《ジル視点》 吐き出す言葉。
心の隅がいつもどこか落ち着かなかった。一人暮らしを始めたら気楽にはなったけれど、真っ暗な家に帰るとよく夏でも、震えるような寒さを感じるのだ。
「ただいま」
返事はなく、静寂が耳に痛い。身体の脇を冷たい風が通り過ぎていく。自分にとっては当たり前のことだ。
でもある日、夢を見た。
「おかえり!」
ドアを開けた誰かは自分に、笑って自分を迎えてくれる。
姿は日の光にとけて判らないのに、目が覚めた後も、優しく暖かい声だけは耳の中に残っていた。だけど、どんなに記憶をさかのぼってもその声の持ち主を僕は認識する事が出来なかった。
僕の名前はジル。王国第三騎士団に所属していて、今はとある理不尽な理由あって猫に姿を変えられ異世界に飛ばされている。
「着いたよー」
間延びした声が頭上からかけられる。僕達を拾った張本人の声だ。
最終的にはら抵抗する術もなく、ここまで連れられてきてしまった。目の前の扉を開けば彼女の家であり、正直女性一人暮らしの家に5人の男が入りこむなんてあまり褒められたことじゃないとは思うが今は仕方ない。
ただの迷子ってだけなら信頼できる知り合いに頼るけど、僕たちはは異世界人だ。ましてやここに来たばかりで少なくとも僕達は混乱していた。
僕よりも少し年下らしい女の子。
今は乱れているが、最初に見たまっすぐさらさらな黒髪は、誰もが触りたいと望むだろう。長いまつ毛にふちどられたぱっちりした瞳は、綺麗な深い黒色をしている。
一瞬で観察を終えた僕と他の猫を見つめて彼女は呼びかけた。
「お風呂入ろうねー。しっかり洗ってあげるから!任せて!」
ドヤッと自信満々に言う彼女に、そのままされるがまま抱きかかえられてから浴室らしき場所に連れて行かれた僕達はそっと浴槽に入れられる。気づくと体にお湯がかかっていた。よく見ると見たことのない道具からお湯が勢いよく出ている。
「何だこれは…!?」
見たことのない道具を扱う彼女に向かって最初にレイさんが警戒心を強める。直ちにお湯から逃げようとするが彼女はそれすら気づいていないようで、嫌がっているレイさんの手を御構い無しに引っ張って笑ってみせた。
どうやらここの国は僕たちの国にはない物が数多く存在するらしい。一旦僕たちの身体を軽く濡らした後、手際よくボディソープで身体を洗い始める。この子が敵だとしても僕達は少なくとも魔法が残っているからとりあえず僕は身を任せて身体をさっぱりさせることにした。
「気持ちいい?よかった〜」
「おい、引っ張るな!」
「よーしよしよし。良い子だね〜」
じたばたと抵抗するレイさんを大人しく成り行きを見守ることにする 。……どちらにせよ言葉通じないけど。
「…って尻尾はやめろ!掴むな!」
以下略。
「おお、きれいになったね!」
気持ちが良い。タオルで身体を拭かれ、またよく知らない機械から風が出てきて乾かされる。
「この世界はどれだけ技術が発達しているんだ…」
「確かに。その代わり魔法は存在していないみたいだ。それにしてもどの文献にもあんな道具の記述は見たことがないよ」
乾かされながらぐったりしたレイモンドさんと正反対にリラックスしたアンリさんが話をしているのが聞こえてくる。僕は温まったからか、どうやらうとうとして来たみたいだ。突然に異世界に連れてこられひどく疲れていたため、乾かし終わる頃には、僕は深い眠りに落ちてしまった。
翌日。
過保護な彼女は一から十まで僕達の世話を焼きたがって大変だった。目がさめると両手いっぱいに荷物を抱えている。どうやら猫用の生活用品を買ってきたようだった。
ちなみに彼女の名前はサクラというらしい。
「どこか痛いところはないかな?あ、何か食べる?」
「焼き魚?ささみ?刺身?チーズ?あ、ちくわ?海苔もあるし、噛めないなら牛乳もあるよ」
「ほら、食べやすい大きさにしてるからね」
「はい、あーん」
…しつこい。自分で食べられるから!ちょっと、口に入れるな!あ、これ美味しい…じゃなくて!
