異世界へのバージンロード
今回もまた、キスできなかった。
終電に近い時間帯の人もまばらな車内、長い椅子の隅に腰掛けぼんやりと床を見つめていたら知らず溜息がこぼれた。
スーツのポケットからスマホを取り出しアプリを起動させる。気分が落ち込んでいても何となく日課になってしまった作業は欠かせない。危なくログインボーナスを逃すところだった。
画面をタップしながらまたも深い溜息が出る。
顔を上げると暗い夜闇に染まった窓に反射して不機嫌な顔をした女が一人写っていた。
橘ねむ、二十三歳会社員。
本日成人してから四人目の彼氏にフラれた帰り道である。
自分の恋愛遍歴は少し異常なのではないかと気付いたのは二人目の恋人との別れの時だった。
青春時代、人並みに恋をして、それなりに頑張って思いが通じたこともある。お付き合いをすることになり、距離が近付きデートもした。
問題はそれからだ。
付き合いを続けて縮まる距離も進んでいけば、いい雰囲気になど簡単になる。手が触れて見つめあって何だか照れ臭くて目を閉じて、そうしてあとは触れるだけ、それだけなのに自分はその先が訪れたことはない。
最初は相手側の家族のタイミングの悪い帰宅だったり、外出先の車の泥跳ねだったり、相手がすごいタイミングで後ろに倒れたりという不運が重なったようなだけだった。
けれど重なれば重なるほど気まずさは加速して、最後は何となくお互い避けるようになり自然消滅。
そしてこういったことが大学で出来た恋人とも続いた。相手が年上だったこともあり、さすがにすぐに気まずくなることはなかったのだが今度は別の問題が起きた。
ゼミの飲みの帰り、彼氏は酒を飲んでほろ酔いの状態。恋人の部屋で、ベットに腰掛け、こちらの覚悟も十分に決まっていた。据え膳というやつである。しかし、そこでスッと重なっていた身体が離れた。戸惑ったように泳ぐ視線。まごつく恋人を問い質せば冷めてしまったのだと言う。唇が触れそうになった瞬間、なんだかごっそりと気分が削がれてしまったというのだ。
さすがにこれには腹が立つやら悲しいやらで、深夜に彼氏の家を飛び出したきり、それでさようならだった。
一体何の呪いなのだろう。思い出したくもないがこの後出来た恋人達ともシチュエーションは違えど同じ末路を辿り、本日先月やっとできた恋人から別れを告げられたのである。
「ねむちゃんにキスしようとすると、何か気分が悪くなるんだよねー…って」
ぽつりと一時間前に悪びれなく言われた言葉を呟く。呟いた後力一杯スマホを握り締めた。
何かもっと他の言い方はなかったんだろうか。
言うに事欠いて、気分が悪くなるとは失礼すぎる。昨日まであんなに大好きだった気持ちが一気に冷め切って、今は煮えたぎる怒りしかない。
とりあえず別れ際に一発殴ってはおいた。
その手でそっと唇を押さえる。
口臭とかそういう話ではないらしいけれど。
じゃあ何が原因かと言われると上手く言えないのだと言う。
馬鹿にするにも程があるだろう。
画面にある数個のアプリのログインを終えて、最近お気に入りのアプリを起動させる。よくCMで見かける乙女ゲーム系のアプリだ。
スチル保管画面を開き、昨日回収したスチルを眺める。好感度を上げるのに苦労してやっと手に入れたエンディングのキスシーン。
ゲームですら手順を踏んで頑張れは好きな人とキスが出来るのに自分ときたら。
「………」
これ以上考えているのも不毛なので今は止めることにした。
スマホを元の場所に戻して電車の揺れに身を任せて目を閉じる。降りる駅まではまだ時間があった。
とろとろと落ちてきた睡魔に抗うことなくそのまま意識を手放した。
夢を見た。
気がつくとそこは外国の宮殿の一室のようだった。前に見た実写化の映画でダンスパーティーをしていたような、白を基調とした天井の高いホールが広がっている。
目の前には大きな盃がある。
それはプールのように大きくて硝子のような透明なもので出来ていて、柔らかい水色の液体がほんの少しだけその中を満たしていた。
盃の縁に取り付けられた鹿威しのような仕掛けが一つだけゆっくりとしたリズムで傾いては、ちょろちょろと綺麗な液体を盃に注いでいた。
その一つだけ稼働している仕掛けの側に寄ると人影が見えた。
白銀の髪、伏し目がちの瞳の碧色。
白いシャツに白いパンツで頭の先から足の先まで真っ白だ。
少年と呼ぶのは少し憚るような体躯の男の子が、膝をつき仕掛けに向かって手を組んでいる。まるで盃に祈りを捧げているかのようだ。
ぼんやりその姿を見ていると、男の子の眉間に強い皺が刻まれ始める。苦しそうに歪められた表情に慌てて近寄った。
『助けてくれ、もう、もう私には無理だ』
男の子が苦しそうに言う。
その手を包むように触れると伏せられていた瞳がこちらを捉えた。
白の中の碧が宝石のようで思わず息を飲む。
『君は花嫁か?今代の花嫁なのか?早く、私では足りないのだ』
花嫁とは何のことだろう。けれどその必死の形相に思わず頷いてしまう。
必ず助ける、絶対に助けるから待っていて。
『待っている、ずっと君を待っていた』
刻まれていた皺が、手の強張りが安心したのか少し柔らかくなる。
『私だけの力では杯は満たせなかった。神の力は弱まるばかりだ。不甲斐ない』
悲しそうに項垂れるその頭をそっと撫でる。
柔らかい髪。夢なのに感触がこんなに鮮明だなんて驚いてしまう。
その手が心地いいのか少し擽ったそうに男の子は目を細めた。
『花嫁様の魔力は心地いいな。私をも癒してくれるのか』
はなよめさま。なんだかこそばゆい響きだ。
私の名前はねむと言うの。
『ネム様』
様はつけなくていいのに。
困ったように伝えると相手も困ったように眉を下げてしまう。綺麗な顔に少しばかり赤みが戻っている。
今、何か私にもできることはないのだろうか。
包んでいた手に力を込める。
この人があたたかいもので満ちますように。
辛さが痛みがなくなりますように。
私の力が、この人を助けますように。
カタン、と背後で仕掛けが急に大きな音を立てた。
見れば先ほどまでほんの少しだけだった液体が、まるで小川のように溢れては仕掛けを揺らして盃に液体を流している。
『あぁ…これが花嫁の力か』
先程より急激に満たされていく盃に安堵の息を漏らしているようだ。しかし満杯には程遠い。
一体ここはどこなのだろう。
尋ねようとした瞬間、背中を強い力で引っ張られた。突然離れた手にお互い目を丸くする。
『ネム様!』
待って、まだ連れて行かないで。
叫んでも距離はどんどん遠くなる。
白いあの人が何か叫んでいるけど聞き取れない。
待ってて、必ず助けるから。それが私の役目だから。
そう叫んだが聞こえただろうか。
あっという間に部屋は遠くなり、世界が真っ白に変わって次に目を開けた瞬間、私は見知らぬ草原の上だった。




