アムスタス迷宮#157
誰も何も話さなかった。
おそらく、ほぼ確実に絶命しているだろうとは皆思っていただろう。だが、ここでそれを口に出せば、目の前の光景が泡沫の泡のように消えてしまうと思っているのか、確認しようとするものはいなかった。
そのまま風が何度か吹いた。その風に揺られたせいか、『蜥蜴』がゆっくりと崩れ落ちるように地面に倒れた。幸いなことに、そもそも囲んでいる人数が少なく、誰もいないところに倒れたが、もし誰かいたとしたらそのあまりの現実感のなさに潰されていたかもしれない。
地面に倒れた時、『蜥蜴』がぴくりと動いたような気がした。しかし、地面に倒れてからも動く気配はなかった。そのまま誰も身じろぎ一つせず、『蜥蜴』の様子を窺っていた。
誰もが疑心暗鬼になるのは仕方のないことではあった。見たことのない生物。未知の攻撃。異様な耐久性。その全てに畏怖しないものはいなかった。だからこそ、今ここに倒れているからとはいえ、突然立ち上がり、攻撃を仕掛けないと言う保証はなかった。そう皆が考え、誰も動けなかった。
だが、誰かが動かねばこの空気は変わるまい。
そう考えて、ノイスは剣を納めた。そして、慎重ではあるものの、内心の不安を押し隠すようにしっかりとした足取りで『蜥蜴』に近づいた。
「・・・・・・ったいちょーー」
その行動に今気がついたのだろう。隣で剣を構えていたイガリフが慌てたように声をかけてきた。だが、彼もノイスの表情、その覚悟を感じたのだろう。何も言わずに構えを解き、されど剣は収めないまま後ろについてきた。
そんな2人の背中に、この場にいる者たちの視線が注がれていた。もちろん、そのことは2人も十分承知していた。特にノイスは、現状探索隊の隊長を兼ねているだけに多くの視線が注がれていた。
(はてさて、これでもまだ生きていたら、その時は文字通り全滅するしかないな)
視線を背に受けながら、ノイスはそう考えていた。先程まで攻撃の中核をになっていたウズナは先の爆発に巻き込まれて行方がわからない。だが、少なくとも目に見える範囲には居ないようだ。さらに、アルカも狙撃手という立ち回りをしていた以上、どこに潜んでいるかわからない。さらに、先程から一切攻撃が途絶えていたところから考えるに、移動中か反撃を受けて動けなくなっている可能性が考えられる。前者ならばさほど時間をかけずに合流してくるだろう。だが、後者であった場合、収容するのはほとんど不可能に近い。
彼女の隠密性は群を抜いている。実際、『皇城に暗殺者が侵入した』という想定で行われた訓練の時では、潜伏地点から1ラツ(約1.8m)先まで接近した近衛兵の監視を掻い潜り、暗殺から撤退までを成功させている。本人曰く、『狙撃が可能ならもっと苦労はしなかった』との事ではあるが、この一件は警護体制に大きな衝撃を与えた一件となった。
そんな彼女が、潜伏した状態で行動不能になっていた場合、見つけるのは困難を極める。もしかしたら、魔術師たちの中にはそう言った人探しを得意とする術者もいるかもしれない。だが、今この場に、そして遠くの方で控えている術者たちは全員が疲労困憊の様相を呈していた。
そして黒髪の女性についてだが、彼女も外見からわかる外傷はない。単純に疲労による衰弱だろう。だが、それは今すぐ戦闘が始まっても、戦いに復帰できないことを表していた。
他にも、シロシルはまだ立っているものの、動作は緩慢だった。イグムは折れた剣を支えに蹲っているが、火傷や切り傷はここから見えるだけでも深く、今すぐ治療を受ける必要があるだろう。コウカに至っては、術の反動からかずっと気絶したままだ。
このように、現状、先程までの戦いで攻撃の中核をになっていたものは全員が行方不明もしくは満身創痍、疲労困憊と言った有様で、まともに戦える状態にはない。かと言って、後方にいるものたちが、いま増援に来たとしても意味はない。死んでいればそれまでであり、生きていたら来たところでいい的にしかならない。
そんなことを考えているうちに、目の前に『蜥蜴』の腹があった。不安をおおい隠し、ノイスはそっと触れた。
(暖かいーー。だが、鼓動や息遣いは感じられぬ)
そのまま、ゆっくりと頭の方に周っていった。傷口に近づくにつれて、言いようのない臭気を感じた。火災現場の後のように、生きた生物がそのまま焼かれたような肉が焼ける臭いに混ざり、生々しい臓物や筋肉をかき混ぜたような血生臭い臭いが鼻をついた。他にもあるような気はしたが、いずれにせよすぐに気がつくような臭いは大きく分けてその二つだった。
(そう言えば、ウズナは血に毒があるのではないか、と言っていたな)
ふとそのことを思い出して、ノイスは傷口付近を見るものの、触ることは控えた。後ろにつくイガリフは護衛に徹する腹づもりのようで、そもそも近づきさえしなかった。
(後で調査するときには、十分気をつけるように言っておかないとな)
注意点を頭の中で整理し、ノイスはそのまま慎重に顔の方へ向かった。
『蜥蜴』の顔に回り込んだとき、ノイスは絶命を確信した。口や鼻から風は感じられず、目は虚ろなままだった。すでに動かなくなってから5ウニミ(約10分)は経過している。念の為、もうしばらくーー出来れば四半ルオ(約30分)ほど待てば確実だろうが、今は伝えるのが先だろう。
少しの間だけ目を瞑り、ノイスは眼前の敵に哀悼の意を示した。そして振り返ると静かに、けれど響く声で皆に聞かせた。
ーー『蜥蜴』を打ち倒した。我々の勝利だ。




