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掌の眼  作者: 瑠璃雀
夏休みの始まり
45/113

遊馬という自由人 風のままに

 七海と遊馬は幼いころから弓道をやっていた。習っていた場所が違うために、部活に入って初めて互いの存在を知った。幼いころから何らかの武道を習得するように言われているからで、精神と身体を鍛えるためだそうだ。


 七海は弓道が好きだ。射場に立った時のぴりりとした緊張感、所作を進めるうちに心の波が静まっていくのに、丹田のあたりにポッと火が灯るような感覚。そして心が研ぎ澄まされていくような、まるで心が水鏡のように滑らかで澄み渡っていくような感覚。

 まだまだ雑念が混じることが多く、なかなか思うようには中たらない。それでも時折、自分なりに最高の射が出来たときの爽快感は最高だった。


 下級生たちが準備をしてくれている間、七海は長い髪をまとめた。頭の少し高い位置で結んで、軽く頭を振る。その動作に合わせて長い髪が楽し気にゆれ、日の光が反射して艶めいている。


「七海、はえーな。」

 そう声を掛けてきたのは遊馬である。2年で副部長となり今年の夏で引退になる。

「もうここで引くのもあと少しなんだよね」

「そうだよなー何か‥ここでは色々あったしな」

 二人は過去の事件を思い出し、笑いあった。




 遊馬は幼いころから放浪癖があった。数日家を空けるのも当たり前、誰にも言わずにふらりと出かけてしまう癖があった。風系譜では珍しいことではないらしい。両親――特に父は口うるさく言わない代わりに、影でしっかりと対策はしていたらしい。中学生になったお祝いには、パスポートを作ってくれたほどだ。

 これに加え、遊馬はこづかいやお年玉をしっかりと管理しており、小学生のときには

「今からかえるー!」

 と珍しく電話をしてきたのだが、母親は絶句した。その後に2日かかるっぽい!と元気な声が返ってきたためだ。帰宅した遊馬に話を聞くと、ふらりと屋久島まで行ったのだという。


「縄文杉すげーの!!」

「遊馬?さすがに下準備が必要だと思うのよ?」

「下調べしたし、とーちゃんが俺にカード渡してくれてたし。案内してくれた人もいたよ?」

「‥‥あなた?」

 父はへたくそな口笛を吹きながら目をそらす。どうやら父は、止める気よりも、無事に帰ってくるための準備を整える気のほうが強いらしい。これが五十嵐家の日常だった。



 そんな遊馬が中学生になり、弓道部に入部した。中級から伸び悩んでいる七海をよそに、遊馬は1年からその実力で頭角を現していた。

 個人戦は言わずもがな、団体戦でも選抜メンバーに抜擢されていた。


 夏の大会、3年生の引退試合となるその日、七海は朝からソワソワしていた。自分は選ばれず、応援だけであったが、遊馬が出場予定である。

 遊馬の射を見るのは好きだった。所作は流麗でありながら堂々としており、小柄な遊馬が大きく見える。これは七海だけが感じていることではなく、先輩たちもそう言っている。


「軽やかなのにどっしりしてるんだよね。」 

「重心が下にあるからか?」

 そして何より遊馬が射場に立つと妙な安心感があるというのだ。


 しかしその日、集合場所に遊馬の姿はなかった。部員たちは皆そわそわしていたが、部長は腕時計を見てため息をついた。

「‥遊馬がいないのは痛いが仕方ない。福井、頼む。」

 内心の動揺を一片も見せることはなく、部長はそう言って三年生の補欠であった福井に声をかけた。

「‥うっ‥はい。」

 万一のための補欠だったが、突然の昇格に驚いて動揺しきりである。そんな不穏な空気で大会は始まったのだった。


 案の定というべきか、散々な結果に終わった。唯一、部長だけが普段のペースを貫き通した。それでも個人上位には至らず、三年生は皆、肩を落としていたのだった。

 『ひどい‥先輩たちはこれが最後だったのに‥こんなのってないよ』

 先輩たちの落胆が、七海の遊馬に対する怒りに火をつけた。


「‥俺だって悔しいさ。でもな‥遊馬がいなかったからダメだったなんて‥そんなの認めたくねえ。みんな、思うところはあるかもしれない。だが、これが今の俺たちの実力だ。俺はこの先も弓道を続ける。この程度のことで揺らがないくらい、極めてやる。」

 部長の姿と言葉に、部員たちも心を動かされた。もちろん七海も、である。しかし、内心の悔しさも痛いほどに分かるのだ。

『あのバカ!! 絶対に許さないんだから!!』



 それから数日後、軽やかに遊馬が戻ってきた。

「おっはよー!七海!! 聞いてくれよ!!」

 能天気な明るい声に、全身の血が一瞬で沸騰したようにさえ感じる。せめて少しでもバツが悪そうにしていたら、そこまでの怒りは出なかったのかもしれない。

「‥‥遊馬?」

 ギロリと睨まれ、地の底のさらに奥から響くような声に、遊馬は笑顔のまま固まった。七海の全身からどす黒いオーラが湧きたっているかのような波動に、完全に気圧された格好だ。


