後編
次の日、朝起きると彼は神妙な顔で今度こそ彼女と縁を切ってくると出掛けて行った。
正直、もう信用できない私は彼の後を付けることにした。
念のため変装をしてみた。いつも高い位置で結い上げている髪を下ろし、三つ編みを二つ作る。深い帽子をかぶり、普段はあまり着ることのない可愛い黄色いシャツと、茶色いロングスカート。
クリスは大人っぽい格好が好きらしく、これらの服は私個人が楽しむために買った、数少ない服である。
私は色々と彼が喜ぶようにと、いつの間にか私の好きなものを減らしていたんだなぁ。
そんな事実に気付いたところで、家を出た。
彼が向かったのは、この街で一番人気のある服屋。
窓から見えるのは、見覚えのある綺麗な女性。どうやら彼女はこの店の店員らしい。
私はあそこの服は二度と買わないと、心の中で固く誓った。
向かいの本屋で見つからないように観察していると、彼と彼女が店から出てきた。
こっそり後をついていけば、着いたのは少しお高い飲食店。
ここには一度友人と来たことがあるが、席と席の間に他の店より比較的スペースがある。
仕切りもあるし、内緒話をするにはもってこいだ。
彼らが入っていったのを確認し、少し時間を置いて店内に入る。
「お席へご案内致します」
「あの、ちょっと訳ありなんです。あの男女の隣の席にしてもらってもいいですか?」
店員に怪訝そうな顔をされたので、慌てて言葉を付け加えた。
「あの男性の方、私の恋人なんです」
そう言うと店員は何かを察したのか、特に何かを追求することもなく、彼らの隣の席に案内してくれた。
席と席の間に仕切りがあり、私が隣の席に来たことは見えていないはず。
店員に無言でメニューの一つを指差し、店員は「かしこまりました」と言って厨房へ向かっていった。
察しのいい店員さんで助かった。こういうところもお高いメニューに含まれているのだろうか。
そんなことを考えつつ、隣の会話を聞くために耳をすませる。
しばらく静かだったが、程なくして声が聞こえてきた。
「……ごめん、サラ。もう会えない」
「なんで!どうして!?」
「君と会っていたのが、キャロに気付かれたんだ。これ以上会えば、僕はキャロと結婚できない。本当にごめん」
一応、我が恋人殿は浮気相手のサラと呼ばれた女性と別れるつもりがあるらしい。
そこは、嘘ではなかったようだ。
「彼女となんか別れて、私と付き合ってよ!」
「駄目だ、僕はキャロがいないと生きていけない。大切な人なんだ」
「なら、なんで私のこと抱いたの…?彼女の方が大切なんでしょ?どうして?」
なんと!
この二人はもうそんなところまでいってしまっている関係だったのか。
見損なったぞ、クリストファー。
「違う!どちらも大切なんだ!ただ、どちらかだけだなんて僕には選べなくて…。僕がずっと一緒にいたいのはキャロで、抱きしめていたいのがサラなんだ。…ごめん」
「なら……今のままでいいじゃない」
「え?」
え?
「私とまたきっちり別れたことにして、また会えばいいじゃない。私は結婚までは望まない。だから、私と別れるなんて言わないで。あなたが好きなの。お願い、クリス」
金糸雀の鳴くような美しい声で、私と同じ愛称で、クリストファーに甘えるようにサラは囁く。
私は、頭が真っ白になった。
「でも…」
「ねぇ、クリス。私をまた抱きしめて」
「サラ…」
「いいでしょ?」
「………前よりは、会う頻度を減らすよ。それでもいい?」
「構わないわ!ありがとう、クリス!」
クリストファーは、昔から流されやすいところがあった。
私はクリストファーに流されやすいところを直すように言ったけど、なかなか直らなくて。
いつしかそれでもいいかと、それも彼らしいかと諦めるようになった。
それが、こういう結果に繋がるなんて。
その後の二人の会話は耳に入りはするが、認識する前に通り過ぎていく。
何も考えられなくて、手が小刻みに震える。これがどういう震えなのかは、今の私には分からなかった。
「お待たせいたしました」
その声で、ハッと現実に引き戻される。
頼んだのは、ココア。
口に含めば甘さが口いっぱいに広がり、美味しいはずだった。
なのに、私には美味しく感じられなくて。
甘いのにしょっぱい気がするココアに、気付けば私はまた泣いていた。
