第二十八話 新学期の前日
きてくれてありがとうねー。
冬休みの最終日だった。
明日から学校が始まる。そのことを、朝に気づいた。気づいてから、今日が最後の日だということを、しばらく考えた。
最後の日、というのが何の最後なのか、うまく言えなかった。冬休みの最後、ということだった。でも、それだけではないような気もした。
何かが変わる前の、最後の日。
そういう感じがした。
ルミナが「今日は何したい?」と聞いた。
朝食を食べながら、聞いた。いつも通りの聞き方だった。
「……一回、家に帰りたい」と答えた。
ルミナが少し止まった。
「また?」
「うん」
「この前帰ったじゃない」
「うん。でも、もう一回」
ルミナが黙った。スプーンを持ったまま、俯いた。
「……なんで」
「冬休みが終わる前に、もう一回帰ろうと思ってた」
「シエルに会いに行くの」
「うん」
ルミナがまた黙った。今度は少し長かった。
僕は待った。
以前の僕なら、ルミナが黙るたびに謝っていた。沈黙が怖くて、早く埋めようとしていた。でも今日は、待った。
ルミナが顔を上げた。
「……今日中に帰ってくる?」
「帰ってくる」
「何時頃」
「夕飯前には」
ルミナが少し考えた。
「……分かった」ルミナが言った。「行っていいよ」
「ありがとう」
「ありがとうって言わないでって言ったじゃない」ルミナが少し苦笑いした。「でも、まあ、いいか」
午前中、ルミナの家を出た。
今日は、ルミナが玄関まで来た。
「行ってらっしゃい」とルミナが言った。
「行ってきます」
「早く帰ってきてね」
「うん」
外に出た。
歩き始めた。分かれ道を、今日も迷わず曲がった。自分の家の方向に。
歩きながら、今日が冬休みの最後だということを、また考えた。
明日から学校が始まる。学校が始まると、また毎日ルミナと登下校する。ルミナの家に行く。泊まる。そういう日常が、また始まる。
その日常が、これからもずっと続くのか。
続くとしたら、何かが変わっていく。
変わるとしたら、どこかで何かを選ばなければいけない。
昨夜、そう思った。今朝も、同じことを思っていた。
家に着いた。
玄関を開けると、いつもの匂いがした。
「おかえりなさい」シエルの声がした。
「ただいま」
リビングに入ると、シエルがいた。今日は本を持っていなかった。ただ、窓の外を見ていた。
「また来ました」と僕は言った。
「はい」シエルが振り向いた。「この前より、早いですね」
「冬休みの最後だから」
「そうですか」シエルが少し目を細めた。「明日から学校ですね」
「うん」
「どうぞ、座ってください」シエルがお茶を淹れに行った。
ソファに座った。
窓の外を見た。今日は晴れていた。雪はもう、ほとんど溶けていた。青い空だった。冬の青空。
シエルがお茶を持ってきた。並んで座った。
二人で、しばらく窓の外を見ていた。
「シエル」
「なんですか」
「一つ、聞いていい?」
「どうぞ」
「シエルは、僕に、どうなってほしい?」
シエルが少し止まった。
「どうなってほしい、というのは」
「これから、どうしてほしいか。どこにいてほしいか」
シエルが黙った。窓の外を見たまま、黙っていた。
長い沈黙だった。
答えを急かさなかった。シエルが考えているのが分かったから。
しばらくして、シエルが言った。
「……アイルさんが、アイルさんのままでいてほしいです」
「アイルのまま?」
「はい」シエルが静かに言った。「どこにいても、何をしていても、アイルさんがアイルさんであれば、それでいいです」
アイルさんのままでいてほしい。
その言葉が、胸に落ちた。温かく、でも少し、痛かった。
アイルのまま。それが今の自分にあるのかどうか、分からなかった。一人称が変わって、服の好みが変わって、帰る場所が変わって、今の自分がアイルのままかどうか。
「昔のまま、かどうか、分からない」と言った。
「そうですか」シエルが少し目を落とした。「僕には、まだ、アイルさんに見えます」
「本当に?」
「はい」シエルが頷いた。「少し変わったところはあります。でも、根っこのところは、変わっていない気がします」
