14 ド変態と愛と友情の終着点
……
…………
…………………あれ?
消えると思った意識が、鮮明に残っていた。むしろほんの少し前に比べて、気分がすこぶる良くなっている。何故だ?
――――ああ、そうだ。香りだ。先ほどまで漂っていた悪臭は全く感じられなくなって、代わりに香しい芳香が俺を包み込んでいる。頭痛が取り払われ、むしろ俺の五体は興奮するような熱気に満ちている。いける、これなら行けるぞ。手足も動く、いつもより元気だ! 俺は大槍を振るって、迫る大首を一つ切り落とした。
「ギャウアアアアアア!!」
これで残る首は一つ。いよいよチェックメイト……ローレシアを助け、こいつのエキスを採取する一歩手前までやってきた。しかし、この芳香はなんなんだろう。嗅いだことのない香りだ。この一ヶ月、あれだけ彼女に色々な香りを嗅がされたのに、似ているようで――――……と、ここで俺の脳裏にあるものの存在が思い出される。まさか……
俺は思わず、フランの方を振り向いた。
「……」
彼女は、俺のすぐ後ろにいて、小瓶の口を俺に向けたまま微笑んでいた。その瓶は、以前見た『マスターピース』の小瓶。普通の瓶よりずっと豪奢なその瓶は、すっかり空っぽになっていた。まさか彼女は――――その瓶の中身を使ったのか。俺に。それをぶちまけて? それで俺の意識を覚醒させたというのか、彼女は!?
なるほど確かに、並の香水ではラフレシアの悪臭に打ち勝てなかっただろう。変に混合してより気持ち悪い匂いを生み出してしまったかもしれない。だが、香料術士の最高傑作たるマスターピースならば。高級素材を惜しみもなく使った、最高ランクの香水ならば。今彼女が実演して見せたように、ラフレシアの匂いにも負けずに芳香を振りまくことが出来るだが、それの意味することは――――。
「お前……それを使って……使ってしまったのか……?」
「……昔、香術の先生に教わったわ。このマスターピースは貴方の香料術士としての誇りを表すものだから、大事にとっておきなさいって。――――でも、然るべき時が来たならば、惜しみなくそれを使いなさいって」
「……」
ヒュドラの苦しみ悶える声が聞こえる。いつまでも目を逸らしてはいられない。俺はフランに背を向け、警戒態勢を取り戻した。フランはその上で会話を続けた。
「多分先生は、私が都で化粧品の店でも開いて、その後で貴族のお坊ちゃまにでも娶られる未来を想像していたんだと思うわ。然るべき時っていうのは、結婚式の日のことかしら?」
……俺のせいだ。俺のせいで、彼女は大切にしていたマスターピースを使わざるを得ない状況に追い込まれてしまったんだ。俺がもっとしっかりしていれば。奴に臭気を出させる暇を与えなければ、ひょっとしたらこんなことにならずに済んだかもしれないのに。そんな俺の心の動きすらお見通しだったのか、すぐに背後から、彼女のしかり飛ばすような声が響いてきた。
「……でも、私は後悔してないわ! 私がここで、ラフレシアの悪臭に強い香水を持っていたから! だからこそ私は、戦場でも初めて、貴方の役に立てたんだから!」
――――っ! 思えばそうだった……フランはずっと、戦場で自分が役に立てないことを思い悩んでいた。だから彼女は、ずっと探していたんじゃないだろうか。ここぞという場面で、マスターピースを使える機会を……。
「でも、やっぱりマスターピースを消費したことにはそれなりのショックもあるんだから――――」
彼女は一瞬言いよどんで、それから今までで一番大きな声で叫んだ。
「だから、責任取りなさい!」
――――! フラン、まさかその言葉の意味って……
「必ず勝つの! 勝ってローレシアさんを助け、エキスを手に入れなさい! もし負けたりしたら、許さないんだからね!」
……あ、はい。まあそういう意味だよな。いや、がっかりするようなことじゃない。これは十分に喜んで良いことだ。十二分に誇っていいことだ。彼女は俺に、彼女の誇りを托してくれた。だったら俺は、俺は!
「ああ! 必ずお前の思いに応えて、この怪物を撃ち破る!」
漲るような元気が出てきた。もう何にも負ける気がしない。
「――――一つだけ聞いて良いか? フラン、お前の声は割と元気そうだけど……この匂い、平気なのか?」
俺が聞くと、フランはくすくすと笑った。
「何言ってるのよ。私、ここ一ヶ月あれだけ貴方の口臭を嗅がされたのよ? あれくらい……」
まさか、強い臭いを嗅ぎすぎてついに鼻がおかしく……
「……我慢できるわよ。臭くて臭くて仕方ないけど、それでもこのくらいではへこたれないわ!」
……というわけではないようだ。良かった、それなら安心だ。
「――――そうか!」
俺は、その場で勢いよく跳躍した。狙い目はヒュドラが残した最後の首。飛び上がった俺に、ヒュドラはうねりながら迫ってくる。空中なら動きが取れず、討ち取るチャンスだと思ったのだろう。だが、俺を舐めるなよ。俺はメルヴィン・スペンサー。熟練の重装歩兵。しかもそれだけじゃない、今の俺には――――フランセット・アレグレから勝利の加護も授かっているんだ!
