友達
馬車を操っていた老人は、軽々とした身のこなしで地上へ舞い降りると、右手を90度曲げて腹部の辺りに添えた後、丁寧な会釈をした。年齢は60過ぎだろうか。すっかり染まった短めの白髪に、今時しっかりとした七三分け。シワのない黒の執事服に、気品溢れるその動作は、執事としての能力を体現していた。
「お帰りなさいませ、エルノアお嬢様」
「ただいま戻りました、グリッチャ。リノ、クーちゃん。彼はアールコート家の執事で、グリッチャといいます」
「お初お目にかかります。今し方お嬢様よりご紹介がありましたが、改めて自己紹介を。私の名前はグリッチャ・リド・ハーセル。アールコート家の執事を任されている者です。今後とも、何卒宜しくお願い致します。リノ様、クー様」
「は、はい…」
「はい、グリッチャさん!」
何とも対照的な挨拶。あまり畏まられると、むず痒くてしょうがない。家柄的には、これが正しい姿なのだろうけど…。もしあたしがエルの立場だったとしたら、別の理由で家出してそうだ。ため口でも構わないか聞こうと思った矢先、エルがあたしの肩に軽く触れて耳打ちする。
「グリッチャに対しては、砕けても大丈夫ですよ」
「…お見通しか。あんがと」
「ではお嬢様、リノ様、クー様。どうぞ、お乗り下さいませ」
グリッチャは音を立てずに馬車の扉を開けると、これまた丁寧な会釈をした。当然と言えば当然だけれど、馬は勿論、取り付けられている座席までもが高級品。敷かれている真紅の織物は、素人目で見ても価値のある物だと理解できる。ようやく身分の差を思い知ったと言うべきか、あたしは反射的に乗るのを躊躇った。どうしようかと脇目でエルの方をちらりと見ると、エルは特に気にした様子もなく淡々と座席に腰を下ろすと、外にいるあたしとクーに入るよう促してくる。
「どうしましたリノ?」
「…いや、何でも」
「リノお姉ちゃん、早く乗ろう!私、馬車に乗るの初めてで、凄く楽しみ!」
「ごめんごめん、今乗るよ」
そうだった。エルはそんな細かい事を気にする性格じゃなかったな。クーに急かされる形で馬車に乗り込んだあたし達を見ていたグリッチャは、柔らかに微笑んで静かに扉を閉め、周囲の安全を確認した後に馬を歩かせた。
「ごとごと揺れてる。ふふふっ、楽しい♪」
「ここ最近、長距離の移動はフローボードを使ってたからねぇ。こーゆーのも新鮮で良い」
「気にいってもらえてなによりです。…グリッチャ、少し宜しいですか?」
エルが外で馬を操っているグリッチャに声をかける。
「如何されましたか?」
「私が不在の間、アールコート家内部で変わりがあったのかどうかを知りたいのですが」
「特別変わった事はございません。ただ…お嬢様が家を出られてから、旦那様がより他者との接触を拒むようになりまして」
「お父様は、私に対して何か?」
グリッチャは言い淀むと、身体は前を向いたまま、頭だけをエルに向ける。この感じからして、ここで話してしまっても大丈夫なのか。…と言いたそうな様子だ。構わないと返答したエルの承諾を経て、グリッチャは咳払いをしてから続きを話した。
「パパさびしー!…と」
滅多に見れないであろう、非常に珍しい光景。どちらかと言うと突っ込み役のエルが、扉近くの壁に激しく頭を叩きつけた。耳まで真っ赤に染めて、深く帽子を被る。魔法カメラがあれば、是非とも写真に収めておきたいぐらいだ。
「えーと、エル―――」
「何も聞かないで下さい…」
「エルお姉ちゃんのお父さんって、もっと怖い人だと思ったけど…面白そうな人だね」
クーのフォローになってないフォローに、エルは沈黙してしまった。もっと大事な話が飛び出してくるかと思いきや、完全予想外だった。
「リノ様、クー様。お嬢様に代わって、私がお話を。旦那様がお嬢様を溺愛しておられるのは、先の言葉でお分かりかと思いますが…。そうなられた理由があるのです」
「グリッチャさんは知ってるんだ?」
「はい。これでも、アールコート家には50年余り仕えさせていただきました故」
「50年!?凄いなぁ」
「恐縮です。…昔から、旦那様は兎にも角にも心配性でして。何に対しても『もしも』がよぎってしまわれると、常々おっしゃられておりました。私共使用人も旦那様の未来の為、その考え方が癖にならぬよう色々と手を尽くしたのですが―――」
「駄目、だったんですか?」
「はい…。7年程前に、ついに奥様が我慢の限界だと…」
グリッチャは、至極残念そうに顔を伏せる。どうやら離婚した事が引き金になって、よりエルを溺愛するようになったんだろう。あくまで噂話に過ぎないけど、貴族というのは一般人よりも血の繋がりを求めると聞く。使用人達と信頼関係を築こうとも、心の奥底では家族と言う名の安らぎを無意識に求めるのかもしれない。だとするなら、エルが家出したと知った時は、相当なショックを受けていたに違いない。
「なるほど…ね。そりゃあ人を信じられなくなる訳だ。前にエルから聞いたけど、家を継がせるって話の実は、ただ単純に寂しかったから…なのかな?」
「おそらくは」
いつの間にか冷静さを取り戻していたエルが、あたしの仮説を肯定する。頬はまだ微かに染まっていたけど。
「だからこそ、家出したんです。いい歳なんですから、そろそろ自立してもらわないと困ります。それに…私にもやりたい事があるんです」
「やりたい事?それって何さ?」
「…秘密です」
「ケチー。ちょっとぐらい教えてくれたって良いじゃーん」
「駄目です。たとえリノでも教えられません」
「ホッホッホッ」
不意にグリッチャが声を出して笑う。嫌味気のない、純真な笑いだった。
「グリッチャさん、どしたの?」
「失礼致しました。お嬢様が、実に良いご友人を持たれたと…このグリッチャ、大変嬉しく思います」
「グリッチャ、大袈裟ですよ」
帽子の鍔を下げてしれっと言い放つエルだったけど、その声色はやや弾んでいるように感じた。普段あまり感情を露わにすることがない分、エルの態度の変化は案外分かりやすいのかもしれない。
「あ、エルお姉ちゃん照れてる?」
「そんな訳ありません」
「うっそだー。んじゃあ帽子取って顔見せてよ」
「取りませんし、見せません。それよりも、そろそろ着きますよ」
エルが小窓の外を指差すと、からかう気持ちは一瞬にして消え去った。目の前にあるその豪邸は、もはや家の概念を通り越していた。まさしく城。トルーソン国で見た城塞も大層な出来栄えだったけど、一個人が持つにはあまりにも巨大。ゆうに500人は住めるであろう特別施設…ある種のテーマパークだ。クーはあまりの衝撃に大きく口を開けたまま動かず、ただただ呆然としている。
「おーい、クーちゃーん?固まっちゃったよ」
「降りますよ。クーちゃん」
「ハッ!す、凄いしか言葉が出ないよ…。エルお姉ちゃんは本当に偉い人なんだな…って」
「だからといって、別にへりくだる必要はありませんよ」
「うん、分かってるよ。エルお姉ちゃんは、エルお姉ちゃんだしね」
「ふふっ、その通りです」
エルを先頭に馬車から降りると、地面には赤いカーペットが敷かれていた。いつの間にやら、家の入口までグリッチャが用意したらしい。長年仕えている分、心得は完璧だな。せっかくなので堂々とカーペットの真ん中を歩いて、女王様気分を満喫させてもらった。




