始まりの歯車
私の名前は黒井ユリ。
現在私は、他人の家に住んでいる。
___どうしてこうなったのかしらね。思い出してみましょうか。
彼に捕まったからかしら。
彼を傷つけたのだろうか。
……いいえ、全ての元凶は___
あの日だったのかもしれない。
始業式が終わり、教室へ戻る途中の少女、黒井ユリは不機嫌であった。
何故なら、校長の話が、なんと最長の25分という素晴らしい結果だったからだ。なにやら、自分が君たちの年代のころは……などと、どうでもいい話が続いた。
そのせいで、足が痛む。それでも教室に着くまではと、私は足を動かした。いつもは気にならない教室までの距離が何故か、長く感じる。
暫く歩くと、やっと教室に着き、ユリは自分の席につく。椅子のギシッという音とともに、今まで立っていた疲れや痛みが抜けていくようで、つい、彼女は頬杖をついた。
「おお、さすがのユリもお疲れかな?」
明るい声が、隣の席から聞こえてきた。この声の主は、私の幼馴染みの萩野シズクである。シズクは、幼い頃から元気な奴で、何事にも全力で取り組む頑張り屋なのだが、力の加減ができず、色んな物を壊す。
「ええ。細胞がいつもより錆びているわ。校長の話のせいでね。」
「また難しい答えでかえす~。普通のひとじゃ分かんないよ~」
シズクは小鳥のように声をたてて笑う。そんな彼女を見て、よくそんな元気があるものだと、ユリはため息をついた。
そのため息と教室のざわめきを切り裂くように、教室のドアが先生によって開かれる。ざわめきは収縮し、ついには空気に隠れた。
先生の話は始業式で校長が言ったであろうことから始まった。しかしその話は、興味がないユリの耳には霧がかかったように、ぼんやりとしか聞こえていなかった。
―――だが、その霧は、ある言葉によって晴れた。
「明日、転校生がくる。」
ユリはハッとした。急に音が鮮明に戻り、教室のざわめきが耳を突き刺す。
「どんなやつかはお楽しみだ!!!」
周りからは、「イケメンか美女ですかー?!」や、「どんな子なんですか」と質問がとびかっている。しかし先生は、だから明日来てからのお楽しみだ、と言って質問タイムは幕をおろした。
その後、明日の連絡を行い、帰りの挨拶して、今日の学校生活が終了する。
「なあなあ、ユリ、転校生はどんな奴なんだろうな?わくわくするなー♪」
昇降口に向かうユリに、いつものように話しかけるシズク。シズクは腕を振り回し、楽しみだとうたっている。
「ちょっと、シズク。止めなさい。ぶつかったら男子でも泣くわよ」
ユリがそう言うと、シズクをブスッとして頬を膨らませて、反論する。
「だってーだってー、楽しみなんだもん!仕様がないじゃん!」
「そのまま腕を振り回し続けてごらんなさい。何かが壊れるわよ」
すると、いったそばから、壁に手がぶつかり、壁にヒビがはいる。シズクは一瞬固まり、「何もしーらない」と口笛を吹いて、下駄箱の方へと駆けていった。
ユリはため息をつき、下駄箱の方へ歩く。下駄箱につくと、上履きを脱いでいる間にシズクが下足をスタンバイし、昇降口で待っていてくれた。
ユリは下足をはき、昇降口に出てからシズクに礼を言い、歩きだした。まだ暑さの残る空気を押し退けるようにあるく。
「暑い……暑いよおおーーー。死んじゃうよおおおーーー。」
「うるさいわね。そう言ってるから暑いのよ。」
「じゃあ……すーずすぃーーーー!!なんて涼しいんだ!」
「……逆にこっちが暑いわ…」
シズクが騒ぐものだから、こちらまで暑くなる……そう思いながらユリは歩いていた。
しかし、急にシズクは騒ぐのをやめ、立ち止まった。ユリはどうしたの?と言うようにシズクを見る。
シズクは何かを見つめていた。その正体を知るべく、ユリも彼女が見つめる場所をみた。
―――木の下に、携帯電話を持った少年がいた。その少年は、興味のない目をしたユリの時間を止めていた。
少年はユリ達の視線に気付いたのか、こちらに近づいてきた。
「すみません、あそこの中学校の方ですか?」
少年は笑顔で訪ねる。おそらく、携帯電話の地図機能で私たちの通う学校を探していたのだろう。
「はい。そうですが……中学校への道、ですか?」
「おお、勘が鋭いですね。その通りです。」
「中学校なら、ここを真っ直ぐいって、右に曲がるとすぐそこですよ。」
