憧れ
帝国は広大だが、穀物を育てるための土地は限られている。周辺諸国を飲み込むことで膨れ上がった人口、それを支えるための食糧をどう確保するか……俺たち執政官にとっては一番頭の痛い問題だ。
帝国南部の山岳地帯を越えると、その先には肥沃な穀倉地域が広がっている。王国はその入口に位置する国だ。
だから俺たちにとって王国との外交をどうするかって話はとにかく重要だ。かつて帝国ではその話を巡って二つの意見――強行派と重商派が対立していたりもした。
強行派は軍事的支配による農地の収奪を。重商派は交易による輸入の拡大を。
ただ、いずれにしても王国へ向かうには、南部の山岳地帯か南東の海路のどちらかを通る必要がある。
だが南東の海路は海賊まがいの商人たちの縄張りだ。帝国軍は陸戦では敵なしだが、正直なところ海戦は得意じゃない。通商路として大量の物資を行き来させようとすれば商人たちに高額な関税をふっかけられることは目に見えていた。だから強硬派も重商派も、山岳地帯を選ぶ点だけは一致していた。
この山の地は、小規模ながら山岳地帯の中で唯一開けた要衝だ。
強硬派は毎年、春になると山に千人規模の軍を派遣、ここから南の谷を抜けて王国への侵攻を繰り返していた。だが王国の守りは堅く、帝国は十数年の間、それを攻略できずにいた。
ところが二年前、王国の国境を突破したという知らせが帝国を駆け巡った。
――『繋ぎめ』の戦役。王国との最後の戦い。
突然の朗報に、帝国の誰もが驚いた。
当時、俺は帝国の中央部の都市で政務についていた。戦いが激しさを増していた頃……あれは確か秋のはじめだったか、前線の指揮を執っていた黒巫女から無茶な注文が来て困ったのを、今でもよく覚えている。
国中の死刑囚を集めて寄越せだの、魔晶石を千個送れだの。あいつがそれを何に使ったのか。今でも俺には想像もつかない。
「……というわけだから。あいつは……セイラムは、とにかく訳の分からない要望を平然と送りつけてくるヤな奴ではある。だから帝国ではあいつを嫌う者も多いってこと」
「あの戦いで多くの兵が理不尽に倒れました。王国でも黒巫女の名前は忌み嫌われています……」
だろうな……。あいつは戦場で無茶苦茶するからな……。
「その……君も? あの戦いで大切な人を?」
俺の問いに、ラヴィは小さくうなずいた。
大切な人、か。親か、兄弟か……それとも恋人だったのか。
「君はセイラムを……その、憎んでいるのか?」
「あ……それは……」
言葉を濁しかけたラヴィの、うつむき加減の額に陰がさす。その眼鏡は湖の波を映し、ラヴィの目元を隠す。
「憎んでいる……というのとは少し違う……気がします。むしろ、どちらかというと……その……あ、憧れている……というか」
「は?」
憧れて……いる?
「すみません、すみません。私、へんなことを言っていますよね? 大切な人の仇だし、王国の何千人もの兵士たちの命を奪った張本人だし……」
「君は憧れている相手に剣を向けたってことを言っているのか?」
「は、はい……」
ラヴィは胸元で両手を強く握り締めると、それを口元に引き寄せた。うつむいた姿勢のまま、ラヴィの潤みを帯びた瞳がその眼鏡の奥から俺の方を上目づかいに見上げる。
「黒巫女のお話は大叔母様から何度も聞いていました。聖王に仕える巫女は数あれど、黒を継いだ巫女は百年ぶり。加えて黒巫女は同時に騎士でもあると。聖王都にあっては神秘を執り行う聖女として、戦場にあっては敵を打ち払う戦士として。その名は聖王国でも敵国でも、敬われ畏れられていたと」
ラヴィの白い頬がうっすらと上気して桜色に染まる。その口調はどこか熱っぽく、そしてどこかしら嬉しそうにすら見えた。
「大叔母様も一度だけ、黒巫女と剣を交えたことがあるそうです。四年に一度、聖王の御前で開かれる騎士の祭典。成人した巫女が聖王の元から諸侯へ嫁ぐ、その嫁ぎ先を賭けて行われる御前試合。黒巫女は自らの嫁ぎ先を自身で決定する権利のため、自ら剣を振るいそれを勝ち取ったと聞いています」
……あいつならやりかねないな。自分の嫁ぎ先を他人に勝手に決められるなんてことを、黒巫女の奴が我慢するはずがないだろうし。
「大叔母様はそのときのことをとても懐かしそうにお話されていました。剣の切れ、騎士としての視点、そして何よりも民への想い。あと二十年若ければもう一度試合ってみたかった、それが大叔母様の口癖でした」
「だから君も、セイラムと戦ってみたかったと?」
