ。とにかく宜しくね、華ちゃん」
「まー!!」
華が笑顔で伸ばした手を、ママがそっと握って、笑顔を返す。
それから……ママのお店は、暫くの間だけ、3人になった。
「梨華には確か、娘がいたはずよね……生きていたら30近いのかしら。どこかで元気にしてるかしらねぇ……名前も全部忘れちゃったけど」
分町ママはそう言って、苦笑いを浮かべる。
新たに再出発した、そんな時。
ある日の開店早々、1人の男性がお店を尋ねてきた。梨華は娘の食事が終わってからの出勤なので不在、対応したママに、彼は自分の名前と事情を説明する。
彼の名前は名杙領司。慶次の兄だという。それを聞いたママは、そっと名刺を裏返してから……営業スマイルを顔に貼り付けた。
「そうですか、わざわざ……何かご用ですか?」
ママがそう問いかけると、彼はずっと、梨華と、その娘のことを気にしていたこと、梨華の足取りを追いかけるうちに、この店へたどり着いたことを告げて、2人の様子を尋ねてきた。
「梨華も娘も元気にしています。ご安心ください」
変わらない営業スマイルで告げたママは、領司が差し出した分厚い封筒――ママが2人を助けてくれた謝礼が入っている――を固辞して、悪戯な笑みを浮かべる。
「だったら……このお金を使って楽しく飲みましょうよ。お酒は、お嫌いかしら?」
こうして彼もまた、ママのお店の常連になった。
時に、領司の浮気を疑った彼の妻・愛美が怒鳴り込んできたこともあったが……気がつけば彼女の方が常連になっており、領司に引きずられて帰ることだってあった。
「……ちょっと愛美ちゃん、呑み過ぎよ……っていうかそろそろ帰りなさい。またお姑さんに怒られるわよ?」
愛美は、寡黙で実直な領司が選んだとは思えないほど、明るくて饒舌な女性だった。領司とは遠縁の親類にあたり、幼い頃からの知り合いだという。
家同士が決めた結婚、と言ってしまえばそれまでだが、ママから見てもこの2人は陰と陽のバランスがとれており、お似合いの2人だと思えた。
ただし、当人同士の相性が良くても、領司が背負うのは名杙という旧家だ。当事者以外からの横槍が多く、それゆえに、ストレスも溜まりやすいらしい。(愛美談)
「だって分町ママ、聞いてくださいよー!! あの家ってもう本当、ほんっとーーーーーーーーーーーーーに時代錯誤っていうかですねーーー!!」
「だからその話5回目なんだけど……ちょっと領司くーん、他人のふり決め込むんじゃないの。営業妨害で訴えられたくなったら、さっさと連れて帰りなさーい」
「ママひどいー!! でもまた来るからー!!」
「……お騒がせしました。失礼します」
「ハイハイ、気をつけてね」
「ごちそうさまでしたーっ!! ママも飲み過ぎちゃ駄目ですよーっ!!」
そう言って領司に引きずられていく愛美のために扉を開き、外まで見送る。愛美を支える領司に苦笑いを向けると、彼もまた苦笑いををして会釈し、2人で歩き始める……そんな背中を見守るのが、好きだった。
梨華と領司を引き合わせたときは、流石に少し心配したけれど……2人とも大人の対応をしていたから、そこには何の問題も発生しなかった。
ある時は店の開店前に開催された華の誕生会に、領司が半ば強引に招待されて……カメラマンをつとめたこともあった。
そんな、幸せな時間を……享受出来た。
しかし、問題は慶次の方だった。待望の男の子が生まれたというのに、彼はあまり家に寄り付かず……国分町で相変わらず派手に遊ぶ姿が、度々目撃されていたのだ。
あまりにも目に余ったママが、彼を見つけて苦言を呈すると……彼は酒に酔った目で彼女を見つめ、ニヤリ、と、醜悪な笑みを浮かべる。
「だったら……貴女が俺の愛人にでもなってくれれば、もう遊んだりしませんよ」
「……は?」
最初、彼が何を言っているのか分からなかった。
第一、2人には開きすぎた年齢差がある。この時点でママは50代に近く、対する慶次は30代に届くかどうか。大人をからかうのも大概にしろ、と、静かに怒る彼女に、彼は悪びれることもなく、こんなことを言ってのける。