ユリがそう言うと、少年は、礼を言って彼女のすぐ傍を通り、中学校へ歩いていった。
「さっきの少年、かっこよかったねえ!………って聞いてる?」
ユリは不思議な感覚に落ちていた。シズクの言葉など、聞こえていなかった。
何故なら、少年が、すれ違う時、こう言ったからだ。
『___またね』
「どういう意味よ……」
夢のなかで呟いているようなユリに、シズクはチョップをかます。彼女の激痛チョップでユリは正気に戻った。
「ユーーーーリーーーーーー?!シカトなの?」
「あら、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたの。」
ユリはそう言って、また歩きだした。
翌日教室はは朝から雑音で満ちていた。転校生の話題で盛り上がっているのだ。
ユリはそんなことより、昨日の少年の言葉が頭に染み付いて離れず、ずっと考え事をしていた。『またね』と言うということは、『また会う事が確実に分かっている』か、『また会いたい』という強い願望があるか―――
「どういう意味なのよ……おかげで本を読む時間が台無しじゃない。」
ユリは一人、呟いた。するとシズクが机の前にしゃがむ。
「まーだ考えてるの?ユリは考えすぎな時もあるからね?」
ユリは顔を上げ、シズクの鼻の先を指で押した。
「そうね―――ありがとう。」
シズクはユリの指を掴んで鼻から遠ざけると、ニッと笑い、立ち上がった。そして、どうだ、言うように胸を反らす。
「ふふふ、幼馴染みの言うことは当たるもんでしょ~まあ、私、天才だしね~!」
シズクは鼻の下を人差し指でさする。しかし、ユリは呆れた顔で呟く。
「……天才ではないとおもうわ。」
「なっ!ちょちょちょ!今なんて言った!?なんか否定しなかった?!」
シズクが机をバンバンと叩く。すると、ユリはシズクの目を見てクスッと笑った。そのユリの目は、幼馴染みのシズクにとって、「そうよ♪」と言っているようにしか見えなかった。
「うえーん!ユリのバカあああ!何でそう言うのよー!」
「あら、言ってはないわよ?」
シズクはブンブンと腕を振り回す。悔しいのであろう。ユリは物が壊れる前に、シズクを止めようとした……
ガラッ。
教室のドアがあく。皆の目は、一気にドアの方に向いた。そして、ドアから先生が現れ……
転校生が現れる。
教室はざわめきを増し、ユリの時間が止まる。シズクは、目を見開いた。
―――何故なら。
予想した通り、彼が、あのときの少年が、ユリの心の糸を絡まらせていた犯人が、現れたからである。
「それじゃあ椎名、自己紹介を……」
黒板に、白い文字が広がっていく。文字は下へ下へ広がり、止まった。そして彼は振りかえる。
「椎名ヒササキです。よろしくお願いします。」
周りの声などユリには届かなかった。彼はユリの存在に気づく。そして、目が合った。ユリは、目を背けられず、ヒササキの目を見る。
ヒササキの微笑む顔は、『また会ったね』と言っているように見えた。
「あ、道を教えてくれた子。ここに居たんだ。」
ヒササキはユリに近づいてきた。先生は少し戸惑い、「おい、まだ紹介が―――」と言っている。しかしヒササキは止まらず、ユリの方へ近づく。教室は戸惑いと驚きの声で満ちていった。
ついに、ヒササキはユリの目の前にたどり着き、ユリの手を握った。
「よろしくね。……ユリさん」
ユリは固まっていた。そして隣のシズクは口をポカーンと開けていた。しかしシズクはすぐに正気に戻り、ヒササキの手を得意のチョップで振り払う。
「……ちょっとごめんね?ヒササキ少年?ユリが固まっちゃったんだけど。」
シズクはヒササキのチョップした部分をさすり、「オヒキトリクダサイ」と言うような笑みで彼を見た。ヒササキは微笑んでいるものの、目が笑っていない。ユリはその状況をみて、止めなければ、と固まっていた口を開いた。
「ヒササキさん、とりあえずまだ紹介があるそうよ。ほら、先生が戸惑って良い表情をしているわ。」
ヒササキはごめんねと言って、先生のところへ歩いていった。
紹介が終わり、休み時間になった。シズクはすぐにユリの傍に来ていた。シズクはかなり不機嫌そうである。きっと、ユリの席の隣―――シズクの席の隣の隣にあたる席に、ヒササキの席があるからだろう。
「さっきはごめんね、ユリさん。なんか嬉しくなってさ。会いたかったし。」
