第1話 見なかったことにしよう
今日は普通に掃除をして。
普通に帰る。
それだけでいい。
「キィ!」
「うん。分かってる」
頭上を飛ぶ中継ドローン。
その上で、俊太郎が小さな胸を張っていた。
体長十五センチほどの蝙蝠男。
腰には小さなウエストポーチ。
最近では、こいつがドローンの上にいる光景にもだいぶ慣れた。
笑うと怖いけど。
「今日は何も見つけなくていいからな」
「キィ!」
「本当に分かってる?」
ニィッ。
「……まあいいか」
俺――佐倉直人は、床に落ちていた空の回復薬瓶を拾った。
ゴミ袋へ入れる。
少し先には折れた矢。
壁際には、乾いたスライムの粘液。
いつもの初心者ダンジョン。
いつもの清掃依頼。
素晴らしい。
本当に素晴らしい。
少し前には、新人二人の研修を頼まれたと思ったら、気づけば知らない中級ダンジョンの地下八階に飛ばされていた。
その前には、ダンジョンで生まれた蝙蝠男がドローンを親だと思い込んだ。
さらにその前には、ダンジョン核に逃げられた。
その前には、初心者ダンジョンを中級にした。
その前には。
ダンジョンを一つ消した。
「…………」
思い出すんじゃなかった。
俺は床を掃く。
今は掃除だけ考えよう。
しかも今の俺には、協会から正式なお墨付きまである。
攻略核にも。
ダンジョン核にも。
勝手に近づいてはいけない。
素晴らしい決まりだと思う。
できれば一生守りたい。
「次、あっち行くか」
「キィ!」
ドローンがゆっくり先へ進む。
俊太郎も、その上に乗ったままついていく。
俺はモップとゴミ袋を持って後を追った。
通路の角を曲がる。
そして。
「…………」
止まった。
壁際。
石床の少し上。
黒いものが浮いていた。
煙みたいに薄い。
でも、煙ではない。
ゆらゆらしているように見えるのに、上へ昇っていくわけでもない。
壁についているわけでもない。
ただ。
そこにある。
「…………」
黒い。
それだけで嫌だった。
同じものかどうかは分からない。
多摩第一で見たのは、壁から滲み出すような黒い染みだった。
そのあと。
黒い粘液。
黒い膜。
ダンジョン核を覆っていた黒いもの。
全部。
ろくなことにならなかった。
「…………」
俺は視線を外した。
「見なかったことにしよう」
「キィ?」
「何でもない」
俊太郎が首を傾げる。
ドローンは何も言わない。
警告も。
異常報告も。
ない。
なら。
なおさら触らない方がいい。
俺は清掃員だ。
研究者じゃない。
分からないものを、わざわざ調べる理由はない。
まして。
黒いものへ《浄化》なんて。
「絶対やらないからな」
「キィ?」
「俊太郎に言ったんじゃないよ」
「キィ」
そのまま通り過ぎる。
振り返らない。
今日は普通に帰る。
そう決めた。
*
しばらくして。
「キィ」
俊太郎が声を上げた。
「ん?」
ドローンの上。
大きな耳が動いている。
俊太郎が前方の床を指した。
「何かある?」
「キィ」
「ドローン、俊太郎が指してる辺りを確認して」
『走査します』
中継ドローンが俊太郎の指した位置へ向きを変える。
床。
壁際。
前方数メートル。
走査光が石床をなぞった。
『床下に空洞を確認』
「罠?」
『荷重式の落とし穴である可能性が高いと判断します』
「やっぱり」
見た目だけなら普通の床だ。
初心者ダンジョンによくある罠。
落ちても即死するほど深くはない。
でも。
だから踏んでもいい、とはならない。
「避けられる?」
『右壁側、約五十センチが作動範囲外です』
「じゃあ、そっち通ろう」
罠を解除する必要はない。
掃除の邪魔になるからと壊していいものでもない。
場所は記録されている。
避ければいい。
「俊太郎、ありがとな」
「キィ!」
ニィッ。
「笑うと怖いなあ」
「キィ?」
俺は身体を横向きにして、壁際へ寄った。
一歩。
二歩。
ゆっくり進む。
右側は壁。
左側は落とし穴の作動範囲。
足元を確かめながら歩く。
