第23話 無機質な絆、データパッド
脱出速度の時速百四十二キロに加速した<ケイローン>号は、月の引力圏から逃れて、地球の引力に捕えられると身をまかし、緑の惑星を目指しはじめた。艦橋にいる乗員達は、三年にわたる長かった航行の疲れも忘れて、操船に必要なやり取りの確認すら、歓呼するように交わしあっていた。
「あれから船長はずっと引き籠ってるのか?」
「本当なら帰還を楽しみたいんだろうが、少しやっかいな荷物を引き受けちまったからな」
航海長が副長の問いかけに応じた。
そこからほど遠からぬ医療ブロックにある部屋で、トゥラキアはずっと少年と一緒にいた。
清潔で無機質な部屋は、内装に衝撃吸収材を張りめぐらせ、床に固定されたベッドとテーブル以外なにも置かれていない。注意しなければ、床や壁、天井までもが、薄く淡いグリーンに彩られていることに気づけないほど、部屋は静謐だった。
「あと百時間もすれば、あなたの生まれた星、地球に降りられるわ」
「…………」
ヒュードラーの無言の抵抗には、残骸をかき集めた鉄屑に身を隠し、隙間から石を投げるつける鋭利さがあった。
暗黒のように暗い天井。底なしの空を落ちていくような恐ろしさ。背中がなにかに支えられていることに驚く。少しのあいだあった安心感と白い天井。どこからか聞こえてくるマーチの憂うような声。心配そうに見つめてくるリンジーのまっすぐな青い瞳。
嫌だ。ボクはリンジーのことを許したりしないんだ。友だちだって言ったくせに、僕と姉さんを引き離したんだ。絶対に許せない。
何度も突き上げてくる激情。しかし、その度に怒りを突き崩そうとして、深く青い瞳が見つめ返してくる。瞼を閉じて開く。白い天井がある。
何も変わってなんかいない。臭くて汚れたまっ黒な天井が白くなっただけだ。必死に我慢してきたのに、姉さんがいたから我慢してこれたのに……。
「聞こえたの? あたしの言ったこと」
トゥラキアはベッドで仰向けになったまま、データパッドの画面を眺めていた。体の上で腕を組んでいる。
少年は頭を天井に向けたまま、時折り探るように眼だけ動かして、様子を伺ってきた。
「知るもんか……」
見飽きた天井……いつまで見ていても変わらなく白い……汚れひとつない白いもの。突然、瞼の裏に不思議な疑問が浮かんできた。
ベッドに横たわる嫌いな女。データパッド。
どうしてあれは落ちないのだろうか? あの可笑しな機械はきっと重いはず……なのになぜ?
「地球に帰れるのよ。どういう意味かわかる?」
ヒュードラーは湧いた疑問と声に引かれて、振り向いた。
やはりデータパッドはふわふわと浮いている。
彼女が腕をほどき、指がパッドに触れる。とたんに画面が放っていた光の色が変わった。
「やっとこっちを見てくれたわね」
「…………」
どれもこれもくだらない内容ばかり。トゥラキアは何時間も眺めつづけていた雑誌の内容にうんざりしながら、ずっと待っていた時が訪れたのではないかと思った。ただ見える風景が変わっただけ。軟禁生活であることは変わっていない。閉塞した気持ちにさせないでおくには、誰かが傍にいるというたった一つの現実がいる。
彼女はいつも一人にされていた幼少時代を思い出しながら、ずっとくだらない雑誌の記事を追って、吐き出せないできた怒りを、そこにぶつけていた。
「それ、どうして落ちないの?」
「え? 何のこと?」
「その、さっきからずっと見てる四角いやつ」
ずっと……か。見ててくれたんだ。あたしのこと……いや、このパッドをかしらね。
胃の中でじゅくじゅく発酵していた痛みが、また現れることを予言するかのように、じゅくじゅくともとあった場所に治まっていくのがわかった。
「ここは宇宙船の中よ。重力が無いから浮いてるんじゃない」
トゥアキアは遠慮もなく少年に難しいことを言っていると思ったが、そしらぬふりをして、
