エピローグ
三年ぶりの地球、再会を果たしたリタ少年は、驚くほど凛々しく成長していた。
とはいえ、それは元があまりにも幼かったからこその驚きだ。成長してもなお、ティオドールよりも二回り小柄。あいかわらずの童顔女顔で、そこに黒縁の眼鏡なんかつけているものだから、雄々しさなどみじんも感じない。
これが俺と同い年の男かと、テオは笑って、少年のことをからかった。
少年は笑った。
「お久しぶり、テオ。何にも変わんないね」
――しれっと、幼名で呼んでくる。
テオは目を細めた。
この日本では幼名という概念はない。当然、成人をそう呼ぶのは失礼だという認識などはなく、愛称程度のつもりだろう。テオも別にそれをとがめる気にはならなかった。
(……久しぶりだな。誰かにそう呼ばれるのは)
テオはのけぞって笑った。
「おう、だけど生活は結構変わったぜ。子供できて結婚して生まれて別れたからなっ」
「え、絵にかいたようなドキュン……」
「なんだそれ?」
地球のスラングだろうか。首をかしげたテオに、リタはごまかすように笑った。
「それよりテオも、すっかり元気のようでなにより」
「リタは俺たちが地球を出たあとすぐに退院したんだろ? マジな話、心配してたんたぜ。後遺症とかなんもねえのか」
「ぜんぜん平気だよ。入院中から子供作る行為がしたくって毎日ナースに叱られてました」
リタの台詞に、テオは本気で笑った。相変わらず、見た目にあわない男子っぷりだ。同時に、テオは実際、胸をなでおろしていた。自分こそ三年前は本気で悩んだのだ。色んなことを覚悟している軍人と違い、この少年はあくまで一般の協力者。ほんとうに、無事で何より、である。
同時に、ふと、思い出す。
(……そうだ。あれが、ほんとうに最初のきっかけだった)
情けなくて、恥ずかしくて、だけどとってもいやらしくて、嬉しくなってしまう、少年の思い出。
久しく忘れていた感覚が、ふと手のひらによみがえった。
指先がそれを記憶していたらしい。
指紋の凹凸を埋める、柔らかな彼女の肌を。
テオ。
テオ。――気持ちいい。もっと触って。
「――そりゃあ、よかった。俺はディフティグに後遺症出てるって聞いて、アッ俺ってもうだめなんだーって思って、そしたら結婚することになったわ」
「なるほど」
少年とは明るく、会話する。彼は真実、ひとの心を明るくする少年だった。会話が楽しい、とテオは思った。
以前は、キリコの仲間なのではないかと疑っていた。その色眼鏡ゆえに気づかなかった、彼の能力が見て取れる。
他人との、物理的な距離の取り方が異様にうまい。
それぞれの人間がもっとも心地よく、安心しながら親近感を覚える距離に立って、ちょうど心地よい声量で話をしてくるのだ。
くるくるとよく動く目、大げさなくらいの表情で、こちらの話を遮ることなく相槌を打つ。
それでいて、自分の言いたいことは理路整然、きっちりとわかりやすく伝えられる。
圧倒的に、話しやすい。
これが、このクリバヤシリタという男の特徴だった。
(……なるほど。団長とも仲良くなれるわけだ)
そんなことを思いながら、顔を上げる。リタを挟んで向こう側に、ヴァルクス、シェノク、オストワルドの通信機までが勢ぞろいしていた。
この場所を合流地として、周りからターゲットを追い詰めていたのだから当然だが。
――しかし、そのようにした理由である、クーガ団長の姿が無い。
首を巡らせて周囲を見回す。と、黒い髪の端っこを発見。クーガは自分より二回り大きな男、ヴァルクスの背中に身を隠していた。なんで、さっさと出てこないのだろう。
自分が、リタに会いたいと言ってきたくせに。
おかげでリタはまだ、クーガの姿に気が付いていない。しかもヴァルクスまで黙って立ってるものだから、リタは騎士団の討伐対象、『バルゴ』の死骸に気を取られたままである。
もちろん、間もなく気が付くだろう。
ちょっとしたいじわるで、テオはそれを内緒にした。
この飄々とした少年の、驚く顔が見たかった。
「…………あぅ……どうしよう」
