第三話 報告
きてくれてありがとうねー。
付き合い始めて、三日が経った。
学校では何も変わらなかった。ルミナは隣に座って、いつも通りよく喋った。私はいつも通り聞いていた。それだけだった。誰かに気づかれた様子はなかった。
ただ、放課後になるとルミナが「今日も来る?」と小声で聞いてきた。行ける日は行った。行けない日は「また明日」と言った。ルミナはどちらでも笑っていた。
問題は、シエルだった。
その夜、部屋に戻るとシエルがいつも通りいた。窓際の椅子に座って、本を開いていた。ページはほとんど進んでいなかった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
鞄を置いて、ベッドに腰掛けた。シエルが本から顔を上げた。
「今日も、友達のところに寄ってきたんですか」
「うん」
「そうですか」
また、それだけだった。シエルは本に視線を戻した。
言うべきかどうか、三日間迷っていた。付き合い始めたことを、シエルに言うかどうか。言わなくてもいい、とも思った。ただ友達の家に寄っている、それだけのことにしておけばよかった。
でも、シエルに嘘をついている気がして、居心地が悪かった。
「シエル」
「なんですか」
「……ルミナと、付き合うことになった」
シエルの手が、少し止まった。本のページを繰ろうとしていた手が、そのまま止まった。
少し間があった。
「そうですか」シエルが静かに言った。
「うん。ただ、学校では友達のままでいる。2人きりの時だけ」
「……そうですか」
また、それだけだった。シエルが本に視線を戻した。でも、ページは進まなかった。
「怒ってる?」と聞いた。
「怒っていないです」
「本当に?」
「本当に」シエルが静かに言った。「ただ」
「ただ?」
シエルが少し間を置いた。窓の外を見て、それから私を見た。
「……アイルさんが、いいならいいです」
その声が、いつもより少しだけ低かった。
私はその声の意味を考えかけて、やめた。シエルのことは、長い付き合いのわりによく分からないことが多かった。
「うん」とだけ言った。
シエルがまた本に目を落とした。ページは、やっぱり進まなかった。
窓の外は暗くて、静かだった。虫の声だけが聞こえていた。
こういう夜が、好きだった。
ルミナと過ごす夕方も悪くなかった。でも、この静けさは、また別のものだった。
その違いが何なのか、その時の私には分からなかった。
最初の喧嘩は、付き合って十日ほどで起きた。
きっかけは些細なことだった。放課後、ルミナと帰る約束をしていたのに、私が時間を間違えて先に校門を出てしまった。ルミナが来た時には、私はもう少し先を歩いていた。
「待っててくれると思ってた」
ルミナの声が、少し硬かった。
「ごめん、時間を間違えた」
「間違えたって」ルミナが俯いた。「私のこと、そんなに大事じゃないんだ」
「そういうことじゃない」
「じゃあどういうこと」
私は答えに詰まった。時間を間違えたことと、大事かどうかは、別の話だと思った。でもルミナにとっては、繋がっているらしかった。
しばらく沈黙が続いた。
ルミナが、ふいに鞄の中に手を入れた。何かを探るように。
「ルミナ?」
「……なんでもない」ルミナの手が、鞄の中で止まった。「ごめん、私が変なこと言った」
「変じゃない」
「変だよ」ルミナが顔を上げた。目が少し赤かった。「アイルは悪くない。私がちょっと、不安になっただけ」
不安。その言葉が、胸に引っかかった。
「……何が不安なの」
「アイルが、いなくなりそうで」ルミナが小さく言った。「なんか、ふとした時に、遠い気がして」
私は少し考えた。遠い、というのが何を指しているのか、よく分からなかった。でもルミナが不安そうにしているのは、分かった。
「いなくなったりしない」
「本当に?」
「うん」
ルミナが、ほっとしたように息を吐いた。「ごめんね、変なこと言って」
「謝らなくていい」
「でも」
「私も、ごめん。時間、間違えたから」
ルミナが笑った。さっきまでの硬さが、溶けるように消えた。「じゃあおあいこ」
そう言って、ルミナが私の手を握った。
私は、謝った。時間を間違えたことを。でもどこかに、おかしいという感覚があった。何がおかしいのかは、うまく言葉にできなかった。
その感覚を、私はすぐに忘れた。
ルミナの手が温かかったから。
その夜、シエルに話した。喧嘩した、と。
「どんな喧嘩ですか」とシエルが聞いた。
「時間を間違えて、先に帰ってしまったら、怒らせた」
「……アイルさんが謝ったんですか」
「うん」
シエルは少し黙った。
「それは、アイルさんが悪いんですか」
「時間を間違えたのは私だから」
「そうですね」シエルがゆっくり言った。「でも」
「でも?」
「……いえ」シエルが視線を窓の外に向けた。「アイルさんが納得しているなら、いいです」
私は首を傾げた。シエルが言いかけて止めることは、珍しかった。
「何か言いたいことある?」
「ないです」
「本当に?」
「……ルミナさんのこと、アイルさんは好きですか」
唐突な質問だった。
私は少し考えた。好き、という感情が自分の中にあるのかどうか、正直よく分からなかった。でも、一緒にいると、孤独じゃない気がした。必要とされている気がした。
「……よく分からない。でも、一緒にいたいとは思う」
シエルがまた、一瞬だけ黙った。
「そうですか」
それだけ言って、シエルは本を開いた。しかしページはほとんど進んでなさそうだった。
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