7 かにかくに、蟹、蟹、蟹
灼熱洞窟は、実に手強いダンジョンである。
まず第一に狭い。大の大人五人が横一列に並べば身動きが取れなくなってしまう。これだけ狭いと、長柄の武器は使い物にならない。
第二に暑い。洞窟内の至る所ある溶岩の噴出口から噴き上がるマグマが、洞内の気温を引き上げるのだ。結果洞窟内は地獄のような暑さになり、少しの動きで大幅に体力を消耗してしまう。
そして最も厄介なのは、そんな狭く暑い空間を駆け回る、人間の頭ほどの大きさの蟹の群れだ。
その蟹は肉食で、人間を見つけると嬉々として襲いかかり、骨以外の全てを貪ってしまう。動き自体はそれほど機敏でもないのだが、空間が狭いのが面倒だ。小回りの利かない大きな武器は洞窟内では使い物にならないし、かといって間合いの狭い武器では蟹に接近を許してしまう。群れなす蟹たちは天井から壁から床まで全てを駆使して迫ってくるから、素人冒険者がこの洞窟に入ればあっという間に全身を食い散らかされてしまうだろう。
こうした数々の障害の存在から、年に数十人はこの洞窟で命を落としている。それも、ペーペーの新米冒険者だけではない。ベテランですら時として、蟹の一斉攻撃に飲み込まれて命を落としているのだ。
だが、俺にかかれば――――。
◆◆◆◆◆
津波のように押し寄せる蟹の群れ。
壁自体が輝いている特殊な作りの洞窟なので、松明片手に戦わなくていいのは少ない利点だ。
まずは爆竹を投げつけて怯ませ、天井から来た数匹をささっと切って片付ける。
「オラア!」
長年愛用してきた俺の片手剣は、蟹の固い甲殻をバターのように切り裂いた。勿論俺の筋力あってのものだが。続いて、足払いで地面の蟹を一掃する。ただの蹴りで固い殻を持つ蟹を殺せるのは、灼熱洞窟を訪れる時に必ず履くようにしている、爪先に刃がついた特注品の金属靴が為せる業だ。
「ウラア!」
壁からやってくる蟹については、一旦側壁を強く叩いてバランスを崩した上で、トタタントタタンとみじん切りのように壁に刃を打ち付けて粉々にする。こうやってある程度蟹を倒すと、その体液で側壁も天井もべとべとに汚れていく。こうなると、足が短いこの洞窟の蟹は、壁面にまともにへばりつくこともできなくなるのだ。加えて地面には蟹の死体がうずたかく積もって、後続の接近を妨害する。蟹はジャンプ力にも優れないので、同胞の死体でできた壁を登るときにどうしても動きが遅くなる。
俺? 先ほどの特注靴は側面だけでなく底面にも鋭いスパイクがついているので、俺は死体だろうが体液だろうが、構わず踏みつけた上でバランスを崩さずに身動きできる。
「ッラアッ!」
前後左右上下、全てが何かしら『尖って』いるこの靴は、灼熱洞窟だけでなく色々な場所で重宝する。と言っても素人がいきなりこんな靴を使えば、歩いている時にうっかり自分の足を傷つけてしまうだろう。慣れている俺だからこそ、これを十全に使いこなすことができるのだ。
さてさて、体液と死骸が撒き散らされた床で動きを鈍くした蟹は、もはや俺の敵ではない。
ここからは靴についたスパイクで、まるで葡萄酒を作るように蟹を蹂躙していく作業が始まる。とはいえ足だけでは完全に仕留めきることは難しいので、細い鉄パイプを一本ずつ両手で持って、それを地面に叩きつけることで攻撃面積を補っていく。
「死ね死ね死ね死ねェ!!」
蟹の体液は独特の匂いがするが、それほど悪臭には感じない。山奥の洞窟に生息する蟹であるにも関わらず、何故か磯っぽい匂いだ。ひょっとして、これを香料にして匂い消しに使うこともできたりは……いや、ないか。そもそも素人が浅知恵で余計なこと言わない方がいいよな。
◆◆◆◆◆
「ふぅ……」
そして三十分ほど、やってくる蟹たちを次々始末していった結果、蟹の死体で一つの山ができあがった。蟹が来る気配もなくなったので、俺は剣を鞘に収めて、後ろにいるフランの方を振り向いた。
「これで大体終わった。今日のうちは、蟹の接近に怯えなくても済むと思う。さあ先に行こ――――フラン?」
フランはその場で気を失っていた。
