第4話:返還要求
王宮からの呼び出しは、昼の鐘が鳴るより少し前に来た。
癒し学校の仮棟では、朝の授業の片づけがちょうど終わったところだった。包帯を干して、木椀を洗って、エリスが黒板代わりの板を一生懸命ぬぐっている。
「ひなたお姉ちゃん、これ、きれいになったよ」
「うん、ありがと。えらい」
そう言ったところで、門番の騎士が息を切らして入ってきた。
「聖女・天川ひなた殿。陛下より急ぎの召喚です」
「急ぎ?」
嫌な予感がした。
ゆうりも同じ顔をしたらしい。腕を組んで眉を寄せる。
「こういう急ぎって、ろくな用事じゃないのよね」
ラグナは窓の外を一瞥した。
「門前に見慣れぬ旗がある。客人だな。しかも歓迎の客ではない」
王宮へ向かう馬車の中で、私はずっと落ち着かなかった。膝の上の指が勝手に握られていく。
「殴るなよ」
向かいの席で、ゆうりが先に釘を刺した。
「まだ何も聞いてないんだけど」
「その顔で言っても説得力ないのよ」
「必要なら殴る」
「必要の定義を広げるな」
ラグナが静かに割って入る。
「言葉を選べ、ひなた。向こうが喧嘩を売りに来たとしても、最初に殴れば“改革国家が外交を壊した”という形だけが残る」
「分かってるよ」
分かってる。分かってるけど、嫌な予感の形がはっきりしすぎていた。
***
案内されたのは、玉座の間じゃなく、横の謁見室だった。
天井は高い。窓は細い。赤い絨毯の上に、王と王子、数人の重臣。その向かいに、見慣れない一団が立っている。白に銀糸の入った法衣。胸元の飾りは冷たく光っていた。
先頭の男が、私を見るなり薄く笑った。
「あなたが、アストレアの聖女ですか」
その言い方だけで、もう気に入らなかった。
壇上では、レオニス三世が重い声で言う。
「聖女・天川ひなた。呼び立てたのは他でもない。隣国セルヴァートより、正式な使者が来ている」
王子レオニールが、静かに続けた。
「要件は一つです。保護中の少女――ミレナ殿の身柄について」
胸の奥が、すっと冷えた。
やっぱり、それか。
使者の男は、一歩前へ出た。年は四十前後くらい。整えた口髭、癖のない声、妙に滑らかな礼。
「私はセルヴァート王国、聖務監理局の監察使。此度の件について、陛下へ正式に抗議いたします」
抗議、ね。
言い方がもう腹立つ。
「ミレナは我が国の国家管理下にあった聖女です。正確には“保全対象”。王家と聖堂の共同管理財です」
財。
その一文字で、私の拳が固まった。
「逃亡、あるいは外部勢力による不法誘導により、現在アストレア王国に留め置かれている。よって、速やかな返還を求めます」
「留め置かれてるんじゃない。保護してるの」
気づいたら口を挟んでいた。
ゆうりが横で、あーもう、って顔をする。
でも止まらなかった。
「門の前で倒れてたんだよ、あの子。喉は焼かれて、足は裂けて、まともに声も出せなかった」
監察使は私を見た。見た、というより、測った。
「聖女殿。制度をご存じないから情に流されるのでしょう。聖女は国家の祈祷資産です。個人の感情で動かしていいものではありません」
資産。
今度はその言葉だった。
「人間を荷物みたいに言うな」
「では申し上げます。逃亡奴隷に準ずる存在、と」
一瞬、視界が白くなった。
前に出かけた私の腕を、ゆうりが横からつかむ。
「待ちなさい」
「いや無理」
「無理でも待て」
ラグナの声が低く落ちた。
「ひなた」
短い一言だけで、ぎりぎり踏みとどまる。
王はその間も黙って聞いていた。やがて、肘掛けに置いた指を一度だけ打ち、場を静める。
「セルヴァートの使者よ。我が国は門前で倒れていた傷病者を収容した。それだけだ。現時点で“返還”という言葉を用いる前提が、まず成り立たぬ」
