薄氷の中へ
寝間着をシズクの分まで鞄に詰め込んだユリは、シズクの家まで早足で向かった。古ぼけた街灯に群がっている蛾が狂ったように舞っているが、その事も目に入らないのか、黙々と歩く。惑うことなく足はシズクの家へ向かう。
ユリの脳は、幼馴染みを証明することだけを考えていた。彼女は、自分と同じ人間だという思想のなかを彽徊する。
だから、街灯から落ちてきた蛾を踏み潰しても尚、歩き続けていた。
だが、ユリの心の裏にはその考えとは逆のものが微かに広がっていた。拒みたくなるほど冷たい、痛々しい思想。それは空の色と同じ色をしていた。
シズクの家に着いたユリは普通を装いながら扉を開けた。すると、奥の方からシズクが顔をだす。彼女はユリの姿を確認すると、ニコッと笑った。
「おかえりー!!私のパジャマ持ってきた~?」
ユリは先程の緊張感とシズクのいつもの調子とのギャップで暫くキョトンとする。シズクが不思議そうに首をかしげ、こちらを覗きこんだとき、ようやくため息をついた。
「……もってきたわよ。まったく、タンスの整理くらい自分でしなさいよ。」
ユリはぶっきらぼうに鞄を突き出した。シズクは敬礼し、ありがとうございます!と言った後、鞄を受け取る。遠慮なくユリの鞄を開き、自分の寝間着と思われる服を取り出すその姿は、昔から変わらぬ幼馴染みの姿そのものだった。
「ねぇねぇユリ、」
静かな玄関でシズクの声が響く。その声が背骨を通り、耳に届いたとき、ユリは思わずシズクの方に振り向いた。
「…………一緒にお風呂入ろう!」
そこにあったのは、太陽のような笑顔の幼馴染みだった。緊張の糸が解かれ、ほっと力が抜けた。
「いいわよ。別に。」
そう言うや否や、シズクは子どものようにはしゃぎながら風呂のある部屋へと駆けていく。それを気を付けなさいと注意しようとしたユリが少し大きな声を出そうと息をすったとき、何かにぶつかる音が奥から聞こえてきた。
お風呂からあがり、着替えたユリは水道場にあるコンセントにドライヤーのプラグをさした。そして、櫛とドライヤーを持つとシズクの髪を梳かしながら乾かしはじめる。少しくせのある彼女の髪の毛は何度梳かしてもいうことをきかず、毛先が天井にむかってはねていた。
「おや…………?ユリよ、苦戦しているな?私の可愛いこどもたちに……」
シズクのしたり顔が鏡に映った。ユリは無表情のまま近くにあったヘアクリップを手に取ると、すぐさま先程のくせ毛をそれで挟む。すると狙い通り、シズクのしたり顔は崩れ去った。
「あぁ、私の可愛いこどもたちがぁあああぁぁあああ!」
「……あー、あなた、そう言えば堕天使だったわね。というか、そのネタ、健全な恋愛小説を読むピュアな女子には通じないわよ。幸い、私はあなたのせいで理解できるようになったけど。」
先程のシズクのネタは、流行ったゲームのなかに出てくる台詞なのだが、ゲームをやっている人数が女子の場合、少ない。だから大抵の女子は頭の上にはてなマークを浮かべているだろう。だが、シズクの話しには、そんな要素があっても何故か笑えるのだ。ある種の才能なのかもしれない。
「じゃ、じゃあ、闇の炎に抱かれて馬鹿なっ!……は?これはけっこう前からあるから……」
「それもピュアな女子が聞いたらナニソレオイシイノ状態よ。」
「え~~!!!かっこいいのに?!かなり前からあるのに?!発売から10年以上たった現在でもネタとして愛されているのに?!」
「女子はあんまりRPGやらないわよ。」
「うわあああ、うはっうはっちぃっ!馬鹿なぁあああぁぁああああぁあああ!!!」
