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第三話:黄昏の宿場町 ― 黄金の杯と、綻ぶ誓い ―

「愛とは、相手を自分に都合よく作り変えることではないわ」

交易都市の喧騒の中、一組の男女が手にした黄金の杯。

その中に満たされていたのは、極上のワインか、それとも――。


好奇心という名の毒に突き動かされた富豪が、禁忌の語り部を招き寄せる。

偽りの誓いが剥がれ落ちる、残酷な夜の物語。

交易都市ラザハン。そこは砂漠の乾燥した風と、海から流れる湿り気がぶつかり合い、金と欲が絶え間なく回流する喧騒の街だった。

 黄昏時、大通りに面した老舗の酒場『黄金の蹄亭』は、旅人と商人の怒号に近い笑い声で満ちていた。

 その喧騒を割るように、一人の女が店に入ってきた。

 深い紺色のマントを羽織っているが、その背には使い込まれたリュートの長いネックが、まるで一振りの剣のように突き出している。

 店内に一歩踏み出した瞬間、彼女の周囲だけ空気が凪いだ。

 銀の長髪がマントの隙間から零れ、焚き火の光を吸い込んで鈍く輝く。その美貌もさることながら、酒場の粗野な熱気に一切流されない、悠久を歩む者だけが持つ静寂が、酔客たちの目を惹きつけずにはいなかった。

「おい、そこの女。……いや、噂に聞く『銀麗の吟遊詩人』殿……か?」

 声をかけたのは、上等な絹の服に身を包んだ若き富豪、ジュリアンだった。

 好奇心と薄気味悪さが入り混じったような、歪な笑みを浮かべて彼は問う。傍らには、陶器のように白い肌を持つ美しい婚約者、エレナが寄り添っている。ジュリアンは退屈そうに金の杯を弄び、彼女の浅く焼けた肌、そしてマントの隙間から覗く、旅路で鍛えられたなめかわしい脚の曲線に下卑た視線を這わせた。

「関わると魂を削られると聞くが、退屈しのぎには丁度いい。金ならいくらでも出す。そのリュートで、俺たちの門出に相応しい、最高の愛の物語を聞かせてみろ。このエレナが、俺をどれほど深く愛しているか……それを再確認させるようなやつをな」

 彼女は男の差し出した金貨には目もくれず、ただ静かに二人の顔を見つめた。

 酒場の熱気で、彼女の額には微かに汗が浮き、一筋の銀髪が首筋に張り付いている。赤い瞳が、ジュリアンの傲慢さと、エレナの瞳の奥に潜む『飼い殺された鳥』のような絶望を、一瞬で透かし見た。

「……愛、ですか。では、語りましょう。かつて、すべてを分け合った二人の神が、たった一つの『真実』を巡って、互いの喉笛を噛み切った物語を」

 彼女は酒場の隅、二人の正面に腰を下ろし、リュートの弦を強く弾いた。

 ――ベベンッ!

 不協和音が酒場の喧騒を力技でねじ伏せる。周囲の客たちが、まるで見えない壁に仕切られたかのように静まり返り、彼女の領域に引きずり込まれていく。

「その二人の神はね、永遠の誓いを立てていたわ。お前の苦しみは私のもの、私の歓びはお前のものだと。けれどある日、天から一つの黄金の林檎が落ちてきた。それは『世界で最も美しい者の手に渡る』と記された果実」

 彼女の声が、魔力を帯びて低く、重く響き渡る。

 ジュリアンは鼻で笑おうとしたが、喉が固まったように動かない。エレナの手は、テーブルの下で震え始めていた。

「さあ、想像して。昨日まで髪を撫で合っていたその指が、林檎を奪い合うために、相手の瞳を抉ろうと動く瞬間を。男の神は言った。『お前を愛しているからこそ、この林檎を俺が持ち、お前を飾ってやりたいのだ』。女の神は答えた。『あなたを愛しているからこそ、私にこれを譲って、あなたの愛を証明してほしい』」