ヒササキは笑顔で言った。するとユリは一つの謎がとけたような顔をした。
「あら、そっちの意味だったの?」
ヒササキは「え?」という顔をしていた。ユリはその顔を見て少し微笑む。
「とにかく、急に女子の手を握るのは良くないわよ。それに、私の名前、何で知ってるのかしら。シズクの声が馬鹿でかかったの?」
ヒササキは笑顔で、そうだよ!と言う。シズクはこの状況を微笑んで見ていた。
「ところでヒササキ少年。私の声が馬鹿でかかった、というユリのボケにのるってどういうことよ?」
微笑みを崩さぬまま、シズクが尋ねる。するとユリが呆れた顔で言う。
「ボケてないわよ?……まあ、机破壊の音に比べたらましだけど。」
ユリがそう言うと、シズクは腕を振り回し始めた。そしてすぐそこの壁に拳をぶち当てまくる。すぐさまユリはシズクを羽交い締めにし、シズクを席にすわらせる。
「シズク、止めなさい。放課後、私は学級委員として、彼を案内しなくちゃいけないの。壊れた壁はみせたくないわ。」
シズクは唸りながらも静かになった。
始業式の次の日である今日は職員会議であったため、下校はすぐであった。しかし、先生から前日に、転校生に学校のなかを紹介するように言われていたユリは、皆が教室から去っていく中、何処を紹介しようか迷っていた。
(やっぱり、こういうのはシズクに協力してもらわなければ、ね)
シズクはユリの考えをよんでいたのか、すぐそこで待っている。ユリはシズクの方へ向くと、手招きをした。
「待ってましたぜ、アネキ!」
シズクはすぐに駆け寄り、ユリを突っつく。ユリはため息をつきながらも、嫌そうではなかった。ユリはヒササキに声をかける。
「それじゃあヒササキ君、学校の案内をするわ。ついてきて。」
ユリはそう言うと教室から出ていった。それにつれてシズクとヒササキも教室をあとにする。
ヒササキは、廊下を歩いている間、ずっとユリを見つめていた。歩く度に揺れる黒髪は、まだ明るい太陽の光を浴びて輝き、所々七色に煌めいている。それは漆黒の夜空に、満天の星が散りばめられているようで、えもいわれぬ美しさで湛えていた。
―――シズクはヒササキをチラチラと見ていた。彼の目は、宝石に魅了された人のような、言い様のない輝きを宿している。
ユリはシズクの手をかりながら、色んな所を紹介していった。ユリがシズクの手をかりたのは、彼女が沢山の噂、―――すなわち、情報を沢山持っているからであった。シズクは盗み聞きも上手く、友人も多いため、沢山の情報をやり取りしていた。
「ここが、学習室。空き部屋ね。……シズク、ここにまつわる面白い話はないかしら。」
ユリがシズクを指名すると、シズクはすぐに答えた。
「ここで、野球部の先輩が器楽部の部長に告白したね。ふられちゃったけど。」
ユリはシズクに礼を言うと、次の場所へ歩き始める。
それからいろんな場所を紹介する間に、随分日が落ちてきて、空はオレンジ色に染まっていた。
そう、楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。橙色の光が、ユリの髪を濡らしていた。その姿は、何もない、誰もいない、混沌としたこの空間には勿体無いほど美しい……そんな風にヒササキを魅せた。
「ここまでかしらね。どう?ヒササキ君。楽しかった?」
ユリは笑顔で尋ねた。
「楽しかったです。ありがとうございました。」
ヒササキは笑顔で返した。
翌日の朝。ユリは何時も誰よりもはやく教室に来ていた。ユリが教室のドアを開けると、ガラガラという乾いた音が空の教室に響く。まだ水面のような静けさを保った空間である。
ユリは教室の窓を開けた。まだ沢山の人間に汚されていない空気は湧き水のようで、ユリの頬を優しく撫でた。この時間は、彼女にとって、空白の時間であり、自分らしい時間でもあった。
ユリが窓を閉めると、教室のドアが何時もより控えめに開かれた。ユリが振り向くと、そこにはヒササキがいた。ユリは微笑みながら挨拶する。
「お早う、ヒササキ君。」
ヒササキはドアを閉めると、お早う、と返した。
「ユリさん、随分はやいんだね」
ヒササキは自分の机に鞄をおきながら言った。ユリはクスッと笑いながら返す。
「あら、あなたもはやい方よ。私が居なかったらきっと一番ね。」
ヒササキは彼女の答えを聞き、微笑んだ。彼は荷物を整理し始める。
――――――ガラッ!!!!
