第十六章:侵入者の檻(インベーダーズ・ケージ)-2
その日の夕暮れ。
アーガスは居間に戻り、本を読むことで考えないようにしていた。
『孤山千年史』を開くが、目が滑って内容が入ってこない。
頭の中では、工房の扉が閉まる映像が何度も繰り返されている。
ふと視線を上げた時。
部屋の隅にある、焼却用のゴミ箱が目に入った。
本来そこにあるはずのない、青銅色の金属の輝きが、紙屑や果物の皮の隙間から見えた。
彼は眉をひそめ、ゴミ箱を漁った。
出てきたのは、珍しい鉱石だ。表面が星屑のように煌めいている。
そこには添え書きが結び付けられていた。
構造学の先生、『砕顎』・グラベルの力強い筆跡。
『トールへ。素晴らしい回答への報酬だ。引き続き精進せよ』
紙の端は、怒りに震える手で握り潰されたかのように折れ曲がっていた。
先生からの……報酬? なぜこんな所に?
アーガスの心臓の鼓動が早くなる。
彼はゴミ箱の底へ手を伸ばし、さらに奥を探った。
底から出てきたのは、数枚の羊皮紙の残骸だった。
鉱石と絡まり合い、端が丸まり、脆くなっている。
まるで、激しい怒りと無力感に苛まれた手によって、徹底的に引き裂かれたかのように。
彼はその破片を手のひらに乗せた。
一目で分かった。
あの日、彼が「ついで」に解いた、あの「回答の下書き」だ。
台形ホゾと弾性留めの図面の一部が残っている。線は相変わらず正確だが、紙は無惨に引き裂かれている。
言いようのない不安が胸をよぎる。
これはただの紙ゴミではない。
粉々になった「希望」の残骸だ。
彼の指先が、最も大きな断片を撫でた。
その箇所だけ、紙が硬く、波打っている。
微かだが、何かが滲んだ痕跡。
水滴……?
指先がその乾いた痕跡に触れた瞬間。
微弱な魔力の揺らぎを感じた。
彼は目を閉じ、細い魔力の糸を探針のように痕跡へと染み込ませる。
これは降霊術ではない。「分析」だ。
紙の繊維の歪み、塩分の結晶、その液体が蒸発する瞬間に焼き付けられた強烈な感情の波。
それら全ての物理的な証拠を、彼の頭脳が瞬時に組み合わせ、当時の光景を逆算する。
映像が脳裏に浮かぶ。
深火溶院の教室。
ドームに響く『トール・アイアンソーン』の名。
砕顎先生の雷のような称賛。「正真正銘の天才だ!!」
四方八方から突き刺さる、焼け付くような視線。
賞賛、嫉妬、驚愕。
その中心で、トールは磔にされている。
顔は真っ赤になり、頭を垂れ、机の下で拳を握りしめている。爪が肉に食い込むほどの強さで。
震える肩に乗っているのは、名誉ではない。形を持った「屈辱」だ。
そして。
ポタリ。
虚空から温かい液体が落ち、羊皮紙に小さな染みを作る。
バッ!
アーガスは反射的に手を引っ込めた。焼けた鉄に触れたかのように。
彼は呆然と、手のひらの上の紙切れを見つめた。
その乾いた染みは、まだ熱を持っているように感じられた。
水ではない。
それは……涙だ。
氷のような後悔が心臓を鷲掴みにし、握り潰そうとする。
彼は忘れていた。
トールはまだ十六歳の、プライドが高く、そして脆い少年なのだということを。
対して自分は?
数十年の知識と経験を隠し持った怪物だ。
これは競争ですらない。圧倒的な戦力差による一方的な暴力だ。
そして自分は、それに気づきもしない「加害者」だったのだ。
雷に打たれたような衝撃。
彼は自分が、この家族の中で「浮いている」異物だと思っていた。
だが、事実はもっと残酷だった。
自分は異物ではない。
「侵入者」だ。
異世界の知識という猛毒を抱えて入り込んだ、異物。
彼の悪気のない「知識の披露」の一つ一つが、この家族の絆を切り裂くナイフだったのだ。
戦斧を目覚めさせ、家族に未知への恐怖を植え付けた。
答えを書き殴り、兄の最後のプライドを粉々にした。
この痛烈な自覚。
彼は初めて、この家における自分の本当の立ち位置を理解した。
愛される末っ子ではない。
無自覚な破壊者。
アーガスはゆっくりと立ち上がった。
手から紙片が滑り落ち、ゴミ箱の横に散らばる。
彼は後ずさりした。
一歩下がるたび、見えないガラスの破片を踏んでいるような痛みが走る。
居間の中央まで下がり、部屋を見渡す。
サラの編み物籠。ブレイクの使い古した鉄のカップ。そして、トールが置き忘れたあの小槌。
見慣れた物たちが、今は別世界の遺物のように遠い。
彼らの世界は温かく、完結していた。
自分こそが、そこに生じた致命的な亀裂なのだ。
彼は背を向け、自室へと歩いた。
冷たい鉄のドアノブを握る。
最後にもう一度、居間を振り返る。
サラは編み物に没頭し、火光がその疲れた横顔を照らしている。ブレイクは窓辺でパイプを燻らせている。
彼らは気づいていない。
彼らの息子の、彼らの弟の心の中で、静かな崩壊が起きていることに。
カチャリ。
彼は静かに、そして決然とドアを閉めた。
アーガスは冷たいドアに背中を預けた。
部屋には本や図面が散乱している。
かつては真理への翼だと思っていたそれらが、今は違って見えた。
これらは彼を家族から隔離し、自分を閉じ込めるための、鉄格子の檻だ。
知識は翼ではない。
背中にのしかかる、逃れられない呪いの鎖だ。
彼はズルズルと座り込み、床の上で膝を抱えて丸まった。
視界が滲む。
(いっそ……石になりたい)
言葉を持たず、考えず、ただそこに在るだけの石ころになれば、もう誰も傷つけずに済む。
(僕は……彼らの『家族』じゃなかったんだ)
静かな部屋。
六歳の子供の体の中で、大人の魂が叫んでいた。
彼は自分の存在理由を疑い始めていた。
自分はこの世界にいていいのだろうか?
その底なしの孤独感は、どんな肉体の痛みよりも、深く、鋭く、彼を苛んだ。
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