ユリは叫ぶシズクの頭を軽く小突く。しかし鏡のなかのシズクは、”テヘペロ”をしていた。反省の気配がないその顔をみていると、ユリの抱いていた夜空の色をしたあの感情は薄れ、消えそうになっていた。その時、フッと緩んだユリの表情をシズクは笑顔でずっと見つめている。
「あなた、そのシリーズ、小学生のときはまってたわね。主人公そっちのけで好きなキャラばっかり操作して…………HPがヒロインより低いって嘆いてたわね。防御力も低いから、紙剣士なんだー、とか…………」
昔を思いだしながら櫛を動かす。
「そうそう!!!でもね、かっこいいんだよ~ありゃあパパ立場っていうか。見た目は16歳だけどね。でも精神だけ大人になってるからさ~しかも頭もきれるし。」
白馬の王子様のことを語るように楽しそうなシズク。それを見たユリは、優しくクスクスと笑う。
「あら、あなたのタイプってああいう子なの?」
「…………うーん、そだな。気を使わなくてもいいくらいわかり会えていて、私より頭がよくて、大人びていて、わたしの手をひっぱっていってくれる…………そして、わたしの手からはなれていかないひと…………がいいかな。だからなんだかあの子に惹かれたのかもね。」
シズクの目線は、何もない空間に向けられていた向けられていた。
風呂からあがった後、二人は寝るまで勉強をし、歯を磨いた後に布団を押し入れから引っ張り出していた。シズクは相変わらずの怪力で片手で布団を引っ張りだし、ぽんぽんと投げている。それをやっとこ抱き止めるユリは、二、三歩よろめくと、シズクの部屋の適当な所に布団を敷く。この連携であっという間に二人の布団が敷き終わると、シズクは布団にダイビングした。モフッと埃が舞い上がる。一方、ユリはゆっくりと隣の布団に座る。
「あーーー、勉強したー!いっつも途中でヨガしだしたりラジオ体操するからダメなんだよね~。わかってるけどやっちゃうんだよね~。」
シズクはあくびをしながらそう言った。
因みに彼女はヨガやラジオ体操という言葉で片付けているが、その内容はそれらを超越したものである。ヨガでは空中でポーズを決めだしたり、体をありえない方向に曲げたり、もはやヨガというより変態ダンスである。
ラジオ体操も変態体操と化している。まず、普通のラジオ体操の20倍ほどのスピードである。これを見ただけでもう某テレビ局のラジオ体操の方も開いた口が塞がらないだろう。そして、新体操が混じってくる。少し跳ねればいいものを、何故か天井まで飛んで何回転かした後、床でバク転をしながら空中で回ったりするのだ。彼女曰く、新体操部で教えてもらったとのことだが、その新体操部がこれを見たら気絶するだろう。
「あなた、よくあんな動きができるわね。あー、この国はいいわね。この怪物が世界的な大会にでればメダル取り放題よ。」
ユリは布団に潜った。この季節は夜も暑さが冷めぬが、布団の温もりが恋しく感じた。
ほんのり暑い体。その反面、冷えていく心。目をとじても意識ははっきりと覚めていた。
目を閉じたことを察したのだろう。明かりが消えた。おやすみという声が頭に響く。反射のように、ユリの口からおやすみがこぼれおちた。
それからどれだけたっただろうか。周期的な寝息が鼓膜を震わした。ユリの目がぱっちりと開く。音をたてぬように布団から出ると、肩のあたりに火影が寄ってきた。
靴下が床を摺る音もさせずに出口までたどり着く。ドアノブをゆっくりとひねって、蝶番の音もさせずに部屋から外に出た。
何事もなかったように静かにドアがしまると、ユリは隠し持っていたLEDのペンライトを握りしめる。
心臓の音だけが、耳に響いていた。
大丈夫だ、問題ない。
………………一番いいのを頼む。