突然の音にユリもヒササキも驚いた。ヒササキは荷物を整理する手を止めている。しかしユリはすぐにドアを開けた犯人がわかった。
「蜜柑は冷凍派!バナナも冷凍派!!天才シズクちゃん、参上!!!」
……シズクは戦隊ヒーローのようなポーズで教室に入ってきた。これが毎朝恒例の『天災シズク』のスライディング入室である。
「お早う、『天災シズク』ちゃん。今日は台風の日かしら。」
ユリはため息混じりに言った。するとシズクはどっちの『てんさい』か分かったらしく、ポーズを解き、暴れ始めた。
「ユリーーーーーーー!!!!そっちの『てんさい』じゃなーーいーーーーーー!!!天才!頭が良い方のてーーーんーーさーーいーーー!!」
台風の如く腕を振り回すシズクは、まさに『天災』のようであり、ヒササキの笑いを誘った。ユリは破壊活動を止めるべく、シズクを背負い投げし、持ち上げて羽交い締めにした。
この光景に、ヒササキは笑わずにはいられなかった。腹を押さえながら、彼は笑う。
シズクは彼の笑い声を境に暴れるのを止めて、ブスッとする。
「何笑ってるのさ~~!笑うならユリの羽交い締めからアンチェインしてよ~!」
シズクがそう叫ぶと、ヒササキは笑うのを止め、ユリとシズクをはなした。
「いやいや、つい面白くって。」
ヒササキは笑顔でそう言った。しかしそれは急に影に染まった。
「俺、病気もちだったからさ、こういう友人同士で楽しくやってるのって久しくて。」
ヒササキの貼り付けたような笑みは悲しさを隠す仮面のようだった。ユリはその仮面を見て、大切な人が目に浮かんだ。その途端、ユリに一つの病名が襲いかかる。
「そうだったの!?なら、昨日言ってくれれば良かったのに!……ごめんなさい、辛かったでしょう?」
ユリはいつの間にかヒササキの肩を掴んでいた。ヒササキは少し驚きながらも笑顔で返した。
「大丈夫だよ?軽いバセドウ病だから。ユリさんの歩くスピード丁度良かったし、階段も少なかったから。」
ユリはでも……と言いかけたが、肩を掴んでいたいたことに気付き、彼の肩から手を離した。
「……妹がそれだから、少しは力になれるかもしれない。辛かったら相談して。」
ユリの目はヒササキを真っ直ぐ見つめていた。ヒササキは、消えていた希望が光を灯したようで、心には更に、ユリへの想いが連なった。
ユリには妹がいた。しかし彼女は、自殺でダメージを受け、病院で眠っている。だから、今度こそ救ってみせる―――ユリは、そう誓った。
ーーー回想ーーー
ユリには、アヤメという妹がいた。ユリと同じ黒髪を少しツインテールにした少女だ。
彼女は陸上選手で、小学校のころ、いくつもの賞状を貰ってきた。その頃のアヤメは明るく素直で、姉思いの優しい少女であった。
しかし、アヤメの人生に中学一年生のころ、急に病魔が襲いかかった。最近、疲れやすく体力もおち、力が入りにくい……そんなことを言っていた時期のことだった。
校庭で走っていた所、アヤメは倒れてしまった。その原因は、勿論―――
アヤメを自殺に追い込んだ悪魔、『バセドウ病』である。アヤメは、その時ユリに、震えながら言った。
「急に、心臓がドキドキして、もうね、どこに血が流れているか分かるくらいに、赤血球が私の体を巡るの……怖かった。気持ち悪かった。」
それ以来、彼女は動くことも、怖くなってしまった。歩けば、すぐに息が切れる。階段で目眩が襲う。体育の授業は全て見学。そして、誰も、アヤメが走れないことを、分かってくれなかった。