監察使はすぐに返した。
「国家間の聖女管理条項はご存じでしょう。越境した国家管理聖女は、発見国が速やかに保全し、原管理国へ引き渡す」
「条項があるのは知っておる」
レオニス三世の声は重いままだった。
「だが、その条項は管理の正当性を前提にする。喉に拘束印を刻み、発語と記録を封じた上での“管理”が正当かどうか、我はまだ判断しておらぬ」
少しだけ、空気が変わった。
レオニール王子が続ける。
「ミレナ殿は著しく衰弱していました。まず必要なのは送還ではなく、事実確認と治療です」
「王子殿下」
監察使はわずかに眉を動かした。
「内政上の混乱は理解します。しかし、感傷で国際秩序を曲げられては困る」
ラグナがそこで初めて口を開いた。
「秩序、か」
視線が一斉にそっちへ向く。
「人の喉を焼いて作る秩序なら、ずいぶん脆いな」
監察使の目が細くなった。魔王がこの場にいること自体、向こうからすれば面白くないんだろう。
「アストレアはついに魔族まで廷内に入れたのですか」
ゆうりが口を挟む。
「話のすり替えはやめて。論点はミレナさんが人として扱われていたかどうかでしょ」
「勇者殿にそう言われるとは、興味深い」
「褒めなくていい」
ぴりぴりしたまま、言葉だけが飛び交う。
私はじっとしてるのが限界に近かった。だって向こうは、最初からミレナを物として数えてる。痛かったかどうかも、怖かったかどうかも、どうでもいいみたいに。
その時、謁見室の後方で小さな音がした。
振り向くと、扉の脇にミレナが立っていた。
顔色は白い。両手で喉元を押さえている。たぶん、話を聞いてしまったんだ。
「ミレナ」
私が名を呼ぶと、監察使の目がそっちへ向いた。
「……やはりこちらに」
その視線だけで、ミレナの肩が震える。
「戻りません」
掠れた声だった。
でも、確かに言った。
「わたしは……戻りません」
謁見室が静まり返る。
監察使は、驚かなかった。ただ、少しだけ冷たい顔になった。
「恐怖で判断を誤っているだけです。聖女は常に役目から逃げたくなるものだ」
私はもう駄目だった。
「は?」
一歩出る。
「今の、もう一回言ってみて」
ゆうりが再び腕を引く。今度はかなり強く。
「ひなた」
「でも!」
「でもじゃない!」
王の声が落ちた。
「結論は今、ここでは出さぬ」
場が止まる。
「ミレナは引き続き、王国預かりの保護対象とする。治療と聴取を優先。セルヴァート側へは、三日の猶予をもって返答する」
監察使の口元がわずかに歪んだ。納得してない顔だ。こっちだってしてない。
「……承知しました」
彼は一礼し、懐から一通の封書を取り出した。白い封蝋。そこに刻まれていたのは、見慣れない、冠のような印だった。
「では、こちらを。正式文書です。ご判断の一助になるでしょう」
それだけ言って、一団は引いた。
扉が閉まったあとも、部屋には嫌な冷たさが残っていた。
私は息を吐いて、思いきり拳を握る。
「殴ればよかった」
ゆうりが眉をひそめる。
「最悪の感想ね」
ラグナは封書の印を見ていた。
「……妙だな」
レオニール王子も同じ印を見つめる。
「ただの隣国の公印ではありませんね」
私はまだ扉の方を見ていた。閉じた向こうに、さっきの男の声が残ってる気がした。
返せ。
資産。
逃亡奴隷。
ふざけんな。
私はミレナの前にしゃがみこんだ。まだ震えている手を、今度はちゃんと握る。
「返さないから」
ミレナは喉を押さえたまま、少しだけ頷いた。
でも分かる。今日のこれは、ただの隣国トラブルじゃない。
向こうは、あの子ひとりじゃなくて、ここで私たちが作ろうとしてるものごと潰しに来てる。
だったら――ますます、返せるわけがなかった。