「フラン!? 大丈夫か!? フラン!? フラァァァァァン!!」
「うっ、ううっ……」
それからフランが目を覚ますまで十分ほどかかった。
◆◆◆◆◆
「ごめんなさい、まさかあそこまでグロテスクな光景が広がるなんて思ってもいなかったから……」
確かに、黙々と積まれていく蟹の死骸の山積みというのは、いささか刺激的すぎたかもしれない。でも、そんなこと言ってたらA級以上の危険区域でやっていくのは大変だと思うけどな。
「……それにしても、本当に強かったのね、メルヴィン。私びっくりしたわ」
「本来の戦い方は足で稼いで中長距離で立ち回るやり方だから、この洞窟ではまだ全力を出せないんだけどな」
「重装歩兵なのにそんな機動的な戦い方をするの……?」
良く言われる。
「色々あって、鎧をつけたまま行動することが多かったからな。一応フルプレートの重たい鎧なんだが、最近じゃ全然重さを感じなくなってしまったくらいだ」
「……半分人間辞めてない?」
「冒険者の上位陣は皆そんなようなものだろ。俺よりもっと凄い奴だっている。奴らが人間を辞めてないなら、俺だって辞めてないさ。さて、立てるか? 前に進むぞ」
俺はフランに手を差し伸べたが、彼女はそれを取らずに自分の足で立ち上がった。
「平気よ。だけど進んでも大丈夫? また蟹が襲ってきたりしない?」
「この洞窟に住んでいる蟹は臆病で慎重だ。集団で動くのも、獲物を確実に仕留めるためと、できるだけ死亡する可能性を減らすため。それに、同胞が大虐殺されたときは天敵の襲来を悟って、しばらく隠れ潜んで出てこない習性も持っている。これだけ蟹の死体を積んだ以上……少なくとも今日いっぱい……奴らが俺たちの前に現れることはないだろう」
「……へえ……よく知ってるわね、そんなこと……」
フランは感心したのか、俺に拍手を送ってきた。よせやい、照れるじゃないか。
「この洞窟には、何回も来てるからな。ほら、ラヴァクリスタルって聞いたことないか? 溶岩の中に埋まっている、黒くて透明な宝石のことを」
「あー、聞いたことあるわ。一粒売れば一ヶ月は遊んで暮らせるって言うわよね」
「金に困ると、俺たちは頻繁にそれを採取しに来ていたんだ。溶岩の中に手を突っ込んで……」
「……ええっ!?」
フランが素っ頓狂な声を出したので、俺は慌てて訂正する。
「ああっ! いや、俺じゃないぞ! 仲間に、異常に肉体が丈夫な奴がいて……そいつは、溶岩の中に手を突っ込んでも軽い火傷程度で済んだんだよ! しかもちゃんと治療していれば、次の日にはその火傷も治ってたりしたし」
その異常に丈夫な奴というのは、旧パーティのリーダーだったローレシアだ。女だてらに屈強な肉体を持っていた彼女は、かつてのパーティでは俺と双璧を張っていた。以前フランに、チーム内最強だったと伝えた俺だったが、ひょっとするとローレシアには負けるかもしれない。技術的には俺の方が勝っているはずだが、肉体強度はローレシアが遥かに上回っていたから。
「……そ、それはまた超人ね」
ああ、超人。確かにその言葉が正しいだろう。あれは、体の構造からして常人とは一線を画する存在だった。
そういえば、ルシウスは俺とローレシアの名誉のために話せないと言っていたけど、口臭が原因だとしたら、一体ローレシアの名誉と何が関係あるって言うんだろうか。……考えても仕方ないか、過ぎた話だからな。
「でもその割に今はあんまり豊かじゃないみたいだけど、どうして? ラヴァクリスタルを山ほど採取できるなら、屋敷持ちになっていてもおかしくないのに」
「山ほどって言っても、ラヴァクリスタルは総量からして少ないから、一日探しても精々十個手に入れられるかどうかだからな。それにラヴァクリスタルの取り分は共有だったけど、一番辛い思いをするローレシアがその殆どを使い潰してしまったし、残った分も他の奴らが自分の装備を新調するために使ってしまうので、俺の手元には殆ど残らなかった。あいつらいつでも、最新の装備に身を包んでやがったからな」
「……」
「はっ」