目眩は、まるで幽霊になった様だ。地面に足がついているのに、ついている感覚がなく、目の前はぐちゃぐちゃにされた景色が広がっているだけ。
体育の授業見学もとてもきついものだった。彼女は、誰よりも、動くことが大好きだったのだ。
―――そんなことが続き、とんでもないことが起きたのは、ユリに、アヤメが「もう、生きるのが辛い。皆は気でなおるって言うけど、それじゃあ何で、私、こんなに死にたいの?辛いの?」と相談した頃だった。
ユリは、妹の様子を見たくなって、アヤメの部屋に入った。
「アヤメー?入るわよー。」
そう言って入った部屋には、窓から飛び降りる寸前のアヤメだった。アヤメは、虚ろな目でこちらを見た。
「ちょ……!止めなさい!!アヤメ!!!」
ユリはそう叫びながらアヤメの方へ走った。しかし、アヤメは戻る気配もなく、乾いた唇を動かしただけだった。
「もう、嫌。ごめんなさい___」
ユリのアヤメとは正反対の遅い足では、届くことはなかった。アヤメはうっすらと微笑みながら、体を、外へ傾けた。
それは、心の中のさなぎから羽化し、死の世界へと、飛び立とうとしている蝶、そのものだった。
ユリはヒササキを抱き締めた。もう、死の世界へと心の蝶が飛び出さぬように。妹のように、時が止まらぬように。
「ヒササキ君……約束して。『自殺』しないって。」
ヒササキは、身を委ね、ユリの優しい匂いを嗅いだ。心に、柔らかな風がふく。
「うん。約束する。絶対に自殺しない。」
ヒササキは、心の奥からそう言った。
___二人の光景をみて、シズクは幸せそうに微笑んだ。
その微笑みは、幾つかの感情が折り重なって、一つになっているものであった。
朝の出来事から暫くたってもユリの頭のなかには、ヒササキの命の灯火が細く揺らめいているようで、落ち着かない……というか、複雑な色の糸が何重にも絡まっているようだった。
ヒササキは、今までどれだけの事を我慢してきたのだろうか。どれだけ、病の理不尽さに苦しんだだろうか。
深い闇を背負って、彼は今、生きている。妹のアヤメもそうだった。
アヤメが自殺を行い、今寝たきりなっているのは、私の力不足だ。同じ過ちは二度としたくない。ユリがそう考えていると、チャイムがなった。ユリは号令にあわせて立ち、礼をした。
教室に何時ものざわめきがポツリポツリと空気を揺らす。ユリはそのなかで着席し、水に沈んだ物のように呆然と時計を見つめた。
音亡き音が、青い音を静かに奏でる。世界の「時」という人工物は、時を感じられる所にいないと、通用しない___そんな風に、ユリは感じた。
妹は、アヤメは、もう時が止まっているようなものだ。
ユリが水に浸かった生き物のようなので、シズクは声をかけた。
「おーい、ユリーーー、生きてるかーー?」
シズクの声でユリは正気に戻る。ユリはシズクの方へ向くと、何時ものように素っ気なく返す。
「生きてるわよ。勝手に殺されちゃ困るわ。」
シズクは手で銃の形を作り、ユリのこめかみに指先をのせた。
「いいや、お前はもう、死んでいる!……フッ、残念だったな、黒キ殺戮者よ。世界滅亡の鍵はこの天才シズク様が___」
あんまりにもシズクが厨二病を発動させたので、ユリはシズクの唇に人差し指をあて、口を封じる。シズクは言わせろ、と言わんばかりの目線を送ってきた。
「何がダークネスブラックジェノサイダーよ。長いわ。」
ユリが呆れながら呟くと、ヒササキが、こちらにやってきた。すると、シズクは身構えて、おでこに両手の二本指を添える。
「来たな!暗黒ノ魔拳の使い手よ!この天才シズクちゃんが退治してくれる!