「梨華は……貴女の店で働いていますよね。俺はいつでも、貴女の店を潰すことが出来ます。梨華が働けなくなって、親子が露頭に迷ってもいいんですか?」
それは、世間知らずの若造が口にしたハッタリ、根拠のないデタラメだったのかもしれない。
しかし、宮城で名杙に逆らってはいけない……かつて、他の店舗経営者からそんな噂話を聞いたことを思い出した。名杙に逆らうと、理由もなく、必ず衰退していく……そんな、噂話。
根拠のない眉唾だと切り捨てることは出来た。でも、実際に名杙と問題を起こした経営者の店が呪われたように閉店していったことは、ママも実例をいくつか知っている。
そして彼は間違いなく、ママのことも詳しく知っているのだろう。病気故に生殖能力が欠落している彼女は、自分がどれだけ欲望を吐き出しても問題がない――梨華と同じ轍を踏むことがない、都合のいい女性であることを。
目の前で自分をニヤついた目で見つめる若造に、言いたいことは山ほどあった。
ただ……。
「……こんなオバサンに頼るしかないなんて、寂しい男ね」
少しだけ、ほんの少しだけ考えたママは……彼と契約を結ぶことにした。
慶次を野放しにしておくよりも、繋がりを持っておいたほうが……その動向を細かく観察することが出来るから。
そのためには、自分の体なんて……どうなったって構わない。
「そういえば……桂樹くんだけど、県南の学校でスクールカウンセラーとして頑張っていたわよ。ボランティアにも積極的だし、前よりずっと生き生きしてた。色々あったけど……彼はこれで良かったのかもしれないわね」
分町ママの独り言は、冷たい空気に溶けて消えた。
それを、沈黙を続ける名杙当主が聞いていたのかどうかは……本人にしか分からない。
ママが彼と契約を結んで、その事実を誰にも告げぬまま、数年の年月が経過した年明け頃……ママは突然倒れて、病院に搬送された。
告げられた病名は、末期の肝臓がん。体中に転移していて、もう、延命治療も間に合わないという。
主治医から聞かされたママは、すぐに、名杙領司と連絡を取った。
自分の遺言を、法的に何の問題もないよう……しっかり、遺しておくために。
「あのお店と私の遺産を、梨華に譲りたいの」
病室に駆けつけた領司と妻――愛美へ、開口一番に告げたママは、涙をこらえる愛美に優しい眼差しを向ける。
「と、言っても……最近は経営も苦しくて、あまり遺せそうにはないんだけどね」
90年代初頭、バブルが弾けた日本は、経済が急降下する暗い時代を迎えていた。物価はさほど変化していないのに、お客さんの数は減り、客単価もガクリと落ちてしまっていたのだ。
周辺のお店が次々と閉店していく、そんな中で、ママはお店を守るために昼夜問わず奔走し、梨華の雇用を守り続け……自分を守ることを、疎かにしてしまった。
「愛美ちゃん……もうお母さんになったんだから、あまりベソベソ泣くものじゃないわよ」
「ご、ごめんなさい……でも、どうして、どうしてママがこんなことに……!!」
「アハハ……ちょっと、無理しすぎちゃったのかしら。早く退院して、愛美ちゃんとこの息子と、遊んであげなきゃいけないのにね」
「そう、ですよ……!! ママはもう1人じゃないんだから、これからも私の愚痴を聞いてくれないと困るし、統治の成長だって……ずっと、見守って……っ!!」
震えながら自分に寄り添う愛美の涙を拭ったママは、既に覚悟を決めている領司に視線を向け、懸念事項を相談する。
これは、彼にしか話せない……そして、彼にしか解決出来ない問題だと感じたから。
「でも、梨華に直接渡すと、名波の家に見つかって、取られる可能性があるのよね……その辺を何とかして欲しいの。お願い……出来るかしら?」
「……分かった。必ず、何とかしてみせる」
彼女の問いかけに、彼は迷いなくそう答えた。そして、愛美にこの場を任せると告げてから踵を返し、病室を後にする。
それから約1ヶ月後――ママは一度もお店に戻ること無く、病室で、静かに息を引き取った。
まだ酒の残り香が漂う、墓地の一角で。
領司は懐からお猪口を2つ取り出すと、先程墓石にかけた酒の残りをそれぞれに注ぐ。
