凍結
「え?」
俺の必死の叫びに、ラヴィが驚いたような視線を向ける。
何が起きているのかを全く理解できていないかのような、素朴な眼差し。考え事でもしていたのだろうか、俺の叫び声の意味も聞き取れていなさそうな表情。
もしかして無意識に長手甲を発動しているのか?
――暴走。
俺の脳裏に、先日のあの氷剣の嵐の記憶がよみがえる。
まさか……このまま俺は凍ってしまうのか?
そんな不安が俺の背筋を悪寒で震わせたのとほぼ同時だったろうか。
俺とラヴィを囲んでいた白い霧が、まるで幻だったかのように消え失せた。
同時に俺の四肢に絡みついていた冷気が、春の日差しの中に融けていく……。
「はぁふうぅぅ……」
凍結の強張りから解放された俺の気管が、ため息にも似た湿り気を吐き出した。
わずかに残る長手甲の青白さが、俺の吐息をうっすらとした湯気に変えて揺らす。
「あ……あの?」
ラヴィが俺の顔を、下からおそるおそる見上げる。困ったような仕草がラヴィの眉根を曇らせる。
「大丈夫ですか?」
「……長手甲」
「はい?」
「いまさっき、長手甲が起動していた。それで俺が凍りかけた」
「え……?」
慌てて、ラヴィが長手甲を確かめる。
青白い魔力の光。
それは微かだが、まださきほどの余韻をひきずるようにして揺れていた。
「そんな……どうして?」
「君が意図して発動させた……ってわけじゃなさそうだな」
「はい」
ラヴィは小さくうなだれた。
「あの日……黒巫女の『祝福』を受けたときから、いままで一度も起動できなかったのに……」
――黒巫女の祝福。それは聖王国の騎士が、その力を使いこなすための儀式。
祝福を受けた騎士は、その力を一時的に失う。そして、騎士は再びその力を取り戻さなければならない。
自分自身の力でそれを成し遂げた者だけが、真に騎士たりうる。そんなところなのだろう。
ラヴィが受け継いだ騎士の力――長手甲の氷剣。
「もしかして取り戻しかけてるんじゃないか? その……騎士の力を」
「そうなのでしょうか?」
「もう一度試してみたらどうだ?」
「は、はい」
俺の言葉に背中を押されるようにして、ラヴィがその背筋を伸ばす。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
俺は慌ててラヴィから距離を取った。
「さっきみたいに巻き込まれるのはちょっと困る」
「あ……そうですね。すみません」
ラヴィはうなずいて湖畔の方に向き直った。
湖を渡る春の風が、ラヴィの長い金の三つ編みをなびかせる。
大きく息を吸い、そして止める。ラヴィの意識が長手甲を中心にして張り詰めていくのが分かる。
……だが、何もおきない。
青白い魔力の輝きも、大気を凍らせる冷たい振動も。先ほど俺が目の当たりにしたものがまるで嘘だったかのように、長手甲はラヴィの左腕でただただ沈黙し続けていた。
「やっぱり……ダメみたいです」
「その……なんだ。いつもそうやって集中力を高めてた感じなのか? 長手甲を起動するときは」
「いえ。前はもっと簡単でした」
「簡単?」
「はい。大叔母様の剣舞を何度か拝見していたら、自然にできるようになってて……」
見ただけで? 自然に?