世界一美味しい、ココアが恋しい。
一気に飲み干して、涙を拭って店を後にした。
ふらふらと歩いて辿り着いたのは、昨日お世話になったアランのお店の前。
そっと窓から店内を覗くと、真剣に靴に向き合うアランがいた。
父親が何かをアランに言い、それをアランが真剣に聞いている。
頑張ってるなぁ。
そんな風に思うと同時に、先程まで失われていた気力が蘇ってきた。
私を助けてくれたアランが頑張ってる。なら、私も頑張らなくちゃ。
なんでそんなことを思ったのかは分からないけれど、そんな風に思えたことが救いだった。
店から離れ、振り向かず、真っ直ぐに家へと向かった。
家に着くと、まず自分の荷物を纏めた。よく使う物と、お気に入りの服たち。
クリスが好みそうな服やアクセサリーは、そっと机の上にまとめて置いた。
大きな旅行用のバッグに荷物を全部詰める。幸い引っ越しを考えていたので荷物をだいぶ処分した後で、旅行用のバッグ一つに全てが収まった。
髪をほどき、洗面台で顔を洗う。最近、泣いてばかりだ。
タオルで顔を拭くと、ちょっとやつれたような顔をした、平凡な女が一人。
さっきよりはマシになった、だけど酷い顔のその女の顔を見れば、彼が綺麗な女性を愛してしまうのも仕方がないかと、そんな風に思えた。決してそれを許しはしないけれど。
ふと、笑った方がいいと言われたことを思い出し、鏡に向かって笑ってみる。
どうにも無様にしかならない。
あのニカっとした笑顔を思い出して真似てみれば、なかなかいい感じだ。
何度も私を救ってくれるあの人は、やっぱりわたしの恩人だ。
洗面台から戻り、紙を一枚と羽ペンを拝借して椅子に座る。
迷ったけれど、真っ先に思った言葉をそのまま紙へと綴った。
◇◇◇
クリストファーへ
一日考えてみたけれど、あなたとの未来が私には描けませんでした。
どうかサラさんと、お幸せに。
お元気で、さようなら。
キャロル
◇◇◇
これが、私に書ける精一杯だった。
これ以上何かを書こうとすれば、きっと彼を罵倒するような言葉しか書くことはできない。
そんなこと、私の矜持が許さない。
幼かった頃からと、恋人になってからの四年間の最後の別れは、あまりにも短い言葉で終わりを告げた。
席を立ち、住み慣れた我が家の入り口に立つ。
「さようなら。」
三年住んだこの家とも、今日でおさらばだ。
浴室の落ちない汚れと格闘することも、たまに雨漏りがして大慌てをすることも、もうない。
クリスが仕事から帰ってきて、「おかえりなさい」と言って食事を出すことも、もうない。
あまりにも長かったその時間、しかし終わりはとても呆気ない。
涙が溢れる暇もなく、たった五文字の別れの言葉を残し、大きな旅行鞄と残ったクッキーを持って愛しい我が家から、私は決別の一歩を踏み出した。
流石に新しい家は今日は見つからないだろう。
しばらくは友人のところに厄介になろう。あの友人ならば、きっと快く迎え入れてくれる。
友人宅へ向かい歩いているときに、だいぶボロボロになった自分の靴が目に入った。
いつの間に、こんなに擦り切れていたんだろう。
ふと、友人との会話を思い出す。
『最近新居に引っ越そうかって話が出てるから、少しずつ物を減らしてるの。新しい家にはいらない古いものを持ち込みたくないから』
『あー分かる!新生活を始めるなら色々新しくしたいわよね』
『そうそう!古いものとはおさらば!ってね』
そんなことを、つい昨日話していた。
「新しいもの…」
靴を新調しようと思って思い出したのは、あのニカっと笑う、気持ちのいい人。
自然と早足になり、彼のお店へ向かう。
目の前には、評判のいい靴屋さん。
靴の販売、修理などを行っているそのお店は、薄緑の優しい色合いをしている。
新生活を始めて新しく歩き出す予定の私。
新しい一歩を踏み出すなら、ここの優しい人たちの手で作られた靴がいい。
使い込まれたドアノブのレバーを動かし、そっと扉を開ける。
カランッと気持ちよく響く鈴の音は、まるで私の新生活を祝福してくれてるみたいだった。
「すみませーん!新しい靴が欲しくて来ました!」
そこには驚いたように目をまん丸くした彼がいて、すぐにあのニカっとした笑顔を見せてくれた。