第十六章:膠(にかわ)-2
アイリーンはドアを押し開け、彼を食事に誘おうとして――敷居の前で立ち尽くした。
部屋の中の光景に、息を呑む。
壁一面に張り巡らされた羊皮紙。そこには迷路のように複雑な魔力回路図が、定規で引いたように正確に描かれている。
床の隅には、ねじ曲がった金属片と、焦げた魔晶石の山――無数の失敗した実験の残骸。
そこは八歳の子供部屋ではなかった。
知識と論理で壁を築いた、孤独な城だった。
おもちゃはない。絵本はない。
アイリーンには意味の分からない、記号と数式の羅列だけがある。
彼女の笑顔が強張る。理解できないものへの不安がよぎる。
だが、彼女は何も言わず、弟の手を引いた。
「行こう! ママがご馳走を作ってくれたわよ!」
努めて明るく振る舞いながら。
夕食の時間。
食卓は、見えない戦場と化していた。
サラの強い頼みで、トールは渋々工房から出てきて、テーブルの端に座った。視線は膝の上に落としたままだ。
全員集合。サラが企画した「仲直りの晩餐」の始まりだ。
ブレイクは上機嫌で、一番大きな肉の塊をフォークで突き刺し、トールの皿に放り込んだ。
不器用な父親なりの愛情表現。
「食え、トール! 今日は疲れただろう! お前の打つ音を聞いていたが、俺の若い頃の七割くらいの力は出ていたぞ! その調子なら、数年で俺を超える職人になれる!」
その褒め言葉の一つ一つが、見えない針となって、トールとアーガスの心を同時に突き刺す。
トールは黙り込んだままだ。
父の言葉に対し、何の反応も返さない。
その瞳は魂を抜かれたように空っぽで、ただ機械的に口を動かし続ける。まるで義務を果たすように。
アーガスもまた、自分の存在を消すように、黙々と肉を切っていた。
サラが空気を察し、話題を変えようとする。
「トール、今日はどんな作業をしたの? 何か難しいことはあった?」
「……別に」
返ってきたのは、井戸の底から響くような短い言葉だけ。
サラの笑顔が引きつる。空気が重くのしかかる。
アイリーンがそれを察知し、割って入る。
「今日ね、ギルドの任務で石の魔物に吹き飛ばされそうになったの! 間一髪で短剣で防いだけど、危うくみんなに会えなくなるところだったわ!」
彼女は身振り手振りで面白おかしく話す。
だがその笑い声は、死んだ水面に石を投げるようなものだった。波紋は広がらない。
ブレイクはトールの無反応に苛立ち、矛先をアイリーンへ向けた。
大声で自慢話を始める。
「アイリーンも我が家の誇りだ! 今日ギルドで聞いたぞ、お前は今や冒険者ギルドで一番の『売れっ子』らしいじゃないか! 街の鍛冶師たちはみんな、お前の治癒魔法に感謝してる。まさに光明神の贈り物だとな!」
バン! とテーブルを叩く。エールが跳ねる。
「それでこそだ! それでこそアイアンソーンの娘だ!」
キィィィィィィィィィ……。
トールの手元から、嫌な音がした。
ナイフとフォークの動きが止まっている。
彼が指が白くなるほど強く柄を握りしめたため、銀の刃が歪み、皿を削る不快な音を立てたのだ。
それは、この夕食でトールが発した、唯一の明確な「心の叫び」だった。
指の関節は白く浮き出し、瞳には屈辱と、姉への申し訳なさが激しく揺れ動いていた。
アーガスは頭を垂れ、溢れ出しそうな罪悪感に押しつぶされそうになっていた。
晩餐は、逃げ出すようにして幕を閉じた。
トールは誰よりも早く席を立ち、無言で工房へと戻った。
鉄の扉が閉まる音が、弔いのように響く。
ブレイクは眉をひそめる。
「あいつ、一体どうしたんだ? 最近おかしいぞ」
サラは絶望と疲労に顔を覆い、ただ黙って皿を片付ける。
深夜。
アイリーンの部屋。蝋燭の火が揺れる。
彼女は重い革鎧を脱ぎ、腕の包帯を慎重に解いた。
そこには、白い腕には似つかわしくない、酷い切り傷が刻まれていた。
傷口はまだ塞がっておらず、赤い断面がじわりと滲んでいる。
彼女は小さく息を吸ったが、痛みを無視した。
慣れた手つきで治癒魔法を唱える。
金色の光が傷口を優しく覆い、ゆっくりと傷を癒やしていく。
彼女の視線は、机の上に置かれた報酬の革袋に向いた。
窓の外では、工房の明かりがまだ揺れている。アーガスの部屋の明かりも消えていない。
彼女は独りごちた。誰にも届かない独り言。
「トールが学校に行ってくれるなら……アーガスがご飯を食べてくれるなら……」
光が傷を塞いでいく。
「来期の『竜の税』が払えて、この家がまだ『家』の形でいられるなら……これくらいの傷、安いものよ」
その言葉は祈りのようであり、同時に疲れ切った溜息のようでもあった。
彼女の献身こそが、このバラバラになりそうな家族を繋ぎ止める、唯一の「膠」だった。
窓の外は真っ暗な闇。
屋根の下では四人が、それぞれ別の世界で眠りにつく。
同じ家に住んでいても、心は遠く離れたまま。
明日はまた、太陽が昇り、同じ一日が始まるだろう。
アイアンソーン家の物語は、まだ終わらない。
壊れかけたままで、生活は続いていく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
台湾出身の作者です。
職人が伝説級の道具を鍛え上げるためには、
技術だけでなく、赤々と燃える「炉の火」が不可欠です。
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それでは、次の章でお会いしましょう!