気付けば、俺を見るフランの目が憐れみに満ちていた。
「……ああいや、愚痴とかじゃないんだ。別に俺は、日頃から金を必要としてなかったしな。パーティにいる頃は、食べていければそれ以上何も望むことはなかった。俺は、仲間が幸せそうにしている姿を間近で見られたら、それだけで幸せだったから……」
「で、その仲間に裏切られたと……」
「……うっ」
気まずい空気が流れる。ああもう、こんな話をしたかったわけじゃないのに。
「ともかく、先に進もう。洞窟の中は暑いから、あまり長居すると体に堪える。まあ、あと半日くらいは大丈夫だけど……」
「……その前に、ちょっと待って」
フランが俺の籠手を掴んだ。かと思うと、背中に冷たい感触が広がる。そして次第に、鎧の中が洗い立てのシーツのような匂いで一杯になって、磯臭い香りがしなくなった。
「今、何かかけた?」
「ええ、香水をちょっとね。少しだけど消臭作用もあるわ。いくら普段丁寧に扱っているといっても、これだけ体液を浴びれば鎧に匂いが移ってしまうでしょ? 少しは気分も良くなると思うわ」
確かに、爽やかな匂いが鎧の中を吹き抜けて、快適になったかもしれない。
「こんなことくらいしか、私にはできないから」
背中越しにも、フランの表情の陰りが伝わってきた。声が沈んでいたからだ。
ひょっとして、俺の一騎当千ぶりは、かえって彼女の自尊心を傷つけてしまったりしただろうか? い、いや、流石にそこまで彼女はネガティブじゃないだろう。俺は俺に出来ることをやる、彼女は彼女にできることをしてもらえればいい。役割分担とスペシャリズムは、互いの尊重と協調のために必要不可欠だ。
思えば前のパーティは原則役割分担も何もないままに、それぞれが好き勝手なことをやるばかりのパーティだった。裏を返せばそれは、パーティの誰が抜けても、穴埋めはいくらでも利くということ。その意味では、口臭で切り捨てられても仕方がなかったのかもしれないな。
だからって、見切られたことを全て許せるかというと……それはまた、別の話だけど。
◆◆◆◆◆
その後、俺たちはあっさりと洞窟を踏破してお目当ての最深部にまで辿り着いた。道中は至って平和で、蟹を殲滅した後はどんな危険にも巡り会わなかった。とはいえ、二人パーティは何かあったら本当にまずいから、これくらい余裕がないと安心できない。
「地図もなしに、迷わずここまで辿り着けるなんて……本当に洞窟内部のことを暗記してるのね」
「そりゃ、もう何十回ときてるからな。地形が変わるタイプのエリアじゃなかったのも幸いした。と言っても、この部屋には一回くらいしか来なかったけど……」
洞窟の入り口は東端。西端にあたるこの部屋は、洞窟全体の中でも到達難度が最も高いうちの一つだろう。その割に、噴出口もなければ分かりやすい高級素材も手に入らないので、旨味がないと思って俺たちは初回以後ずっとこの部屋をスルーしてきた。
「しかし、こんなものがそれほど価値がある素材だったとは知らなかったぜ」
俺の視線は、最深部の部屋の更に一番奥、壁面にへばりつくように並んでいる、人の背丈ほどの真っ黒な木々に注がれていた。上から下まで、漆並みに真っ黒な木々は、まるで炭になっているよう――――否、本当に炭になっているらしい。
「『漆黒炭木』。この高温乾燥の環境でも生息できる、『生まれついて炭の状態で、枯れたまま生長し種子を蒔く』不思議な木。炭に脱臭の効果があることは、知ってるでしょう? 生まれつき『炭』なこの木を更に燻して炭にすることで、そこらの脱臭剤じゃ相手にならないほどの脱臭効果をもたらすことができるわ」
フランがぺらぺらと蘊蓄を語る。詳しいことは分からないが、とにかくこの木が上等な脱臭剤になるということは分かった。
「逆に言うと脱臭剤くらいにしか使えないから、ここまで危険を冒して手に入れる価値もないし、需要も少なくて市場に全く流通してない。実際貴方の口臭ほどえげつない脱臭対象って滅多にないし」
俺の口から出ていた悪臭は、世界に類を見ないほどのものだったのか……。
