アムスタス迷宮#169
走り始めてすぐに、2人はすぐに逃げることで手一杯となった。
考えるまでもなく当たり前のことだが、蜂は群社会の生き物であり、外敵の排除には集団で襲いかかる。特に、こうして巣の近くで大暴れし、挙げ句の果てに仲間に攻撃を加えるようなものに対しては容赦なく。そして、蜂の飛ぶ速度は平均的な人間の走る速度より速い。ただでさえ速い蜂ではあるが、迷宮内の蜂は更にその上をいっていた。
故に、2人は今数百、下手したら千を超えるような蜂の群れから逃げていた。もちろん、ただ走って逃げるだけでは早々に追い付かれる。だからこそ、2人とも戦闘時でないにも関わらず、戦闘時と同じかそれ以上の力を振り絞らねばならなかった。
「それにしてもエム君は身体強化ができたのか?」
「いえ。これは身体強化ではなく、わたし自身の動作を加速させている状態です。なので、おそらくシロシルさんより先に力尽きるかと」
「ああ、それに関して言っていなかったな。わたしもマナで身体強化をしている都合上、そう長くは走れない」
2人とも互いに気遣う余裕はまだあるものの、正直なところ限界の見えている戦いであることはわかっていた。相手は竜とは異なり、群体で行動している。さらに、それぞれが間隔を開いて追跡、攻撃を行なってくるため、『周囲一体を焼き払って撃退』というような極端な攻撃をしても効果が薄い。そして、2人とも広範囲に攻撃を飛ばすためにはそれなりの溜めが必要だった。
だが、今の状況で悠長に力をためる余裕はない。何より、追跡してくる蜂の速度が尋常ではなかった。
「それにしても、速すぎませんか? あの蜂」
「そうだな。わたしたちは今おおよそ馬ーー農耕馬ではなく貴族が狩猟に使うような足の速いやつよりも速い速度で走っている。だが、あちらさんはまだ余裕がありそうだな」
流石に竜やウズナよりは遅いと言えるものの、それは何の慰めにもならなかった。そもそも今襲われている2人にしてみれば、追ってくる相手の速度がこちらの脚力を上回っている以上、馬並みの速度だろうが音速を超えていようが気にかける気にはならなかった。
更に状況は悪化していく。
気がつけば、2人は地面がぬかるんでいる場所まで来ていた。泥濘は容赦なく2人の機動性と速度を奪った。すでに、本来の道順から考えれば、最低でも10エリム(約20km)は離れているだろう。森からも16エリム(約30km)は引き剥がしたはずだ。だが、今だに蜂は2人を追跡していた。
一か八か立ち止まって迎撃に専念すべきか。はたまた少しでも走り続けて蜂が諦めるまで待つか。
そう考えた矢先だった。シロシルの視線は少し離れた地面に向けられた。
「あそこ、小さいけど沼じゃないか?」
「まさかとは思いますが・・・・・・」
「飛び込んで撒く。
何せ相次ぐ追跡でもう風も電撃も炎も全部打ち止めだ。それに、マナの具合から行ってもう走れそうもない」
「それはまぁ・・・・・・わたしもそうですが」
その沼地は澄んだ水のように見えなかった。それに、水深が分からない。深い分にはまだやりようがあるが、浅かったら姿が水面から出てしまい、蜂は上空から攻撃してくるだろう。もしかすると、そのまま突っ込んできて水中で攻撃してくるかもしれない。
だが、四の五の言っている暇はなかった。覚悟を決めると、エムは後方に魔力塊をぶつけ、土や泥を巻き上げて視界を封じた。と同時にシロシルが小さな風の塊を生成した。エムはその意図を察し、それを口に含むと、2人は沼の中に飛び込んだ。
飛び込んだ瞬間、予想していた通り泥水が全身を包み込む感触がした。目を開けられるはずもなく、視界は一気になくなった。水深は浅いのか深いのか分からない。そんな中、万が一に備えて、2人はあまり深く潜らずに泥が落ち着くのを待った。そして、水の中にいても分かる程の羽音が長々と響いて、静かになった。
(行ったか?)
(まだ微かに羽音が聞こえます。危険かと)
視界の効かない水中で、2人は互いの繋いだ手を元に合図を送り合っていた。幸い、呼吸に関してはだいぶ余裕があった。シロシルの風の塊は、公会堂ひとつ分くらいの空気を含んでいるため、確かに取り扱いが難しいものの、上手く扱えば長く呼吸ができた。更に、エムの時間操作により、2人の間の時間は引き延ばされ、10倍以上息が続くようになっていた。それこそ、呼吸だけを切り取って考えれば、2人は丸一日池の中にいても平気だった。
そうして2人が耐えること半ラツ(1時間)、様子見のため、一度浮くことにした。だが、泥がまとわりつきなかなかうまく上がれない。それでもなんとか浮かび上がり、水面から顔を出そうとした時だった。
(戻って!)
先行していたシロシルを引き留めるようにエムは手を引っ張った。それに従いシロシルが浮上をやめた瞬間だった。シロシルの髪の毛を掠めるように毒針が当たった。さらにそれに続いて何十本も同時に水面に何かが叩きつけられる振動があった。おそらく、そのまま浮上していたらその針の餌食になったことは想像に難くなかった。
(助かった。それにしてもまだ居たのか。中々にしつこいな)
(シロシルさん、最悪夜まで待たないといけない可能性が・・・・・・)
(流石にそこまで体力が保たないと信じたいが・・・・・・。交代で来られたらまずいな)
まだ息に余裕があるとはいえ、いつまでもこうしている訳にはいかなかった。ただでさえ今2人は捜索隊から離れている。そして、捜索隊は今もなお進んでいることだろう。つまり、時間をかければかけるほど、目的地はわかっているとはいえ合流は難しくなる。
(どれくらいマナや体力は回復した?)
(そこそこ大きな攻撃を撃てる程度には回復しました)
(そうか・・・・・・。なら、あと半ラツだけ待ってもう一度確認しよう。それでまだいれば攻撃だ)
(わかりました)
そうして2人は泥の中で静かに待った。願わくば蜂が諦めて何処かへ行ったことを祈りながら。
そうして2人にとっては短くて長い潜伏終え、再び浮上し始めた。今度はエムの感覚も、何も警戒を訴えかけてこなかった。
そのまま静かに水面から顔を出し、周囲を伺った。どうやら、蜂は諦めてどこかに行ったらしく、周囲には羽音の一つも聞こえなかった。
ほっと息を吐いて、エムはまだ水中にいたシロシルに合図を出した。シロシルも浮上すると、2人は揃って陸まで行った。そして、陸に上がろうとした時だった。
泥から、身体が抜けない。
まるでとりもちの如く泥が身体を水中に引き止めようとしていた。無理矢理力で上がろうとしても歯が立たない。ならば、と2人は地面に寝転がるようにしてやっとの思いで泥の中から抜け出した。だが、泥の厄介さはそれだけではなかった。
それに先に気がついたのはエムだった。
ーー腕が、動かない。
そして、それからあまり変わらずシロシルもそれに気がついた。
ーー足が、曲げられない。
あれほど粘着していたにも関わらず、ほんのわずかな時間で泥は乾き始めていた。そして、乾いた泥の硬度は泥とは思えないものだった。普通の泥でも丁寧に乾かせば陶器のような硬度になるという。だが、この泥はそれを遥かに超えていた。
状況を把握できた時、2人は石膏やコンクリートの殻に覆われたような状況に陥っていた。