「何が不思議なの?」
と言った。
「うまく言えないよ。でもなんだかね……」
「なんでだろうね」
データパッドに指を走らせ、彼女はDOXAの職員名簿を表示させた。
「なんて言えばいいんだろうね?」
「うん……」
少年に背を向けるように寝返りを打った。パッドを興味深々で見つめている少年の姿が映るようにして、ページをめくる。
信頼のおけそうな人は……駄目ねこの人は。この人は確か……でも家庭をもっていないはずよ。ということは既婚者で検索したほうがいいわね。
トゥラキアの背中がパッドを遮っていた。
それでも少年は疑問に捕まってもがいていた。ベッドに起き上り、自分よりずっと大きな背中ごしにあるパッドに視線を注ぐ。床にあるスリッパめがけて足を下ろし、堅くも柔らかくもないベッドの端に座ってみたが、言葉が思い浮かばない。
「さっきの話はもういいの? 地球に帰れるとかいう話……」
恐る恐る少年は口を開いた。
「ちゃんと聞いてたのね」
「うん……」
「お父さんとお母さん、欲しくない?」
「え?」
唐突に問いかけてきた声はくぐもっていたが、優しかったリンジーを思い出させた。
少年は甘いような饐えた味の唾を飲みこんだ。
「あたしがなるんじゃないわよ。あなた、あたしのこと嫌いでしょ?」
「…………」
「お姉さんがわりになるにしても、あたしは少し大人すぎるしね」
ああ、この人達。確か……大学時代のあの教授だったかしら? 少しの間しか講義は受けられなかったけど……。
彼女の奥で眠っていた理想の父親像が目覚めていった。
詳細データはこれかしら。
「ねえ、どうして落ちなかったの? そのさっきから見てるやつ」
「知りたいの?」
「う、うん……」
トゥラキアはデータパッドを掴んでぐるりと体を転がすと、ベッドの端に腰を下ろした。
眼の前には、同じようにして座っている少年がいる。
「小さいのね。もう少し背丈があったように思ったんだけど。それに痩せっぽちね」
耳をつんざくほど絶叫し、凶悪なまでに暴れていたあの少年の面影はどこにもなかった。
「これのこと、知りたいんでしょ?」
そうい言って、彼女はパッドをゆっくりと押しだした。
肩を落とし丸くなっている少年。まるで過去の自分を見ているようだった。ガラスの破片のような怒りが翳っている。
角に丸みがつけられ、それほど厚みのない長方形をしたデータパッドが、少年へと頼りなく空中を漂ってゆく。
色の違う瞳がわずかに見開かれて、ふわふわ漂っていったパッドを少年の両手が受け止める。
たくさんの文字、意味のわからない記号が並んでいる。とある一行だけ色が変わっていた。
「その色の違うのが、あなたのお父さんとお母さんになるかもしれない人達よ」
少年はじっとその文字を見つめた。
ハウ・メア……エリス・メア。かろうじて読めた文字が奇妙に温かく感じられた。
お父さん、お母さん……。
「嫌じゃなさそうね。まあいいわ。ゆっくり考えればいいの。何事にも時間は必要なのよ」
そう言うと、トゥラキアはころりと体をベットに横たえて、少年に背中を向けた。
ようやく眠れそうだわ……。
彼女の眼は真っ赤に充血し、乾いた睫毛の周りには蒼黒い隈が張りついていた。
「いいものよ、お父さん、お母さんていうのわ」
半分は自分でも信じられていないことを言っているのが虚しかった。それでも、そこに幸せがあると信じてさせてあげることしかできないと彼女は思った。
「そのパッド、好きにしていいわよ。色々なものが見られるわ。いじってみなさい」
「うん……」
「おやすみ」
「…………」
少年の指は、それから何時間もパッドの上をさまよっていた。
正義のヒーローが活躍する映画を見はじめたとき、彼は体の上で腕を組み、パッドを宙に浮かせていた。
途中で眠りに落ちてしまったが、少年は夢の中で物語りのつづきを見ていた。




