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後編

「すみません、縁遠で予約しているのですが」

「えっ!?あ、はい!お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 縁遠さんの顔を見てギョッとした表情を浮かべた店員は、しかしそれでもさすがプロと言ったところか、動揺をすぐに引っ込めて縁遠さんと俺を彼女が予約していた個室の席に案内した。


 ここは駅ビルの上層階にあるちょっと高級な料理店で、ガスマスク女が待ち人だったという精神的衝撃をどうにか抑えた俺は縁遠さんに引率されるがままにやってきたのだった。


 店員さんが個室を出、ウイルス対策で透明な衝立が設置された席に向かい合って座ると縁遠さんは笑って言った。


「改めて、初めまして年初くん。私が縁遠円です」

「あ、どうも……えっと、年初元旦です。ヘンな名前ですけど、よろしくお願いいたします縁遠さん」

「フフ、ヘンな名前は私もですよ。よろしくお願いしますね」


 ぺこり、と軽く頭を下げた縁遠さんはそう言うと、ゴツいマスクを取り去って脇の荷物置きに置いた。


「あっ」

「どうかしました?」

「ああ!いえ……」


 手元にあった謎の表(塩ラーメンの食べ方が書いてある。それも結構事細かに)に目を落とし、縁遠さんの素顔が写真で見た通り、いや写真以上に可愛くて思わず声が出てしまったのをどうにか誤魔化す。


 お互いの顔をジャッジしながら芸能人の誰それに似ている、とかそういう話をクラスメイトの女子がよくしていたことを思い出したが、似ている芸能人を探すより本人が芸能人になった方が早いのではないかというくらい美人だった。いや、俺はあまり詳しくないから芸能人の水準というのがよくわからないのだが、ともかくそう思ってしまうくらいどストライク。


 少なくとも、ガスマスクの件はいったん忘れてもいい気がする。


 ちなみにコートを脱いだ縁遠さんはさっぱりとしたシャツを着ていた。この店の特性上あまり華美な服を着たくないのだろうが、なんというかそれでも縁遠さんは素敵に見える。鎖骨とか。


「このお店、本当に塩ラーメンしか出ないんですね」

「ヘンテコですよね。でもすっごくおいしくて、私はひとりでも来るんですよ」

「そうなんですか、俺もがぜん楽しみになってきました!」


 年上社会人女性とのデートで初手塩ラーメン、しかも相手側の指定というのはどうなんだろうという疑問くらいは当然あったが、そのような些細なことを気にすることに何の意味があるというのか。


 俺にとってはちょっと変だが素敵な目の前の女性との時間をいかにうまく乗り切るかというのが最重要事項であり、ガスマスクすらも遠い過去の話でしかない。一分前まで目の前にあったというのは置いておくとして。


 それからしばらくして。


「……それで私、このあいだのガチャで初めてお金を入れちゃって。でも無事引けたんですよ」

「よかったじゃないですか!やっぱ推しているキャラが当たるとモチベ上がりますよね」

「そうそう!お仕事も頑張れちゃう、っていうか」


 運ばれてきた塩ラーメンを啜りつつ、俺は縁遠さんとの会話を弾ませるのに成功していた。


 縁遠さんはスノミーでも言っていたようにいわゆるオタク趣味で、流行りものをなんとなくやっているだけの俺よりもはるかにディープな感じなのだが、ウ〇娘のキャラ育成状況とかを話してみるとアドバイスをくれたりなどニワカにもかなり優しい。


 最初はYouTubeで予習した通りに縁遠さんが話しやすいような話題に誘導しようと謀略を巡らせていた俺だったが、気がつけば向こうの方から俺が話せる浅瀬の方の話題にシフトしてくれておりフツーに楽しい会話になっていた。波長が合う、とはこういうことなのだろう。


 正直もうかなり縁遠さんを好きになっている気がするが、過去の苦い経験からか、心にストッパーがかかっているようにも感じる。なんということだ、俺。俺を阻むのは俺自身だとでも言うのか。それなんて少年漫画?


「へえ、年初くんのトレーナー名『ガンタン』っていうの?ゲームの名前で実名使ってるなんて、なんだか新鮮」

「実名は実名でも、こんなヘンな名前だともう逆にアリだと思っちゃって。いやお前のそれ本名かよ!みたいな」

「確かに面白いね、わかる。というか私もある意味そうかも」


 会話していく中で、いつしか俺たちは敬語が取れていた。それだけ打ち解けたからだろうか、ゲーム内のユーザー名の話題から自然と名前の話題になった。


「ほら、私のトレーナー名はこれ」

「『塩酸さん』……これが名前のもじりなの?」

「私の名前って全部の漢字が『えん』って読むでしょ?だから『えん』が3つで『塩酸』って感じ」

「あーなるほど!というか、縁遠さんの名前がヘンってそういう意味だったの!?」

「今更かよ!私の両親がね、なんか洒落た名前にしたいからってそうなるようにしたんだって」


 縁遠さんは腕を組んで頭に思い浮かべた両親に抗議するように頬を膨らませている。怒りを表明している彼女には申し訳ないが、なんだかプンスコと擬音が聞こえてきそうなその表情に俺の心は大変ときめいていた。