「‥え?‥と‥‥な、なみ?‥」

「‥どうして‥」


 相変わらず地の底から響くような低音で、七海は静かに怒っているようだ。熱く激しい炎ではなく、静かだが更に高温の蒼炎といった様相だ。

「‥う‥え?」

「‥団体戦だってあったのに‥先輩は引退試合だったのに‥」


 その言葉で遊馬が「あ」と短い声を上げる。そしてその言葉に七海は更に怒りの炎が激しさを増した。

「‥忘れてたっていうの‥」

 怒りだけではない、深い悲しみと失望、呆れ、様々な感情が入れ交じり、それが複雑に絡み合っているようだった。


「‥あ、えっと‥忘れてたというか‥うん‥‥ごめ‥‥」

「‥悪いだなんて思ってないでしょう?」

 気圧された勢いで謝りかけたが、それを七海に遮られた。


「‥だって‥でも‥」

 何か言おうとするが言葉にならず、バツが悪そうに俯いてしまう。

「‥酷かったよ‥直前で信頼してた遊馬に裏切られて‥みんな調子が狂った‥」

 七海の言葉に遊馬は拳をグッと握りしめる。それまではタジタジだった遊馬が、ムッとしている。もちろん七海はそんな様子など全く見えていない。


「みんな、先輩たちを笑顔で送り出したかっ」

「だから何だよ!?俺がいなかったから!?関係ないだろ!?何があろうと心を落ち着けて射に集中するだけだ!俺のせいにすんなよ!」


 遊馬の言葉は、まるで矢の如く七海の心を貫く。否定出来ない、だが、それを遊馬にだけは言ってほしくなかった。

 だからこそ七海は無言で遊馬を睨む。そしてその視線を受けた後、遊馬はフッと視線を逸らした。

「‥俺がいなけりゃ、いいんだよな。退部するわ。」

 しばらくの無言の後、遊馬はそれだけ言い捨て走り去っていった。七海が声をかける暇もない。まるで風のようにあっという間に姿が小さくなっていく。


 余りの衝撃に七海は完全に虚を突かれた。

「‥え?‥うそ‥‥待ってよ‥わたし‥そんなつもりじゃ‥」

 そんなにもあっさりと振り切る、などと考えてもいなかった七海はその場に立ち尽くした。


 日差しは徐々に強く、半袖の腕がじりじりと焼かれていく。汗ばむほどの暑さだというのに、七海の心は冷たい雨が降りそぼっていた。




「あー‥あいつのそういうとこ、俺もちょっと羨ましいんだけどな‥」

 昼休み、屋上で話を聞いた道明が呟く。

「遊馬だからしょうがないって思うけど‥でも‥そう思えるの、私たちだからだよ、ね?」

 茜もそう言ってため息をついた。


「それに遊馬の言うことも間違ってないんだよなあ。俺は空手だけど、そこは一緒だ。」

「いや、分かるよ?分かるんだけど、でもそれを遊馬が言ったらだめじゃない!?」

 道明と七海の言葉に茜もうなずきながらそれに同調する。

「分かっていてもだよ?‥その‥頭でわかることと心がそれに従うかって、別かなって」

「「それ!!」」

 道明と七海が完全にハモる。しかし遊馬にどう話したら良いのか、三人は結論の出ないまましばらくそのまま意見を出し合った。

 その日、七海が部活に顔を出すと部長と副部長に呼び出された。



「五十嵐のことなんだけど」

 部室に入るなり部長がさっそく切り出した。七海も「やっぱり」と覚悟を決める。

「今朝、すみませんでしたってこれを出してきたんだ」

 部長の手には退部届があり、副部長もため息をついた。

「えっ!?」

 七海は遊馬のあまりの行動力に驚いて息をのんだ。勢いで言っただけで本当に辞めるなどと全く考えていなかったのだ。

「遊馬には『預かる』から5日後にもう一度俺の所に来いと、そう伝えた。」

 現在顧問が病気療養中のため、部長と副部長の二人が部を取り仕切っている。

「私は、あの勝手すぎる行動、ちょっと許せないです。」

 女子の副部長は不満げに言葉を漏らし、部長が宥めようとするのを察して遮った。


「確かに、先日の大会はダメでした。それを彼だけの責任にするつもりはないです。けれど、選ばれて、皆の期待を背負っていたのをあっさりと裏切った。そこは許せない。」


「私が遊馬に言い過ぎたから‥」

 しょんぼりと七海が声を漏らす。

「だからといって極端すぎるのよ。ナナが言いたくなる気持ちも分かるもの。きっと私も同じように責めたと思うわ。」

 先輩は優しかった。時に厳しいことは言うが、それだけではなくきちんと寄り添ってくれる。だからこそ部員たちも顧問不在でありながら、部長と副部長を信頼して落ち着いているのだ。


「私も『辞めさせるべき』とも考えたわ。でもね、部長に怒られたの。だから5日後、お互いに頭が冷めたところでもう一度話すことにしたのよ。」

 副部長がそう言うと、部長も大きく頷いた。


「ナナもまだ落ち着けないだろう?射で落ち着いてもいいし、少し休んでもいい。五十嵐に会っても、冷静に話が出来ないと思ったら距離を置いて欲しいんだ。」

 部長はそう言い、七海はゆっくりと頷いた。

「ありがとうございました。」

 一礼してその場を離れる。弓を持つ気にならず、その日はそのまま帰路についた。

 まっすぐに帰る気にもなれず、七海は近所の遊水地に足を伸ばした。一人になりたいとき、何かを考えたいとき、湧水地の水面を見つめているのが好きだったからだ。


「どうしたらいいんだろう‥」

 七海は独りごちてため息をついた。いつもは何かと声をかけてくる妖たちも、今日は珍しく姿を見せない。


 日差しを浴びてキラキラと輝く水面も、何かを教えてくれるわけではない。遊馬に会った方が良いのか、会わない方が良いのか。話をすべきかせざるべきか、それすらも分からなかった。

 水辺に座り込み、ただただ困惑と焦りの迷宮に入り込んだまま、七海は出口を探してぼうっと時を過ごしたのだった。




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