あと少し。
そのとき。
「キィッ!」
俊太郎が急に振り返った。
「え?」
後ろ。
さっき通ってきた方。
俊太郎が翼を伸ばす。
「ドローン」
『後方を走査します』
数秒。
『移動反応を二つ確認』
「何?」
『小型人型モンスター。ゴブリン二体と推定』
「…………」
遠くから。
足音。
聞こえる。
このダンジョンにゴブリンが出ること自体は普通だ。
二体で巡回していることもある。
何もおかしくない。
ただ。
今は。
俺が落とし穴の横を通っている。
後ろへ戻ればゴブリン。
左へ寄れば罠。
右は壁。
「……なんで今?」
本当に。
なんで今なんだ。
「キィ!」
「分かってる!」
前へ行く。
それしかない。
でも走れない。
足を滑らせたら、そのまま落とし穴だ。
一歩。
二歩。
後ろから足音。
少しずつ近づく。
「まだ?」
『作動範囲、残り約一メートル』
「長い!」
『実測値です』
「分かってるよ!」
もう一歩。
あと少し。
「ギャッ!」
後ろから声がした。
「見つかった!」
『ゴブリン二体、接近』
「それも分かってる!」
最後の一歩。
『作動範囲外です』
「よし!」
走る。
モップを抱え。
ゴミ袋を揺らし。
ドローンが横を飛ぶ。
俊太郎はその上。
「キィ!」
「戦わないからな!」
俺にゴブリンと戦う能力はない。
掃除用のモップならある。
だからどうした。
角を曲がる。
通路を進む。
後ろから鳴き声。
でも。
しばらくすると。
聞こえなくなった。
『ゴブリン二体、追跡を停止』
「……はあ」
さらに距離を取ってから、壁に手をつく。
「疲れた……」
「キィ!」
「お前は元気だな」
俊太郎が胸を張る。
こいつのおかげで後ろから来るのを早めに知れた。
それは助かった。
でも。
「…………」
俺は振り返る。
変だ。
罠があった。
ゴブリンが来た。
それだけなら。
本当に。
何もおかしくない。
初心者ダンジョンなんだから、罠もある。
モンスターもいる。
でも。
罠を避けている、あの瞬間。
後ろから。
ちょうど二体。
「…………」
嫌な感じがする。
ものすごく。
嫌な感じがする。
「ちょっとだけ確認しよう」
戻るわけじゃない。
遠くから見るだけ。
俺は曲がり角まで戻った。
そこから。
落とし穴のある通路を見る。
「…………」
あった。
さっき見たもの。
黒いモヤ。
落とし穴の近くに。
薄く。
漂っている。
「……またある」
さらに。
その向こう。
さっきゴブリンが来た通路。
そこにも。
細い黒いモヤが見えた。
「…………」
罠。
ゴブリン。
黒いもの。
頭の中で。
勝手につながる。
「いや」
首を振った。
「知らない」
関係あるかどうかも分からない。
俺には分からない。
なら。
触らない。
調べない。
《浄化》もしない。
協会に聞かれても。
……いや。
聞かれたら言うけど。
自分から面倒事を増やす必要はない。
「帰ろう」
『清掃予定区域が残っています』
「今日はもう十分じゃない?」
『予定作業の四十一パーセントが未完了です』
「そういうところ細かいなあ」
「キィ」
「俊太郎も帰りたいよな?」
「キィ!」
「ほら」
『俊太郎の鳴き声から意思を判定する機能はありません』
「知ってるよ」
俺はゴミ袋を持ち直した。
今日は終わり。
戻って。
報告して。
黒いものを見たことも、一応伝えて。
あとは協会に考えてもらおう。
俺は考えない。
それがいい。
そう決めて歩き出した。
そのとき。
「ああ……」
「…………?」
声。
男の声だった。
足を止める。
周囲を見る。
誰もいない。
「キィ?」
俊太郎も周囲を見回している。
「ドローン、今の声は?」
『該当する音声入力を確認できません』
「…………」
嫌な答えだ。
ものすごく嫌な答えだ。
そして。
もう一度。
今度は。
はっきりと聞こえた。
「ああ……やっと繋がりましたか」
「…………」
俺は。
ゆっくり振り返った。
誰もいなかった。