 彼女の指先が、リュートを激しく掻き鳴らす。精霊たちが狂おしく踊り、酒場に満ちる酒精が、まるで血の匂いに変質したかのような錯覚を二人に与える。

「愛? いいえ、それはただの『所有』という名の病よ。ジュリアン、あなたが彼女を抱く時、その腕の中にいるのはエレナという一人の人間? それとも、金の鎖で繋いだ最高級の置物? ……そしてエレナ、あなたが彼に向けた微笑みは、慈しみ? それとも、安寧という名の檻の中で、いつかこの男が死に絶えるのを待つための毒?」

「な、何を……!」

 ジュリアンが立ち上がろうとするが、足に力が入らない。

 彼女の赤い瞳が、彼の魂の最深部――『自分以外のすべては、自分を飾り立てるための道具である』という剥き出しの自己愛を暴き立てていた。

「二人の神はね、最後にはどうなったと思う? 互いの翼を毟り合い、相手が自分なしでは生きていけないほどに壊すことで、ようやく『愛を証明した』と笑ったのよ。……ねえ、エレナ。あなたが昨夜、鏡の前で自分の喉元にナイフを当てた時。その冷たい鉄の感触だけが、唯一の自由だと感じなかった?」

 エレナの目から、大粒の涙が溢れ出した。彼女は声もなく号泣し、ジュリアンが差し伸べようとした手を、激しい拒絶と共に振り払った。

「やめろ! その忌々しい口を閉じろ!」

 ジュリアンは絶叫した。だが、彼女の声は容赦なく続く。

 魂を削るような、残酷なまでの真実。

「愛とは、相手を自分に都合よく作り変えることではないわ。けれど、あなたたちがしているのは、互いの魂を少しずつ削り、自分の欠けた穴を埋めるための肉細工に過ぎない。……黄金の杯で飲む酒が、鉄の味がするのはなぜかしら? それは、あなたが彼女の心を殺して絞り出した、血を飲んでいるからよ」

 酒場の中は、死のような静寂に包まれていた。

 語りが終わった。リュートの残響が、人々の魂を震わせたまま闇に溶けていく。

 ジュリアンは顔を真っ青にし、ガタガタと震えながら、テーブルの上の金貨をぶちまけた。それは恐怖から逃れるための、卑屈な防衛本能だった。

「持って行け! どこへでも行け! 二度と俺の前に現れるな!」

 彼女は金貨を一瞬だけ見つめ、一枚も拾うことなく立ち上がった。

 エレナは床に崩れ落ち、嗚咽を漏らしている。その姿は、虚飾の愛という呪縛から解き放たれ、自分自身の地獄を直視し始めた一人の女の姿だった。

 彼女は紺色のマントを羽織り、深く被ったフードの下から、一度だけ振り返った。

 赤い瞳には、やはり憐れみも悦びもない。

「……本当の闇を知る者だけが、いつか本当の光を求めることができる。その時まで、この地獄を愛しなさい」

 彼女は喧騒へと戻り始めた街の中へ、独り消えていった。

 浅く焼けたその肌に、酒場の熱気ではない、夜風の冷たさを纏いながら。


 天上の星々は、地上の欲に塗れた光をただ静かに見下ろしている。

 かつてその光の中にいた彼女にとって、人の愛憎劇など、瞬きの間に消える火花に過ぎないのかもしれない。

 銀麗の吟遊詩人は、今日も旅を続ける。

 誰かに魂を分け与え、誰かの感情を暴き、あるいは自らの罪を語り継ぐために。

 終わりのない、贖罪の円環をなぞるように。

 そしてまた、語らうのだ。

お読みいただきありがとうございました。

賑やかな酒場の喧騒さえも消し去る、彼女の静かな毒。

次回の旅先でお会いしましょう。


続きは、別の場所で静かに綴られています。

(カクヨムにて連載中)

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