「根っこのところ、って何」
シエルが少し考えた。
「……たとえば」シエルがゆっくり言った。「眠れない夜に、正直に送ってくること。寂しいかどうか、聞いてくれること。僕が言いたいことを言っていいと言ってくれること」
そういうことが、根っこだとシエルは言った。
「それが、アイルさんだと思います」シエルが続けた。「少なくとも、僕には」
少なくとも、僕には。
その言葉が、静かに胸に響いた。
昼食を食べた。
シエルが作ってくれた。今日は卵雑炊だった。温かかった。
「また卵系だね」
「温まるので」シエルが答えた。「アイルさんは、寒そうだから」
「寒そう?」
「なんとなく、そう見えます」シエルが少し目を細めた。「外側が、ではなく」
外側じゃない方が寒そう、というのが、どういう意味か、少し考えた。
聞こうとして、やめた。なんとなく、分かる気がしたから。
雑炊を食べた。温かかった。胃が温まった。
食後、また二人でリビングにいた。
シエルが今日は本を出してきた。読んでいた。ページが進んでいた。
僕はソファに横になって、天井を見ていた。
このまま、ここにいたい、と思った。
夕飯前には帰ると言った。ルミナが待っている。明日から学校が始まる。また同じ日常が続く。
でも、今日だけは、このままでいたかった。
シエルがいる。静かな家がある。いつもの匂いがある。
このままでいたい、という気持ちが、今日は特に、はっきりしていた。
「シエル」
「なんですか」
「もう少しだけ、いていい?」
シエルが本から顔を上げた。
「いてください」シエルが言った。迷わずに。「夕飯も、食べていってください」
「でも、ルミナに夕飯前には帰るって」
「少し遅れても、いいんじゃないですか」シエルが静かに言った。「たまには」
たまには。
その言葉が、少し背中を押した。
「……少しだけ、遅れてもいいかな」
「いいと思います」シエルが頷いた。「連絡すれば」
「うん」
ルミナにメッセージを送った。『少し遅くなる』と。
すぐに既読がついた。しばらくして、返信が来た。
『どのくらい遅くなるの?』
『夕飯食べてから帰る』
少し間があった。
『……分かった』
それだけだった。
怒っている感じではなかった。でも、いつもより短かった。
スマートフォンを置いた。
「怒ってた?」シエルが聞いた。
「怒ってないと思う。でも、複雑そうだった」
「そうですか」シエルが少し間を置いた。「すみません、余計なことを言いました」
「余計じゃない」と言った。「シエルが言ってくれなかったら、帰ってた」
「……そうですか」
シエルがまた本に目を落とした。
僕は天井を見た。
夕飯まで、ここにいる。
それだけのことだったが、今日は、それだけのことが、とても大事な気がした。
夕飯を食べた。
今日は肉じゃがだった。温かかった。
食べながら、今日のことを思った。シエルが言ったこと。アイルさんのままでいてほしい、と言ったこと。根っこは変わっていない、と言ったこと。
その言葉が、今日ここにいる間、ずっと胸の中にあった。
食べ終えて、荷物を持った。
玄関でシエルが見送った。
「また来ます」と言った。
「待っています」シエルが言った。「今度は、もっとゆっくりしていってください」
「うん」
「約束ですよ」
「約束」
ドアを開けた。外は暗かった。夜になっていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」シエルが言った。「気をつけて」
ドアを閉めた。
歩き始めた。
夜の空気が冷たかった。息が白くなった。
ルミナの家の方向に歩きながら、今日のことを全部持っていた。
明日から学校が始まる。
また同じ日常が戻ってくる。
でも、今日の帰り道に、一つだけ、はっきりしていることがあった。
もっとゆっくりしていってください、とシエルが言った。
次は、もっとゆっくりする。
それが、次の約束だった。
その約束が、今夜の帰り道を、少し温かくしていた。
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