「しかも名字もヘンだし。コレのせいで学生時代は散々イジられたんだから」

「名前イジりめっちゃわかる。名前に由来されたら回避不能だから本当にやめてほしかった」

「この気持ちが共有できる日が来るとは……私のあだ名聞く?『どお』だよ『どお』!」

「どおっ」

「あ、ひどい!ヘンな名前同盟なのに笑うなんて!」


 全力のプンスコ表情で謎にかわいい響きの『どお』を連呼され、俺の腹筋は崩壊した。


 おそらくだが、彼女の学友たちもこれを見たくてそのようなあだ名をつけたのだろう。


 縁遠さんがイヤだという気持ちも大変よくわかるのだが、正直ちょっと俺にも『どお』って呼ばせてほしい。


 妙な名前で苦労したという点が共通だからか、縁遠さんも本気で怒っているわけではないようだった。


 数分して俺がようやく落ち着いたころ、縁遠さんはふぅ、とため息をつく。


「まあ、そういうことがあったの。だから年初くんも、私のことはできれば下の名前で呼んでほしいかな」

「わかったよ、ごめんね散々笑って。それじゃあ、まどか……さん」

「は、はい」


 会話の流れで下の名前で呼んでみると、俺の身体には思いがけない変化が訪れた。


 突然鼓動が速くなるのを感じる。さっきまでただ心地よく会話していただけなのに、名前の呼び方を変えるだけで自分たちがマッチングアプリを使って出会い、ここにいることを強く意識してしまう。


 円さんになら俺の名前を笑われてもいいし、名前以上のことに踏み込んでほしいとすら思える。完全に理性的な発想ではないが、鼓動が加速したのはさっきまで存在していた心のストッパーがいつの間にか外れてしまっていたからなのだろうと本気で考えてしまう。


 そして唐突に下の名前で呼んでしまったからか、円さんもなんだか表情が硬直している。彼女ははい、と返事をしてくれたが俺は会話の続きを用意していない。


 完全にやらかしてしまっている。だがいつまでもこの気まずい空気の中に佇んでいるのもなんか間違っている気がする。


 な、何か……何か言わなければ。拍動はさらにハイペースになり、頭に血が上ってまともに考えることができない。言葉を選ぼうにも、話題を思い出そうにも、ある感情が脳の大部分を占有しているのか俺が口にできそうな言葉はひとつしかなかった。


「俺と、俺と正式に、つ」


 ドガァ!と爆発音が鳴り響いた気がした。


 俺の脳内回路が爆発し、とうとう頭がおかしくなったのかと一瞬考えるも続いて鳴り響いた甲高いベルの音で正気に戻る。


「まさか火災報知機の音!?」

「ガス爆発かもしれない!年初くん、避難するよ!」


 俺が何かをする前に円さんは立ち上がった。彼女は素早くガスマスクを装備すると、テーブルに置いてあったお冷をハンカチにしみこませて俺に投げる。


「それ持ってて、煙があるかもしれない。もしそうだったら吸い込まないように口と鼻に当てて!」

「わ、わかった」

「よし、じゃあいくよ!」


 受け取ったハンカチを手に、俺は円さんと個室を出る。ちょうど店員が個室の客を確認し、避難誘導しているところだった。通路から店の外を見れば、円さんの予想通りフロアにうっすらと煙が入り込み始めているのが分かった。