「うおおおおおおっっっ!!」
俺の槍は、ヒュドラの脳天に突き刺さった。奴は悶えのたうちながら、すぐにぐったりとその場に沈んだ。ラフレシア・ヒュドラは一つでも首を残していれば一日程度で完全に蘇る化け物だ。しかし全ての首をその場で殺してしまうことさえできれば、それ以上粘られることはない。死の潮流が全身に回ったのか、やがて胴体もぐったり崩れて、胴体中央にある捕食口からルシウスとローレシアが排出された。
「……うっ、あっ、うっ……」
ルシウスの方は、色男が台無しになるほど表情をねじ曲げながらその場でじたばた苦しんでいた。臭気弾を直撃したのだ、無理もない。ましてこいつが囚われた捕食口は、ラフレシア・ヒュドラの臭いの源泉たる匂い袋のすぐ傍だ。フランのマスターピースも使い切ってしまったことだし、しばらくそこで苦しんでもらうしかないな。まあ、こいつは良いとして……問題はローレシアだ。彼女の体を見た限り、外傷らしきものは何一つ見当たらない。それ自体はいいことだが……
「ううん~……むにゃ、むにゃ……」
……なんでこいつ、すやすや寝てるんだ? いや、なんで寝れるの……? 捕食口の中、とんでもなく臭いはずなんだけど……。
「むにゃむにゃ……臭いけど……気持ちいい~……」
そして聞こえてきたのは、耳を疑うような寝言。寝言言ってんじゃねえとはこのことである。いや、今思えば最初からおかしかった。何故ローレシアが一人だけラフレシア・ヒュドラに襲われたのか。そもそもラフレシア・ヒュドラは消極的なのに、どうしてローレシアは襲われたのか。更に、臭いけどがどうとかこうとか……。
俺は思わず、ローレシアの胸ぐらを掴んで持ち上げた。こいつ、いくら丈夫だからってまさかとは思うが……
「……んにゅ? あれ? なんでメルヴィンがここに……」
胸ぐらを掴まれたことによって目を覚ましたのか、ローレシアは平然としながら俺に顔を合わせてきた。
「――――お前まさか、自分からラフレシアに食べられに行ったんじゃないだろうな」
「ふへっ!?」
凍り付くローレシア。顔からびっしりと汗を垂れ流し、そっと目を逸らそうとする。俺は思わずその場でがっくりと項垂れた。なんだよ、それ……どういうことなんだよ、さっぱり分かんねえよ……!
「お前の為に、皆で苦労して助けに来たんだぞ! なのにお前は本当にもう……ああっ、何言ってるんだよ!? 馬鹿野郎!」
疲労とか臭気とか、失望とか諦観とかそういう色々なものがぐちゃぐちゃになって、俺は八つ当たり気味にローレシアに当たり散らした。 いや八つ当たりじゃないな! 正当な怒りだよな、これ!
するとローレシアは涙目になって、逆に俺に噛み付いてきた。
「……しょうがないじゃんっっ!! だって、だって、だって! 全部メルヴィン、君のせいだったんだよ!」
……俺のせい? ラフレシアに飛び込んだのが? なんで? これこそ八つ当たり、というか逆恨みもいいところだろ。ローレシアは何を言っているんだ? まさか本気で、こんな無茶苦茶な主張を押し通せるとでも思ってるのか?