そして、その一つを右手で固く握り……そっと、手を離した。
「今年も呑めるなんて嬉しいわ、ありがとう」
降りてきた分町ママがそのお猪口を握った瞬間、世界が少しだけ震える。
しかし、そんな些細な変化に気付く者は誰もいないし、そもそもココには2人だけだ。いつも通り、誰にも邪魔されず、お酒を酌み交わすことが出来る。
本来ならば、今年は領司の妻である愛美も参加して、3人での簡単な飲み会になるはずだったのだが……愛美は体調を崩して休んでいるため、今年は2人だけである。まぁ、いずれ改めて飲み直すけれども。
分町ママは目を細めて、受け取ったお猪口を高く掲げた。
「では、改めて……乾杯」
ママが亡くなって、四十九日法要が終わった頃。
秘密裏に梨華から相談を受けた領司は、早朝に1人、仙台市郊外の海岸へ向かっていた。
「実は……娘の華が、海岸でママを見たって言うんです」
梨華とその娘が間借りしている名波の家は、海の近くにある。フラリと散歩をするのが日課だった娘が、帰ってくるなり、神妙な面持ちで梨華に告げたのだ。
「海岸を歩いていたら、ママが砂浜に腰を下ろして、海を眺めていた」――と。
彼女の潜在能力が名杙直系を凌ぐ可能性があることは、領司もよく知っていた。だからこそ、他の『縁故』に知られる前に、自分の目で確認をしておきたかったのだ。
「……この辺りか」
近くに車を止め、海岸までの一本道を歩く。人の姿はなく、穏やかに波が打ち付ける海岸線。遠くまで続く景色を見渡していると……その一角に座り込んでいる、見知った姿を見つける。
領司が近づくと、彼女は視線を向けて……彼をとらえ、苦笑いを浮かべた。
「何故か、死にきれなかったみたいなんだけど……どういうことか分かる?」と。
領司はママに、彼女の現状を説明する。
彼女が今、『痕』という存在であること。本来切れるはずの『縁』が一本残っていて、俗世間で言うところの成仏が出来ない状態なのだ、と。
そうなのかと納得するママは、領司がよく知っている笑顔を向ける。
「きっと貴方は、それを切ることが出来るのね。でも……その前に教えて欲しいの。梨華は……元気にしてる? 私がお願いしたことは、上手くいったのかしら」
その疑問に、領司は明確な答えを持ってきていた。
病室で相談を受けた領司は、その足で信頼できる弁護士に相談し、領司をママの『特別縁故者』――簡単に言うと、今回のように直接の相続人がいない場合、生前に故人の世話をしたりした人は財産分与の請求が出来る。その請求できる人を『特別縁故者』と呼ぶ――にした。そのために、領司夫婦は役割を分担し、ママの入院に関する手続きや、お店の運営などを積極的に手伝った。加えてママ本人にも遺言状を用意させて、名波の人間が文句を言っても理屈でねじ伏せる準備をしていたのだ。
梨華と相談した結果、ママの残した金銭的なものは全て、領司が華へ秘密裏に渡している定期的なお祝いに上乗せすることで合意。梨華に半額渡すことも伝えたのだが。梨華は頑なに拒んだのだ。
「私には……ママが遺してくれたお店がありますから。それだけで十分です」
強い眼差しできっぱり告げた梨華に、領司はこれ以上何も言う必要がないことを悟る。
そして、ママの墓を彼女達の家の近く……海の近くにある集団墓地の一角を用意して、いつでも梨華が会いにいける環境を整えた。
後は、領司が……ママと梨華を繋ぐ『関係縁』を切れば、終わりだ。
『縁』を切ればいい、それで全てが終わる。
いつも通り、いつも通り切れば、それで終わるはずなのに。
領司はシルバーのペーパーナイフを握りしめたまま立ち尽くし……一度、呼吸を整えた。
そして、覚悟を決める。
「ママ……一つ、貴女にどうしても頼みたいことがある」
意外な言葉に、ママが首を傾げた。
「頼み事? こんな私に?」
「ああ。今の貴女にしか頼めない。私達の家を……一緒に支えてはもらえないだろうか」
それは、これまでに聞いたことのない世界の物語。
そして、今まで分からなかった……『名杙』という家のカラクリ。