「分かっています。大叔母様から頂いたこの長手甲が借り物であることも、私が『ラヴィーナ』の名前を継ぐには未熟過ぎるということも。でも幼少から剣を修め、日々の鍛錬を積み重ねた者として、一度でいいから確かめてみたかったのです。私の剣がどこまで通用するのかを。大叔母様から頂いた力がどれほどのものなのかを」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
前のめりに語るラヴィの言葉を、俺は後じさりしながらさえぎった。
「今の話だと……君はまだ一度も実戦を経験したことが無いってことになるんだが……?」
「あ、はい。城外に出たことはあまりないですから。でも模擬戦なら毎日のように」
模擬戦と実戦では違いすぎるだろう……。しかも城内での訓練となれば、通りいっぺんの形式的なものだろうし……。
俺は自分がため息をついていることに気がついた。
つまりはこういうことだ。
聖王国の騎士ラヴィーナは晩年、遠い親戚筋にあたる王国のフィリオナ伯爵家に身を寄せた。そこで伯爵家の令嬢アルマの影武者兼護衛だったこの娘にその騎士としての力と名を譲った。それがこの娘に才能を認めたからなのか、伯爵からの指示だったのかは分からない。いずれにしてもこの娘は『ラヴィ』と呼ばれるようになり、そしてラヴィーナから聞かされた黒巫女の話に憧れを持つようになった……と。
「じゃあこの前のザグモ卿の屋敷での試合、君にとっては残念だったな。せっかくお嬢がお膳立てしたのに、結局、当のセイラムとは戦えなかったわけだから」
「……はい。山の方々が、剣術に疎いことは知っていました。だから余興の試合を求めれば、黒巫女が剣を取るだろうと」
まあ、その狙いは悪くない。実際、トリスが出てこなければお嬢とラヴィのもくろみ通り、黒巫女の奴が試合を受けただろうし。
「私が……私が長手甲の力に呑み込まれたばかりに……ごめんなさい。あのときのことはお嬢から聞きました。タウバル様にもご迷惑をおかけしてしまって……」
ラヴィはその腰を落とし、頭を下げた。騎士の敬礼にも似た仕草が、どことなく優雅な光景となって俺の視界を彩った。
「ま、まあ……あれだ。俺たちも無事だったんだし、あの時のことはもう気にしなくてもいい」
「ありがとうございます。寛大なお言葉、感謝いたします」
ラヴィはもう一度深々と頭を下げた後、その視線を俺の方に戻した。
「……ところでタウバル様。公館の管理人の方のことは、どこまでご存知なのですか?」
「公館の……? ああ、トリスのことか?」
「はい」
「俺もこの町に来てから知り合ったばかりだし、彼女のことについて詳しいというわけじゃない。知っていることと言えば……もともと王国の出身だ、ということくらいかな」
俺は用心深く言葉を選びながら、ラヴィの顔をうかがった。
そう。トリスは王国の軍の関係者だ。公館の管理人という今の立場は、フィリオナ伯爵からの指示によるものという可能性もそれなりに高い。だとすれば、トリスのことは俺よりもむしろラヴィたちの方が良く知っているはずなのだ。
だが、俺の予想に反してラヴィの表情は揺らがなかった。
「そうですか……やっぱり王国の。トリスさんは、いつからこの町に?」
「さあな……あ、いや。そういえばトリスは、兄が『繋ぎめ』の戦役に参加していたと言っていた。だから少なくともそのころはまだ王国にいたんじゃないか?」
「お兄様が? ……そう。ではあの方がやはりあの『トリス』なのですね」
ラヴィの口調は穏やかだった……だが、その眼差しには突如として冷たい光が浮かんでいた。
その言葉の端々から徐々に普段の柔らかさが失われ、何か肌を刺すような硬さを帯び始めていた。
「フォスターは調べていました。あの戦い……『繋ぎめ』の戦役の裏で暗躍する魔来人たちの思惑のことを。そして言っていました。彼らのことを調べていくといつもある人物に行き当たると」
それが……トリスなのか?
そんな疑問を口にしようとした俺は、ふとその言葉が声にならないことに気がついた。
口が……動かない!
俺は無言のまま、慌てて周囲を見回した。
いつの間にか、俺の……いや、俺とラヴィの周りを白い霧が取り囲んでいた。
……いや、これは霧じゃあない。氷の粒。もしかして空気中の水分が凍りついているのか?
耳の奥で金属が鳴るような甲高い音が響く。
ラヴィの長手甲。それが不気味なあの青白い魔力の光を放ち、その周囲の大気を震わせていた。
冷気が俺の手足にまとわりつく。急激に俺の体温を奪っていく。
このままでは……まずい!
俺は胸の中の呼気を力一杯に吐き出すと、喉を振り絞ってそれをなんとか音にした。
「ラヴィ! 長手甲を止めろ!」