悪はこの正義の心、聖ナル天使の使い手―――」
ユリは立ち上がり、シズクの台詞の途中で、シズクの鼻を摘まんだ。そしてヒササキの方へ首だけ向けて、シズクを指差し、笑顔で言った。
「ごめんなさい、ヒササキ君。この厨二病が迷惑をかけて。」
ヒササキは、小さく笑いながら、大丈夫だよ、と返した。シズクは、つんつんとユリの指を突っつく。
「離じでよユリーーー……うう、鼻声だぁ……」
シズクがそう言ったので、ユリはシズクの鼻から指を退ける。
ヒササキはシズクの鼻からユリの指が離れるのを見届けると、ヒササキは笑顔でユリに言った。
「ふふ、ユリさんのそういう動き、なんか可愛いね。何時もクールだからギャップがあって。」
ユリは、その言葉に目を見開くと、直ぐにそっぽを向く。
「か、可愛くなんか、ないわ。それより、その、……そう、さん付け、さん付けは止めなさいっ!なんか変な感じがするわ!」
相変わらずそっぽを向いたまま言ったユリは、どう見ても表情を隠しているようにしか見えなかった。ヒササキはそんなユリをみて、クスッと微笑む。
「―――分かったよ、『ユリ』。」
朝の出来事とこの時の出来事は、更に心のネジを巻く。
チャイムが鳴り響いた。シズクは何時ものように席につき、ユリも何時ものように黒板を見つめる。
一方ヒササキは『何時ものように』ユリを、目の端で見つめた。
今日も、そして今も、その横顔は深海のように深い冷たさをもちながら、女神のような言葉にできぬ美しさを湛えていた。
彼女の笑顔は、どんな宝石よりも美しい。ヒササキは、そんな風にさっきの出来事で思ったのだった。
―――殺気に満ちた視線を浴びながら。
ーーー放課後ーーー
皆がそれぞれの部活動に行く中、ユリは学級日誌を眺めていた。今日の反省文を書いたりしていたが、ユリの心にはある目的によって、ずっともやもやとしていた。
明日は土曜日である。ユリにとって土曜日は、妹の傍にいられる日だった。
妹は死んでいない。だから、髪の毛も伸びるし、爪だって伸びる。息をしているし、肌も暖かい。本当にただ、眠っているように、時が流れていく。
「どうしたの?ユリ。」
突然、声が降ってきた。ユリが声のした方へ向くと、そこにはヒササキがいた。おそらく、彼はまだ何処の部活に入るか、検討中なのであろう。
「何でもないわ。心配してくれてありがとう。」
ユリは少し口角をあげて言った。ヒササキはニッと笑う。
「そういえば、ユリは何処の部活に入ってるの?」
ヒササキは、笑顔を崩さずユリに問う。ユリはペンを机に置いて、答えた。
「ちょっと凄い科学部…………ね。」
ヒササキは首をかしげた。ユリはその時、この子は知らない方がいいかもしれないと思った。
そう。ユリの入っている科学部は、かなり可笑しい。まず、部長が科学エネルギーを利用した爆弾のマニアで、ドライアイスがあろうものなら、ペットボトルに入れる人だ。お陰で部長のあだ名は『爆弾先輩』である。
部長だけではない。部員が皆、ものすごいのだ。この前は『みんなの好きな生物を紹介しよう』というアイディアが出て、アノマロカリスだの、オパビニアだの、オットイアだの、フズリナだの、生物の名前であふれかえり、大変だった。
ヒササキのような、真っ白で純粋な知識を、この理科ヲタク達の世界に引きずり込んだら、そうとう理科の成績が良くないと頭がパンクする。
ヒササキはそんなことも知らずに、ユリに提案した。
「ねえねぇ、俺、そこ見に行っていいかな?」
ユリは勢い良く立ち上がった。
「ちょ、ヒササキ君!?うちの科学部は、この前テルミット爆弾やろうとして先生に必死で止められているような部活なのよ!?」
ユリがそう言うが、ヒササキは「行きたい」という表情による信号をおくっていた。ユリはため息をつき、学級日誌を教室にいた先生に渡し、ヒササキの方へ振り向いた。
「そんなに見つめられたら困るじゃない。…………後悔しないなら、いいわよ?」
ヒササキはニコッと笑って、ユリのすぐ傍まで駆け寄った。
「後悔しないよ。だって、ユリが一緒だから、さ。」
その言葉は、ユリには表面の意味だけを理解させた。ユリはヒササキを連れて、理科室へと向かうのだった。
ーーー理科室ーーー
「先輩、入部するかどうか分からないのに、そのように接するのはどうかと思いますが。」
