第三十五話 答えの形
きてくれてありがとうねー。
その夜、眠れなかった。
考えることを止めない、と思っていた。だから、止めなかった。
天井を見ながら、ずっと考えていた。
どちらかを選ばなければいけない。
ルミナか、シエルか、ということではなかった。そういう単純なことではなかった。
どういう自分でいたいか、ということだった。
ルミナのそばにいると、一人じゃない。必要とされている。でも、眠れない夜が続いていた。帰れない感覚があった。自分の一人称が変わっていた。服が変わっていた。何かが削れていた。
シエルのそばにいると、落ち着く。本当の意味で静かだった。会いたいと思っていた。そわそわすると言われて、温かかった。
どちらが正しいのか、ではなかった。
どちらで生きていきたいのか、だった。
その問いが、今夜、初めてはっきりと立っていた。
夜が明けた。
眠れないまま、朝になっていた。
ルミナが目を覚ました。いつも通り、僕を見た。でも、今日は少し違う顔をした。
「眠れなかった?」ルミナが聞いた。
「うん」
「顔色が悪い」
「そう?」
「うん」ルミナが少し俯いた。「私のせい?」
「ルミナのせいじゃない」
「本当に?」
「本当に。自分で考えてたから」
ルミナが少し黙った。
「……何を考えてたか、言える?」
「まだ言えない」と答えた。
「そっか」ルミナが頷いた。「言えるようになったら、聞かせて」
「うん」
学校に行った。
授業は、ほとんど頭に入らなかった。窓の外を見ていた。空が白かった。
昼休み、ルミナが「今日も一人でいていい?」と言った。
「うん」と答えた。
一人になった。
弁当を広げた。食べながら、また考えた。
昨夜考えたことを、もう一度なぞった。
どちらで生きていきたいのか。
答えが、少し見え始めていた。
見え始めていたが、まだはっきりとは言えなかった。
言えない理由は、怖いからだった。
答えを出したら、何かが変わる。変わったら、誰かが傷つく。
でも、嘘をついてそばにいてほしくない、とルミナが言った。
正直に話すことと、相手が傷つくことは別のこと、とシエルが言った。
どちらも、同じことを指していた。
正直でいることを、二人とも求めていた。
だから、答えを出さなければいけなかった。
放課後、ルミナの家に向かう途中だった。
分かれ道に来た。
今日は、足が止まった。
止まって、そのまま、動けなかった。
ルミナが「どうしたの?」と言った。
「……少し、考えてる」
「うん」ルミナが静かに言った。「考えていいよ」
考えていいよ。
その言葉が、少し背中を押した。
「ルミナ」と言った。
「うん」
「今日、少し、一人で帰ってもいい?」
ルミナが止まった。
少し間があった。
「一人で、って、どこに帰るの」
「自分の家に」
「シエルのところ?」
「うん」
ルミナが少し俯いた。
また鞄に手が伸びるかもしれない、と思った。でも、今日は、止めずにいようと思った。止めるために謝るのではなく、ちゃんと向き合おうと思った。
ルミナは鞄に触らなかった。
ただ、俯いたまま、静かにしていた。
「……分かった」ルミナが言った。「行ってきな」
「ルミナ」
「大丈夫だよ」ルミナが顔を上げた。目が少し赤かった。「寂しいけど、大丈夫」
「寂しいなら、無理しなくていい」
「無理じゃない」ルミナが静かに言った。「寂しくても大丈夫って、練習してるから」
練習してる。
その言葉が、胸に刺さった。
ルミナが一人で、そういう練習をしていた。
「……ありがとう、ルミナ」
「どういたしまして」ルミナが少し笑った。「後で、連絡して」
「する」
「うん。行ってきな」
分かれ道を、曲がった。
自分の家の方向に。
歩きながら、胸の中が少し動いていた。
ルミナが行ってきな、と言った。二度目だった。一度目より、少し楽に言えているように見えた。それが、嬉しかった。
でも、ルミナの目が赤かったことも、覚えていた。
どちらも、本当のことだった。
家に着いた。
玄関を開けた。いつもの匂いがした。
「おかえりなさい」シエルの声がした。
「ただいま」
リビングに入ると、シエルがいた。今日は窓の外を見ていた。こちらを向いた。
「また来ましたね」シエルが言った。
「うん」
「今日は、どうしましたか」
座った。シエルが向かいに座った。
「……答えが、少し見えてきた」と言った。
シエルが少し止まった。
「答え、というのは」
「どうしたいか、ということ」
シエルが黙った。何かを待っているような、静かな表情だった。
「まだ、はっきりとは言えない」と続けた。「でも、見えてきた」
「そうですか」シエルが静かに言った。
「怖い」
「何が怖いですか」
「答えを出したら、何かが変わる。誰かが傷つく」
「そうかもしれないですね」シエルが静かに言った。「でも」
「でも?」
「アイルさんが正直でいることの方が、大事だと思います」シエルが言った。「誰かが傷つくことと、アイルさんが嘘をついて生きることは、どちらが良いことか」
どちらが良いことか。
その問いは、答えが分かっていた。でも、分かっていても、難しかった。
「分かってる」と言った。「分かってるけど、怖い」
「うん」シエルが静かに言った。「怖くて当然です」
「シエルは、怖くない?」
「何が、ですか」
「答えが出た後のことが」
シエルが少し間を置いた。
「……怖いです」シエルが言った。「アイルさんの答えが、どちらに向かうか、分からないから」
シエルも、怖い。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
「シエルにとって、悪い答えだったら?」と聞いた。
「悪い答え、というのは」
「シエルが望まない答えだったら」
シエルが少し黙った。
「……それでも」シエルがゆっくり言った。「アイルさんが正直に出した答えなら、受け入れます」
「本当に?」
「本当に」シエルが頷いた。「ただ」
「ただ?」
「……望まない答えなら、少し、悲しいです」シエルが静かに言った。「正直に言うと」
正直に言うと、悲しい。
シエルが、そう言った。
その言葉が、今日一番、温かく、胸に届いた。
「シエル」
「なんですか」
「もう少しだけ、待っていてくれる?」
「待っています」シエルが言った。迷わずに。「ずっと」
ずっと。
その言葉が、今夜は特別に、重く、温かく、胸に落ちた。
夕飯を食べた。
二人で、静かに食べた。
食べ終えて、少し話した。答えのことではなかった。今日の空の話とか、シエルが読んでいる本の話とか。そういう話をした。
それが、今日は、一番楽だった。
夜になった。帰らなければいけなかった。
「帰ります」と言った。
「そうですか」シエルが立ち上がった。
玄関で靴を履いた。
「シエル」
「なんですか」
「答えが出たら、一番最初に話す」
シエルが少し止まった。
「……そうですか」シエルが静かに言った。「待っています」
「うん」
「行ってらっしゃい」シエルが言った。「気をつけて」
ドアを閉めた。
歩き始めた。
夜の空気が冷たかった。息が白くなった。
答えが、少し見えていた。
まだはっきりとは言えなかった。でも、どこかに向かっていた。
ルミナの家に向かいながら、今夜、もう少し考えようと思った。
止めずに、考えようと思った。
冬の夜が、静かに続いていた。
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