そういえば聞いたことがある。魔道具の中にはその持ち主を自分で選ぼうとするものがあると。
学者の中には魔道具にも意思があると主張する者もいる。確かに道具とはいえ魔力を帯びているのだから、人間の精神に似た何かを持っていてもおかしくない気はしないではない。
もし長手甲が自らの意思でもってラヴィを選んだのだとしたら……相性なのか才能なのか。いずれにしてもラヴィには、長手甲に選ばれるだけの何かがあるということなのだろう。
「しかし……そう考えると逆に難しいな」
「そうなのですか?」
「ああ。君は最初から当たり前のようにそれを使いこなしていたわけだろう? 使い方を教わることもなく」
「はい。大叔母様もだいぶ驚いておられました」
「つまり今まで君は、君独自の流儀でそれを使ってたってことになる。そしてその流儀は、君以外の誰ひとりとして、君に教えることが出来ない」
「あ……」
「しかも君はその独自の流儀を無意識に会得したって話なんだよな? そうなると君自身、君の独自の流儀のことを知らないことになる」
「そう……ですね」
ラヴィが悲しそうにその細い肩を落とす。
「私が未熟だからこんなことに……タウバル様にご迷惑までかけてしまって」
眼鏡の奥の大きめの瞳がいまにも泣き出しそうな色合いでその青さを揺らす。
未熟。そう、未熟というべきなのだろう。
だが……なんだろう。ラヴィの表情を見ていると、なぜか昔の俺のことを思い出す。
そうだ。あの頃の俺も、よくこんな顔をしていたんだったな。
「そうだラヴィ。少し昔話をしようか」
「はい?」
「俺が帝国の執政官に選ばれたのは、十歳のときだった」
そう。あの頃の俺はただの草原のクソガキだった。
もう十八年ほども前の話になるのか。前任者の『帝国の腕』が暗殺されたのは。
「俺は執政官としてこの朋冠を受け継いだ。皇帝陛下から執政官だけが賜る、魔道具だ。だが俺はしばらくの間、こいつを使いこなすことができなかった」
「タウバル様にも、そんな頃が?」
「ああ、そうだ。しかもこれの前の持ち主は当時、帝国最強の将軍と呼ばれていたりしたから、それはもうたいへんだった。いきなり激戦の最前線に連れて行かれて、周りの大人たちから何とかしてくれとか言われたんだぜ? いやいや、そんなの無理に決まってるだろうって話」
そして俺は連戦連敗、呆れ果てた他の将軍たちは俺の言うことなど聞かなくなったのだ。
「それで……その後タウバル様はどうされたのですか?」
「必死で練習したさ。こいつを使いこなせないと帝国で執政官なんて務まらないからな。まあ俺の場合、教えてくれる奴がいたから今のラヴィよりは少しましだったかも知れないが」
「そんなことはないです!」
不意に、ラヴィの声に強い響きが混じる。俺の右手を、ラヴィの両手が強く握りしめる。
「もし私がそのときのタウバル様の立場だったら、私はきっとあきらめていたと思います。タウバル様はあきらめずに努力された。それは凄いことです」
「そ、そうか……。ありがとう」
まっすぐに見上げるラヴィの視線がなぜかまぶしくて、俺は両目を泳がせた。
ラヴィの手のひらの温もり、それが俺の感情をうろたえさせる。
「あ……す、すみません。私、つい……」
俺の表情に気づいたのか、ラヴィがあわてたように俺の手を放す。
うっすらと頬を染めて、ラヴィも俺と同じような表情で視線を逸らした。
なんとなく……気まずい。
そんな沈黙がしばらく続いた後だったろうか?
「さっきの魔力の気配は……あなたたちの?」
俺たちの背後で聞き覚えのある声が響く。
振り返ると……そこにはトリスが立っていた。
軍服のような紺色の上下に、白いのっぺりとした仮面。
「こんなところで何を?」
「練習してただけだ。ラヴィの長手甲を起動させるための」
「練習……?」
俺の言葉に、トリスはなぜか不思議そうにその首を傾けた。
「長手甲はもう、起動していると思うけど」
「は?」
俺はあわててもう一度ラヴィに視線を戻した。
――青白い魔力の輝き。
いや、それだけじゃない。
湖畔に立つラヴィの周囲、その水面から何か凄まじい勢いで白い霧が立ち昇っていた。
あれは……あれの全部がさっきの氷の粒なのか?
それはまるで竜巻のような螺旋を描いてラヴィを取り巻き、彼女を中心として吹き荒れていた。
「お、おい、ラヴィ……!」
「……そう。あなたがあの『トリス』なのね」
声をかけようとした俺を無視するかのように、感情を押し殺した低い声色がラヴィの口元から小さく漏れる。
一瞬。
そう、それはほんの瞬きほどの間だったのだろう。
次の瞬間、俺の視界を白いものが埋め尽くした。
身を切り裂くような冷気。呼吸のための出入口のすべてを凍結させる魔道の吹雪。
それは俺が痛みや苦しみといった何かを感じ取る前に俺の五感すべてを凍りつかせた。
そして俺の意識は、真っ白な光景から一気に暗闇へと落ちていった。