「正直、まだ良く分からないのだけど……私が、その『親痕』っていう存在になれば、消えなくて済むってことなのかしら?」
眉をひそめつつ尋ねるママに、領司は一度頷いてから、更に言葉を続ける。
「名杙の家は今……情けないが、少しゴタゴタしているんだ。弟は貴女にもご迷惑をおかけしていたし、妹の結婚に関しても、少々問題が発生している。そのために……本来の役割を果たすことさえ、難しく感じているんところだ」
「本来の役割……?」
ママの隣に腰を下ろした領司は、海の方を見つめ……はっきりした声音で答えを告げる。
「私達のような能力者――『縁故』は、生命の循環を守る存在だと思っている。この世界に存在する者たちの居場所を守り、失われた命は天に返し、再び転生するのを待つ……『縁故』は、そのための守り人だ。本来は……生きている人間に干渉するべきではないのかもしれない」
そう言って口を閉ざす領司の横顔は、名杙という旧家を継ぐ者ではなく、ママがお店でよく見ていた、年相応の男性のものだった。
そんな彼の背負うものが何なのか、今のママにはまだ、よく分からないけれど。
でも……例えばこれもまた、人同士を繋ぐ『縁』なのだとすれば。
この『縁』が切れるまで、もう少し、この世界を見つめ続けても……いいのかもしれない。
フッと、何となく、心からそう思えたから。
「……分かった。私に出来ることならばやってみるわ。どうすればいいのかしら?」
「『親痕』となるには、私と改めて『関係縁』を結んでもらう。基本的にコチラの言うことに従ってもらうことにはなるが……一つだけ、報酬を選ぶことが出来るんだ」
「報酬?」
「ああ。『痕』にはもう、人間のような五感はないし、当然ながら肉体もないから物に触れることは出来ない。ただし、『親痕』契約をしている親――要するに私との間で一つ取り決めを実施すれば、その物だけ、私を通じて、実際に受け渡すことが出来る」
「……なるほど。要するに、ずっと与えられても苦痛にならないほど好きなものを一つだけ選べってことね」
「ああ。ただ、繰り返しになるがママにはもう味覚はない。仮に食べ物を選んだとしても味が分からないから、例えば……書籍や音楽などの嗜好品を選び、生前の趣味を引き継ぐことも可能だ」
領司の言葉に、ママは迷うこと無く返答する。
「じゃあ……お酒にするわ」
刹那、領司がママの方を向き、困ったような、苦い表情を作った。
「酒……しかし、もう味覚はないのだから、仮に手渡せたとしても味は分からない……」
「いいのいいの、お酒なんて気分次第でいくらでも美味しく感じるんだから」
心配そうな領司をママが見つめ、豪快に笑い飛ばす。
その笑い方は、生前、彼がよく目にしていた表情。
「それに……お酒にすれば、また、領司君や愛美ちゃんと一緒に楽しめるんでしょう? 私にとってはこの上ない報酬なの。その辺の乙女心を理解して頂戴」
「乙女……」
「何でもないわ。とにかく私はお酒を希望する、それが条件よ」
そう言われて、領司はこれ以上の説得が無意味であることを悟る。
その日の午後、名杙本家は大騒ぎになった。
当主でもない領司(現時点では次期当主)が、勝手に『親痕』を増やしたのだから。
当然、周囲からの反発が強く、特に彼女の正体に気付いていた慶次の反発は凄まじいものがあった。
ただ、領司と愛美はこれまでにない確固たる決意で、ママを『親痕』として迎えることを決定。既に当主へは自分たちで話をつけていた。反発するならば切る――そう言えば誰も逆らえない、それが、名杙という家なのだから。
そして、ママは……名杙家の『親痕』となった。
それから15年近くの年月が経過し……『親痕』の分町ママとして過ごす時間の経過と共に、生前の記憶は薄れていく。
そして、決定的な出来事となったのが……あの、大きな災害だった。
沿岸部にあったママのお墓は、墓石や遺骨など、その全てが流されてしまい――梨華自身もまた、災害で命を落としたことで。
梨華と繋がっていた『関係縁』は、完全に、切れてしまった。
「この場所は見晴らしが良くていいわねぇ……」
今年も領司との晩酌を終えた分町ママは、遠くを見つめ、口元に笑みを浮かべる。