ユリは呆れていた。例の爆弾先輩が、ヒササキを可愛がりまくっている。
「よーしよーし♪ヒササキにょんは、ここに入るもんね♪なんだか粉塵爆発したくなってきた」
なでなでされているヒササキの笑顔は少々ひきつっていた。しかし爆弾先輩は止めない。
ユリはため息をついて、部活で何時もやっていることを先輩にする。
「先輩、ヒササキ君の表情から、どうしたらいいんだろう、この状況…………という言葉がよみとれます。そろそろお止めになった方がよろしいのでは。」
ユリがそう言ったのを境に、爆弾先輩はヒササキから手を離した。そして頭をかく。…………これは、「ゴメンネ★TEHE☆」の合図である。
「…………ヒササキ君、どうかしら、この部活。入る気は失せたかしら。」
ユリは入る気など失せていないことに気づきながらもそう言った。案の定、ヒササキは輝いた笑顔で言う。
「いいや、ここに入りたいな。先輩も面白いし。」
すると、爆弾先輩は喜びだし、ドライアイスを探し始めた。周りの部員達は、ユリも知らないようなマニアックな生物の名前でヒササキを例えだしたり、部活にマグニチュード8の嬉地震がきたとざわめきはじめる。なかにはナトリウムの塊と水槽を準備する部員もいた。
ユリは時計を見た。後、数十分はありそうだ。
ーーー数十分後ーーー
「それじゃあ部活は終わり!ありがとうございましたーーっっ」
爆弾先輩の合図にあわせて、挨拶をする。ユリはヒササキとともに理科室から出た。
「いやあ、面白かったな、科学部!」
ヒササキは相変わらず笑顔だ。その笑顔は、オレンジ色の蛍光灯の光と混じりあって、不思議に見える。
階段をゆっくり降り、下駄箱へ向かう。道中、ユリはずっとヒササキを気遣っていた。
下駄箱で靴をはき、ユリはヒササキを待つ。ユリは常に彼の表情を見ていた。
「ありがとう、ユリ。なんだか、お姉ちゃんみたいだね」
ユリは、微笑を浮かべた。
「そんなこと、ないわ。」
空に日の光の欠片が残っているせいか、まだ浅い橙色が地平線のあたりを染めていた。街灯は、まばゆい光を灯している。そのなかを、二つの影は進んだ。ユリの今までの一人の帰り道に、もうひとつの影が交わる。
「シズクとは帰る時間が違うんだね」
「ええ。そうよ。」
何気ない会話だった。
「へえ…………じゃあさぁ…………これって」
ヒササキはスッとユリの前に出る。そしてユリの体を包み込んだ。暖かい感触が、ユリの脳を止める。
「___二人きり、だね」
ユリは抵抗出来ずにいた。彼の腕が、触れる温度が、耳元で聞こえた声が、彼女の全てを縛った。それは、言うことができない、複雑な感情だった。
「_____何、してるの。」
突然声がした。声の主は分かった。冷たい風がこの場を洗う。
「私の幼なじみに、何してるの。」
シズクは、ヒササキを睨んでいた。
「ユリから離れて。」
殺気が全身から溢れ出ている。シズクはこちらに近づいてきていた。
「___ふふ、嫌だよ。君が遅いのが悪い。」
ヒササキは冷たい声で言った。すると、急にシズクの殺気は身を潜めた。彼女の表情はきょとんとしている。
「ん?あれぇ……ああ!なんだ、ヒササキじゃん!不審者かと思ったよ~あーびっくりした!」
ははは、と明るい声でシズクは笑う。その声は紛れもない、何時もの笑顔だ。ヒササキは、ユリから離れ、さっきの冷たい声が嘘のように、明るい笑顔になる。
「こっちもびっくりしたよ、シズク。すっごい剣幕だったからさぁ。」
「いやぁ、不審者かな~って思ってさ。…………ていうか、ヒササキ!お前、ユリに抱きついてたでしょ!?おぅい~~お前ら、付き合ってんのかい?」
シズクの顔は、噂好きのおばさんみたいになっていた。ヒササキは、付き合ってないよ~と対応している。
ユリは、その急に組み上げられたハリボテの空間に呆然と立っていた。ユリの見ている目の前の二人は、何時ものようで、とても異様なのだ。
シズクは普段、話す時に手のひらで口付近を隠したりしない。
ヒササキはこんな笑顔でユリに話さなかった。
ユリは感じていた。昔から、気づいていたのに分からないと自分を洗脳していたことに。そして、それが波紋を産んでいることに。
「ユリ?ボーッとしてどうしたのさ!はやく帰ろう!」
