第11話 それぞれの十字架
文化祭まであと三日。熱気に包まれる学校の中で、藤原だけが少しずつ沈みゆく灯りのようだった。夏希は彼が笑うたびに、その目の奥にある影を見逃さなかった。
「藤原さん、少し休みませんか?」
放課後の美術室で、夏希は彼に差し出したレモンティーを受け取りながら尋ねた。他の三人は資材調達で校外に出ている。
「大丈夫です。ただ少し...」
彼の言葉が途中で止まる。手に持った書類の束が、かすかに震えている。
「ご家族と何かあったんですか?」
藤原の表情が一瞬で硬直した。彼はゆっくりとコップを置き、深く息を吐いた。
「父が...医学部進学を強く望んでおられます。しかし私は...」
「心理学を学びたい」
彼の目が大きく見開かれた。
「なぜそれを?」
「あなたが先月、図書館で借りていた本のリストを見かけました。すべて臨床心理学関連のものばかりでした」
藤原はしばらく沈黙し、そしてうつむいた。
「その通りです。しかし家業を継ぐのが藤原家の長男の務め。こんなわがままは許されません」
その時、ドアが勢いよく開いた。赤城が興奮した様子で飛び込んでくる。
「みんな!超大ニュースだぞ!」
彼の後から神崎と森川が続く。三人の表情は何かを決意したように固い。
「どうしたんだ?」藤原が立ち上がる。
神崎がノートパソコンを開いた。画面には「藤原医院 次期院長 藤原雅人氏 医学部進学内定」という見出しの記事が表示されている。
「これは...どこから?」
「うちの親父の取引先が流してきた」赤城の表情が険しい。「お前、本当は医者になりたくないんだろ?」
森川が静かにシャッターを切る。
「私たちは知っている」森川が口を開く。「お前の本心を」
「なぜ...なぜ皆まで?」
藤原の声は震えていた。夏希はそっと彼の袖に触れた。
「みんな、あなたのことを気にかけているから」
その夜、五人は屋上に集まった。肌寒い風が吹く中、藤原は初めて自分の重荷を語り始めた。
「幼い頃から、私は『藤原家の後継者』でしかなかった。趣味も友達も、すべては家の評判にかかっている」
神崎が鼻で笑った。
「馬鹿げている。お前の人生はお前のものだ」
「簡単に言うな」藤原の声には初めて棘があった。「お前たちにはわからない。すべてを与えられてきた者の責任というものが」
「違う」森川が静かに言った。「俺にはわかる。サッカーで結果を出せと言われ続けた日々のことを」
赤城も頷いた。
「俺だって、いつも明るくいなきゃって思ってた。父親のことで陰口を叩かれないように」
夏希は月明かりの中、四人の横顔を見つめた。それぞれが重い十字架を背負っている。
「では聞こう」神崎が前に出る。「お前は何がしたい?」
藤原は夜空を見上げ、ゆっくりと答えた。
「人の心の傷を癒す仕事がしたい。父のように体ではなく、心を治す医者に」
「それなら」夏希が微笑んだ。「それこそが、あなたの進むべき道です」
次の日、藤原は一人で父親の医院に向かった。他の四人は美術室で待ち続けた。
「大丈夫かな」赤城が心配そうに窓の外を見つめる。
「彼ならやれる」神崎は相変わらずパソコンに向かっているが、その手は時折止まる。
森川はカメラのレンズを拭きながら、独り言のように呟く。
「あいつ、ずっと一人で戦ってきたんだ」
夕方、ドアが開いた。疲れ切った表情の藤原が立っている。
「父が...一年の猶予をくれた」
教室中に安堵の空気が流れる。
「条件は」藤原が続ける。「この一年で心理学の分野で実績を挙げ、医学部に行く以上の価値があることを証明すること」
「それなら」神崎が画面を回した。「このプロジェクトが役に立つ」
そこには「心理トラウマ治療のための没入型VRプログラム」と表示されている。
「お前の話を聞いて、昨夜から開発を始めた」
藤原の目に涙が光った。
「なぜ...そこまで?」
「バカなこと言うな」赤城が肩を叩く。「友達だろう?」
森川がシャッターを切る。
「その笑顔、初めて見た」
その夜、夏希はスケッチブックを開いた。ページには、泣きながら笑う藤原の姿が描かれている。その横には、支え合う四人の姿。
携帯が震える。藤原からのメッセージだ。
「ありがとう。私は今日、初めて自分らしくいられました」
彼女は一粒のレモンキャンディを口に入れ、返信を打った。
「これからもずっと、あなたらしくいてください」
月明かりが優しく部屋を照らす。それぞれの十字架は軽くなったわけではない。