あの災害の後、2年以上かけて梨華の遺体とママの遺骨を探し当てた領司は、海が見えて名杙本家からも近いこの場所に、新しい墓を作った。
梨華は車ごと海の中に引きずり込まれており、遺骨が車内にとどまっていたのだ。
本当の家族以上の『縁』で繋がれていた2人を、時間はかかったけれど、同じ墓石の下に埋葬することが出来た……それだけで安堵したくなるけれど、まだここに、梨華の娘である華を眠らせてあげるまで、安心することは出来ない。
華に関しては、領司の息子である統治が非常に有益な情報を掴んでいるらしい。きっと、そう遠くない未来に……何かしら、前向きな報告が出来ると信じたい。
お猪口に入った日本酒を飲み干したママは、更に目を細め、溜息をついた。
余談だが、ママが日常的に呑んでいるお酒は……全て、『親痕』になってから領司を通じて提供されたものである。味も喉越しも分からないけれど、呑んだ時の『幸せな気持ち』を忘れずにいれば、より具体的に手元へ導き出せるようになっていた。それこそ……現・名杙当主が、その速度と精巧性に、思わず舌を巻くほどに。
中身が空になったことをアピールするママに、領司は少し大げさに肩をすくめてから、再び同じ液体でその中身を満たす。
それを確認したママが、口元に笑みを浮かべて彼を見つめた。
「領司君もそろそろ、私と同じくらいの年齢になるのね」
「ああ。これくらいになると落ち着けるかと思っていたけれど、やらなければならないことが山積しているよ」
お猪口の中身を見つめ、領司もまた、口元に笑みを浮かべる。
分かっていることだった。ママはもう、歳を重ねることがない。
出会った時はまだ青年だった領司も、今ではクラスメイトくらいまで近い年齢になってしまった。
そんな彼は、今――名杙という大きな家をまとめ、次世代に引き継ぐ存在として、最前線で戦い続けている。
そんな彼を支えるのは、明るく家を守ってくれる妻の愛美、次期当主としても、人間としても成長している統治、そんな彼を追い越しそうな勢いで成長目覚ましい心愛――要するに、家族。
そして、ここにいるママもまた、気心の知れた家族同然の存在だ。これまでに多くの苦難を乗り越え、これから襲い掛かってくるであろう困難にも共に立ち向かってくれる、そんな、頼もしい存在だ。
領司が軽く掲げたお猪口に、ママはそっと、自分が持っているものを近づける。
「そりゃあそうよ。だって、名杙の現当主なんだから。むしろこれから……若い子のためにも、もっと頑張ってもらわないとね」
「手厳しいな」
「当然でしょう? 私達はまだまだ、こんなところで隠居するわけにはいかないのよ」
そう言って、ママは視線を海の方へうつした。
雲間から差し込むかすかな光が遠くに見える。今はまだ、理想には届かないけれど……これからも彼を支えて、なるだけ過去を精算した上で次の世代に引き継ぎたい、今は心からそう思っている。
「何だかんだで……あっという間の20年だった気がするわ。統治君も成人したし、政宗君は偉くなったし、それに……」
それに……分町ママは言いよどみ、再度、自分の墓石を見つめる。
そこに刻まれた2つの名前、そのどちらにも……今は正直、以前ほどの思い入れはない。
今のママには、梨華という人物と、生前に多くの時間を楽しく過ごしたらしい……という、おぼろげな記憶しか残されていないのだ。そして領司もまた、彼女の負担を減らすために、生前の情報は積極的に知らせていないのが現状でもある。
日々離れていく過去との繋がり。
そんな状態でもなお、ママが墓石を見つめるのは……。
「それに今は、彼らよりもっと若い子たちが集まってきて刺激的だから……ママもまだまだ、負けていられないわ」
ここには、自分の話を聞いてくれる『家族』がいる、そう思っているから。
挿絵は、この小説を元に作って頂いた動画から拝借しました。おがちゃぴんさん、本当にありがとうございます!!
動画はコチラです→https://twitter.com/ogachapin7/status/960484089319976961