「非常口はあちらです!焦らず避難してください!」

「わかった。誘導は私がやるからあなた達は早くお客さんが残ってないか確認して避難しなさい」


 円さんは店の外で非常口の方を指し示している店員にそう言ってその位置を代わった。


 何が起きているのか、なぜ彼女がそんなことをするのかわからない。


 だが言えるのは、ガスマスクをつけた彼女は最初に見た印象とはまるで別人に見えるくらい頼もしいということだ。


「円さん!円さんも早く……」

「私はもう少しこのフロアのお客さんを誘導する。年初くんは指示に従って先に非常階段から避難して」

「な、なんで円さんがそんなことを」


 俺が戸惑いを愚直にぶつけると、円さんはんー、と少し考えてから笑った。


「まあ、職務上の責務的な?さ、早く行って!煙がまわってくるかもしれない!」


 その顔は、今まで見た円さんのどの表情よりもかっこよく見えた。


 円さんの気迫のある声に俺は反射的に頷き、非常階段の方へ歩き出す。かなり後ろ髪を引かれる思いだが、今は彼女を信じるしかない。


 円形になっているフロアの少し歩いたところに非常階段はあった。列になった避難者のそばには駅ビルの職員さんが立って避難誘導をしている。俺はその列の一番後ろに並んだ。


 並んで、あとから来た他の避難者が分かるように手を振って、列の先へ行くよう誘導する。


 そりゃ正直避難した方がいいとは思う。どこかで炎が上がっているのか、だんだんと濃くなる煙を見ていると死が心臓に這い上がってくるような恐怖を感じるし、俺のこの行為はむしろ迷惑になる可能性もある。


 それでも、円さんを先に置いて出るというのはやっぱり気が引けた。


 列が短くなるのに合わせてゆっくり移動しつつ、職員さんたちと一緒になって避難誘導を続けていると息苦しさを少し感じるくらいに煙が濃くなってきた。


 俺は円さんに貰ったハンカチを鼻と口に当てる。ハンカチからは円さんの匂いがしたが、肝心の彼女本人はまだ来ない。もう列は非常階段入り口近くまで短くなっているというのに。


 そしてすぐに列に残っているのは俺と、避難誘導をしていた職員だけになってしまった。


「誘導を手伝ってくださりありがとうございました!さあ、あなたも早く!」

「ちょっと待ってください、まだ……!」

「手遅れになってしまいます!さあ!」


 職員さんが静かに、だが強く言う。そりゃそうだ、客を早く非難させるのが彼の役割なのだから。


 だが円さんがまだ来ていない。今日会ったばかりではあるが、彼女の身に何かあったのかと思うとその場を動けなくなってしまう。


 と、通路の向こう、ますます濃くなった煙の向こうに人影が見えた。円さんだ。動けなくなった店員さんに肩を貸してやっているようで、ゆっくりとこちらに歩いてくる。


 俺は息を吸うと、ハンカチをポッケに突っ込み呼吸を止めて飛び出した。もう何も考えてない、判断よりも先に足が動く。円さんに駆け寄ると彼女は驚いた表情をしたが、俺が店員さんのもう片側に肩を貸すと無言で頷き、一気に歩みのペースを上げた。


 十秒ちょっとで非常階段までたどり着くと、職員さんが防火扉を閉めようと待機していた。俺たちが非常階段に飛び込むようにして入ると同時、扉が閉まる。


「ぶはっ!あでっ!?」


 俺が呼吸を再開するべく息を吸い込むのとほぼ同時、円さんから怒りのゲンコツが下された。その意味は自分でもよく分かっているので痛みを甘んじて受け入れていると、彼女は怒りの表情を隠さないまま少しだけ微笑んだ。


「危ないから二度としないこと。でも、ありがとうね」




「円さんって消防士だったの!?」


 翌日。


 病院で念のため検査を受けた俺と円さんは煙を吸い込んでいるということもなく無事解放された。その帰り道、円さんはあの行動の理由を明かしてくれたのだ。


「引いちゃう人もいるから言ってなかったんだけどね。年末年始は幸運にも非番で。あの防煙マスクもたまたま家にあったのを持ってきてたの」

「ど、どうしてデートに防煙マスクを……」

「いやその、聞いても笑わない?」


 俺は深く頷く。すると彼女は少し逡巡した末、まあ年初くんだからいいか、と呟いた。


「家に普通のマスクを切らしてたから……時間もなかったし、初めて会う人にノーマスクってこの時期だと微妙だし」

「ぶふっ」

「笑わないって言ったのに!」

「流石にそれは笑うって。円さん、すごいなぁ本当」

「何がすごいなの!もう……」


 またプンスコとしている円さん。俺は耐えられなくなり、彼女の手をそっと握った。


「な、え?」

「円さん、せっかくだしこれから初詣に行きませんか?まあ時期的にはアレかもですが、俺の名前に免じてここはひとつ」


 淀みなく言えたかどうか怪しかったが、勇気を出して言い切った。よく頑張った俺。これでダメでも多分表彰されると思うぞ。


 いやでも断られたらちょっとこれ立ち直れないかもしれん……とかなんとか思っていると、手が握り返される感触がした。


「ま、ヘンな名前同盟だしね。行きましょうか」


 俺が自分の名前に初めて感謝した歴史的瞬間であった。

『ああ素晴らしきかな我が本名』いかがでしたでしょうか。

ここで問題ですが、この小説に『えん』と読む漢字はのべ何回登場したでしょうか?正解者はきっと表彰されることでしょう。

それではまたどこかで。

他の作品も読んでいただけると嬉しいです。

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