「おいしい?ユキ」
彼女が僕の顔を見ながらそう言って、沈黙して僕はそれが『自分の名前』になるのだと理解するまで十秒ほど時間がかかった。どうやら僕はユキという名前をつけられたらしい。
「私もご飯食べようっと」
俺たちが一通り食事を終えたことを確認すると、サクラは「もやし」と書かれた見るからに貧相な食べ物を取り出した。
…まさか君のご飯それだけとか言わないよね?「有り難いけどよく俺たちを養おうと思ったな…大丈夫か?」と心配するクロード隊長に心底同意する。僕達を拾った女の子はかなりのお人好しらしかった。僕達の視線に気がついたのかサクラは1番近くにいる僕に「おいで〜」と手を出す。少し戸惑って僕は身動きができないままでいるとサクラは苦笑いしながらのばした腕をくたりと力なく引っ込めたのだった。
「そういえば、昔親戚の家の猫用に遊び道具を買ってた気がする」
少し経ってから食事が終わってからサクラはハッと思い出したように立ち上がった。
近くにあった椅子に、乗って背伸びをしながら精一杯腕を伸ばし、積み重なった重そうな箱を取り出そうとする。
ユリウスさんは「やめた方が良くない?」と心配しているし、レイモンドさんは「降りろ!」と注意しているがその言葉がサクラに届くことはなく。ぷるぷると背伸びしてバランスをとっている姿に嫌な予感しかしない。
そうして、箱を取り出せたので椅子から降りようとした時。サクラが僕達の視線に気づいたのか向かって笑顔で「もうちょっと待ってね!」と顔を横に向けた。その時だった。サクラの体がぐらっと揺れた。危ない!僕は無意識にサクラの下にまわっていた。
しばらくしてドスンと椅子と箱が床に落ち、派手な音を立ててサクラは僕の上に落ちてきた。衝撃が走り一瞬、意識が遠のいた。さすがに猫だと人間は支えきれなかったらしい。
「ジルー!」とユリウスさんの焦った声が耳に届いたが、しばらくしてふっと意識を手放した。
目を開ける。僕はサクラの腕の中にいた。自分の身体に視線を下ろすと、包帯が大袈裟にぐるぐるに巻かれてあるのが見えた。
「ユキ!」
見上げるとなぜか号泣しているサクラ。ギョッとして目を見開くとやっと僕が大丈夫なことに気が付いたようだった。
「ユキ!良かったー!」
ぎゅうっと強く抱きしめられた。思わず僕は固まってしまった。
「ユキ、やっぱりまだどこか痛むの?」
固まった僕をサクラがとても心配そうに見つめてきた。こんな風に心配されたことも初めてだ。
僕はひどく戸惑ってしまう。正直、あんな一度の衝撃で身体が駄目になる程柔ではないのだが、こんな風に心配されたことは慣れていないため自然と無言になってしまう。
他の4人から話を聞くと、サクラは僕が意識を失い動かない様子を、重症だと誤解したようだった。
「病院に行かなきゃ!ユキ、もうちょっとの辛抱だからね!」
そう言って、サクラは僕を抱っこしたまま、全力疾走で走って家を出てしまったらしい。
良かった、と繰り返すサクラの姿になんだか胸が暖かくなるような苦しくなるような、そんな不思議な気持ちになった。
「サクラ」
初めて名前を呼んだ気がする。
いつもは言葉が通じないからやめていたけれど。
「ありがとう」
伝わらないのに吐き出す言葉は、とても虚しくてつらい。だから僕はサクラの身体に少し擦り寄る。サクラがしてくれたように抱きしめることはできないけど、身体をくっつけることはできる。
人の体温って、案外安心するんだね。
僕の珍しい行動にサクラは驚いたようだけど、すぐにぎゅっと抱きしめ返された。しばらくしてから他の4人の視線が気になったので、サクラの表情から笑顔が戻ったのを確認するとするりとサクラの腕の囲いから抜け出す。言葉は交わせないけど伝わっているだろうと信じて。
僕のために背伸びして頑張ってくれるこの子を少し可愛いなと思ったことはここだけの話だ。
読んでいただきありがとうございました!