ユリは頷き、波紋の中へと、二人の所へと歩いていった。
ーーー自宅ーーー
「ただいま。」
空っぽの我が家に声が響く。ユリの家には、両親がいない。単身赴任で、日本にいないのだ。
ユリは鞄を床に置き、椅子に座った。窓の景色は、えもいわれぬ藍色が支配していた。灯りをまだつけていないからだろう、その藍色の中にまだ生き残っている光が、微かに部屋に差し込んで、空間を薄暗くしている。
ユリは背もたれに寄りかかり、天井を見つめる。この時、何故だか胸騒ぎがしたのを今日の残り時間、ずっと忘れることができなかった。
時計の音が体全体に響く。
ーーーヒササキの家ーーー
「ねえ、聞いて?俺、友達ができたよ。ユリっていう人と、シズクっていう人。二人ともね、面白いんだよ」
家族で囲む食卓には、返事などかえってこなかった。
「ユリはね、頭も良いし、優しくてね、美人で良い人なんだ。シズクは、ムードメーカーって感じで、何時も楽しい雰囲気にしてくれる良い人でね…………」
彼は笑顔を崩さない。崩せないのだった。
何もわるいことなんてしてない。それなのにどうして俺はこんなに冷たくされなきゃいけないのだろうか。むかしは、こんなんじゃなかったのに。
なにが原因なのだろうか。
ヒササキは何時も、そのように考えては、一人で、泣くのだった。
ーーー四日目ーーー
本日は土曜日である。ユリは病室にいた。
今日の病室にはもう一人、人がいた。妹の友達、シキミである。
彼女は女子のなかでは男の子っぽく、運動もでき、運動もできる噂の後輩である。妹のアヤメも、シキミのことをよく家で話していた。
「ねえ、アヤメ、ボクさ、アヤメの苦手な理科で満点とったぞ。目が覚めたらみっちり教えてやるからな。」
少年のような爽やかな笑顔をシキミはうかべる。この笑顔がアヤメの支えになっていたのだろう。闇を吹き飛ばすような、明るく、金色の光を放たんばかりの笑顔だ。
「あ、いっけね、爪のびてんじゃん。…………よし、今日こそ切ってみせるぞ。」
シキミは爪切りを取りだし、アヤメの爪を切ろうとしたが、彼女は不器用なので、なかなか爪が切れない。シキミは暫くすると静止し、急にユリの方へと方向転換する。
「……すいません、お願いします……」
これは何時ものことなのだが、シキミは毎日特訓しているらしく、今日こそは、と毎回気合いをいれてくるのだが、毎回失敗している。
ユリは頷き、爪切りを受けとる。そして、パチッパチッと爪を切っていった。
爪を切っては角をヤスリで磨き、指の腹で丸みを確認しては、また磨く。
「流石、魔法の指……」
はっきり言ってしまえばシキミが不器用すぎるのだが。ユリはそう思ったが、それを言ったらシキミはかなり凹むであろう。目にみえていた。
爪が切り終わった。アヤメの爪は美しく丸みを帯びている。
アヤメの肉体は時に流され、髪の毛も、爪も、身長も伸びた。それでも彼女の心は時が止まっているのだろう。あの表情からみえた、絶望の色を濃く、深く刻まれたまま、止まっているのだろう。
そう思うと、二人の心は深く痛んだ。アヤメがどんなに日光に照らされても、心は凍りついたままなのだ。
「そういや、アヤメの作文、すごい面白いんだよな。辞書に書いてある単語よりも美しく、言葉が使われてて___」
そう。常に、アヤメの言葉は、言葉という花を少なく飾り付けただけでも、たいへん美しい文章となるのだ。
彼女自身もそうだった。飾らずとも美しき花を心に咲かせた、世界でたった一人の妹___
シキミは暫くすると帰っていった。病室は、太陽を失い、青い空気が漂っている。
「今も、花は咲いているの?」
ユリは妹の手をとった。まだ、こんなに小さな手。それなのに何故、抱えきれぬ重荷を与えられたのだろうか。
どうして妹なのだろうか。どうして自分じゃないのだろうか。
こんなことになるなら、全てを私にふりかければよかったのに。こんな不幸を何故、何故、妹に与えたのだろうか。
この病気さえなければ、妹は今頃、シキミと一緒に体を動かして、年相応のことをやって、部活のことで悩んで、青春にその心を桜色にそめ、学生らしく生きていた。生きていられた。
___ユリは霞む目の前を、ただ、唇をかんで、見つめる。
アヤメの手のひらに、一つの雫がポツリと落ちた。