「これを切り出して持って帰りましょう。私が削るから、貴方は背後から何か襲ってきたりしないように見張ってて?」
そう言って、フランは手元から小指ほどの小さい刃物を取り出した。
「俺も手伝おうか? 刃物ならもう少し刃渡りが長いものを沢山……」
「駄目よ、蟹の体液でべとべとな刃物なんか使ったら、折角の高級素材が劣化しちゃうわ。それに繊維を傷つけないように気を付けて剥がさないと、道中で勝手に匂いを吸って効果が弱まっちゃうし」
なるほど……色々管理が難しいんだな。こういうことは、肉体派揃いの旧パーティでは学べない話だった。それでいくつもの高級素材を駄目にしてきた記憶がある。
「凄いな……」
「……えっ?」
「いや、流石は香料術士、もとい調合を生業にしてるプロなだけのことはあるなあと思ったんだよ。素材を大切に活かすことに関しては抜かりないんだな」
俺がそういうと、フランは震えながら顔を背けた。
「……当たり前でしょ、それが仕事なんだから! それすらできなかったら、本格的にただの役立たずじゃない」
それもそうか。素人考えで褒めたところで本職ならばできて当然の話であって、無闇に褒めちぎるのはかえって失礼なことなのかもしれない。
「……ったくもう、隙あらば忌憚なく褒めてくるんだから……」
フランが何かぶつぶつと続けていたが、そっちははっきりとは聞き取れなかった。
いや、しかし、香料術士なんて珍妙な職業だと侮っていたが、決してそんなことはない。尊敬に値する職業だ。世の中には、他にもフランのようにニッチ職業を背負って、必死に町々を巡っている求道者がいるのだろうか。口臭が治ったら、彼女のような物知りとパーティを組んで、低級エリアをのんびり旅するのもいいかもな。
俺がそんなことを考えているうちに、フランの採集は終わったらしく、三つの採集箱には炭木がぎっしり詰まっていた。でも、箱自体はまだ四つほど残っている……。
「……折角灼熱洞窟の奥深くまで来たんだ。他に手に入れたいものとかないか?」
俺がそう言うと、彼女は遠慮するように顔を背けた。そういう気遣いは
「まだ体力的には余裕がある。滅多に来るような場所じゃないし……それに、もうしばらく活動を続けるなら、共有の資金が欲しいところだろう?」
「……!」
だから、もう一歩押してみた。彼女は困ったような顔になって俺から目を背け、しばらく何かを考えていた。そして、やがて恐る恐るこっちを見て――――
「そ、それじゃ……ちょっとだけ、いいかな? 実は他にもいくつか気になっていた素材があったの……!」
なんて、言ってくれたのだ。
「ああ、行こう」
その後俺たちは鉱石や羽虫のエキス、苔などを採取した上で、意気揚々と帰還した。行きはよいよい帰りは怖い、とは言うが、帰り道も至って平和に終わった。強いて言うなら、洞窟内に住み着いている隻眼のお化け熊と遭遇したが……俺と目が合った途端、嚆矢のように鳴きながらどこかへ飛んでいった。以前に旧パーティのメンバーと一緒にボコボコにしたのを、今でも覚えていたんだろう。
フランは逃げていく熊を指さしながら唖然とした顔で説明を求めてきたが、流石にはぐらかしておいた。
◆◆◆◆◆
町に戻った後、取った素材のうちいくつかをフラン馴染みの素材屋に回したら、二人がしばらく暮らしていく程度の稼ぎにはなった。これでしばらくは、生活を切り詰めないで済むだろう。
……だが、今回の探索の目的は、食い扶持を稼ぐことではない。俺の口臭を消すことだ。そのために俺たちはリスクを承知で二人パーティを敢行したんだし、結果が出てくれないと困る。
その第一弾である漆黒炭木が、あわよくば一発で口臭を直してくれますように―――――そう願いながら意気揚々と待機していた俺だったが、フランが持ってきたのは脱臭剤ではなく二枚の地図だった。
「炭を脱臭剤に加工するのには時間がかかるわ。確実に消せるとも限らないし、他の二つも済ませてしまいましょう」
「……そうか、分かった」
どうやら、口臭排除はもう少しお預けらしい。俺は黙って兜の緒を締め付けた。