「君がさあ! 僕に口臭を嗅がせまくるから……だから、だからぁあああ!!」
何が言いたい? 何を言わんとしているんだこいつ? 俺は混乱して、目をひたすらに瞬かせた。ローレシアはもうやけくそと言わんばかりの勢いで――――
「……目覚めちゃったの! 臭い匂いフェチに!」
とんでもないカミングアウトをぶちかましてきた。……俺の肩から、すぅ、っと力が抜けていく。ああ――――なるほど――――ルシウスが俺を追い出すときに言っていた意味が、やっと分かった。ローレシアの尊厳に関わることとは、つまり――――彼女が口臭フェチに目覚めてしまったということを隠すためだったんだ。……でも、待てよ? それならそれで、別の疑問が浮かび上がってくるわけだが……。
「……じゃあ、どうして俺は追い出されたんだ? ローレシア、お前が臭いの大丈夫になったんだったら、別に俺がいたって問題なかったはずだろ。他の奴らが嫌だって言ったのか?」
俺が聞くと、ローレシアは顔を真っ赤にした。
「だ、だって、だってだってだって――――恥ずかしいじゃん! メルヴィンの口臭嗅いで興奮して息荒くしてるところとか見られたら! だから、ルシウスに頼んで距離を置いてもらえるようにしたの!」
「……!」
呆れた。全部手前の都合じゃないか。
「……でも、メルヴィンがいなくなって分かったの。もう僕、メルヴィンに身も心も奪われてるってことに気付いたんだ。メルヴィンなしじゃ生きていけないって」
凄く蠱惑的な台詞のようにも聞こえるが、蓋を開けてよく考えてもみろ、ロマンチックでもなんでもない。ただの口臭に興奮している変態女だ事実俺は、嬉しいともなんとも思わなかった。
「俺のことが気持ち悪いって言っただろうが、別れ際に!」
「あれは、メルヴィンの口臭に興奮しちゃう僕が気持ち悪いっていう意味なの!」
「分かるかそんなもん! タイミング考えろ馬鹿!」
俺はローレシアから手を離す。するとローレシアの方が、俺にそっと抱きついてきた。
「……! なんだってんだよ、おい」
「ねえ……一度は突き放しちゃったけど……僕じゃ駄目かな」
ローレシアは、上目遣いでそんなことをいきなり尋ねてきた。
「お前は……お前は何を言っているんだ?」
「……僕なら、メルヴィンの口が臭いままでも受け入れられるよ! ずっと臭いを嗅いでいたって全然へっちゃら! ううん、それどころか……気持ちよくなれちゃうくらい好き! 我慢したり、隠したりしなくてもいい……ありのままを受け入れてあげられるんだから!」
……口臭を直さなくていい。そう言って貰えたのは、素直に嬉しかった。何しろこの一ヶ月は、全て口臭から逃れるための戦いだったのだから。ラフレシア・ヒュドラのエキスを取ったからと言って、確実に直せるわけでもない。そう考えると、ローレシアの思いを受け入れるのは俺にとってもプラスになる、ように思えるけれど――――……。
「……ローレシア。お前に辛い思いをさせてしまったというのは分かった。俺にも悪いところはある」
「じゃ、じゃあっ!」
「……でも、駄目だ。俺にとって大切なことは、ありのままを受け入れてくれることよりも、自分に向き合ってくれることだったから」
恥ずかしさからとはいえ、ローレシアは一度俺を突き放した。その時点である意味、俺とローレシアが交わる可能性は俺の中で切れていたんだと思う。
「……そ、そんな……」
「悪い、ローレシア。お前だって勇気を出して、俺に告白してくれたんだろう。それは分かるんだ。でも、今お前が俺に抱いてくれている感情によく似たものを、俺はきっと別の人に抱いている」
「……え?」
良い機会だ。ラフレシア・ヒュドラを倒し、一段落付いたところだし、ここで彼女に伝えよう。俺が彼女に対して抱える、本当の気持ちを――――……。
「だから、フラン! 今ここで、俺の気持ちを伝えさせてもらいたい!」
ローレシアから離れ、振り返り、フランに近づく。願わくばあと少しだけ、マスターピースよ、その匂いを保ってくれ。俺の口臭が、彼女の顔に届かないように。
「……? 何よ……そんなに改まって――――」
話を聞いていなかったのか、フランは俺の顔を見て首をかしげる。聞いていたら、何を言われるか分かるはずだからな。まあ、聞いていてもらえなかった方がむしろいい。
「俺は、君のことが好きだ!」
フランは、驚いたような顔をした。それが喜びに近い驚きなのか、或いは真逆の感情なのかは、はっきりと読み取れなかった。だとしてもだ。はっきり言い切って、前に進む。それこそがケジメという奴だ。
「辛いときにずっと支えてくれた君が! まっすぐにぶつかってくれた君のことが好きだ! だから俺の――――恋人になってくれないか?」
彼女は顔を背けて、それからしばらく黙って考えた後……俺に向き直り、微笑んでくれた。おっ、これはもしかして、もしかするんじゃ――――
「ごめん、無理よ」
え?
「な、なんで……」
「だって貴方、口が臭いんだもの」
「……え?」
思わぬ振られ方に、俺は理解が追いつかなかった。今……それ……言う?
「……ちょ、ちょっと待ってくれ。せめてもう少し……」
おいすがろうとした俺は、思わずその場で転んでしまう。ぐにゃり。ぐにゃ、ぐにゃ、どろぉ……。おかしいな。なんだか全身の力が抜けて――――……立っていることも、ままならない……。
「話は終わり。さ、エキスを取り出してからすぐに帰りましょう」
そう言って、フランはラフレシア・ヒュドラの遺骸に近づき、鋏で匂い袋の摘出を始めた。えっ? これって、そんな事務的に流すところ?
「……」
「……」
あまりにも淡泊な彼女の反応に、俺もローレシアも、ただただ言葉を失うことしかできなかった。