小さな声が耳に届く。
ヴァルクスの後ろで体を縮めているクーガだった。
彼は――
いや、彼女は、フゥフゥと浅い呼吸を繰り返し、足音を立てずに地団太を踏む。衣擦れもしない程度に、小さく小さく、悶えながら。
「……可愛いし、かっこよくなってる……」
テオは笑った。
つつましやかな胸に手を当てて、なにやらぶつぶつと、台詞を繰り返しているクーガ騎士団長。彼女と彼に幸あれと、ティオドールは素直に思う。
恋愛関係なのかなんなのか、まだ何も始まっていない、二人を祝う。
自分の分も、うまくいけばいいと思う。
壊れてしまったこの恋のように、ならないようにと心から願う。
――結ばれることはもう叶わない、二度と抱けなくなってしまったひとと、たった一度も、目に入れることすらできなかった二人の子供が――
自分の分も、幸福でいてくれたなら、それでいい。
ティオドールは目を閉じた。
アレイニは目を開けた。
かすむ視界いっぱいに、幼い顔があった。まだ言葉を話せない我が子が、心配そうに、母の様子を気遣ってくれている。
「だいじょうぶよ。優しい子ね」
ほほ笑んで、アレイニは娘の髪を撫でた。
「はやく、ご飯食べちゃいなさい。……もうすぐ時間がくるわよ」
コトラは薄い眉をしかめた。イヤイヤと首を振る。一日に二十分、母と触れ合うことのできる夕食は、二人にとって蜜のような時間だった。
それでも、いつまでも浸っていられない。
アレイニは席を立ち、自室に備え付けられたキッチンで、ハーブティの支度を始めた。
赤い草、黄色い実、緑の粉末、青い液体。
それぞれは特に、珍しいほどのものではない。紅茶に用いることはあまりないが、ハーブティを好むアレイニが下男に頼んで取り寄せて、疑問に思われない品ぞろえだった。
それらを混ぜて、調合する。
出来上がったものを、アレイニは一気に飲み下した。途端に猛烈な吐き気が襲う。それを這いつくばって抑え込み、呼吸を整えていると、またコトラが覗き込んできた。アレイニは彼女を抱きしめた。
「平気よ。こんなこと。おかあちゃんは、あなたのために、いくらだって強くなれるの」
薬液が胃に落ちて、じわりじわりと、体の中に沁み込んでいく気配がする。
アレイニは下腹部に手をやった。その感触を確かめて、よしと頷く。
「――さあ、本当に早く食べて。もうすぐ、『おとうさま』がいらっしゃるわ……」
そう言った途端に、ドアが激しくノックされた。部屋全体が揺れるほど乱暴に、ドアノブがガチャガチャ回される。この部屋に内鍵は無い。外側から勝手に鍵を開け、男が入り込んできた。
「アレイニ様! 初めまして!」
名乗りを上げる大男。雄々しいのは結構だが、騒々しくてかなわない。アレイニは静かに一礼した。
「初めまして。宜しくお願いします」
顔を上げた瞬間、男は歓声を上げた。
「なんと美しい。今宵、あなたの夫となれることに、ぼくは心から喜びの声を上げましょう」
「……それは結構ですが、いまは子供の前です。品のないことはおっしゃらないで」
アレイニは適当に言い捨てて、コトラの食事を進めさせた。コトラはぴたりと表情を失くし、もくもくと幼児食を平らげた。そして自ら、扉の向こう、待っていた乳母のもとへ進んでいく。
娘を笑顔で送り出して。
夫を無表情で迎え入れる。
初対面、騒々しい挨拶をしたその男は、ベッドでも終始やかましかった。
安物の娼婦のような声を上げ、淫猥で下衆な独り言をしゃべり続ける、男。そんなことで燃えもしなければ恥にもならない。アレイニはただ、獣の交尾を眺める生物学者のような冷めた目で、あえぐ夫を眺めていた。
「アレイニ。アレイニ。ぼくの名を呼んで」
アレイニは眉を寄せた。
「ごめんなさい。忘れました」
どうせ、また一年。
それで、この男とも縁が無くなる。無駄な遠吠え、無駄な繋がりを、アレイニは穏やかな心持でのんびり過ごす。
――もう、忘れてしまうほどの昔――
キリコのラボで取り組んだ、ラトキア星人向け避妊薬の開発は、その後の科学者生活で、一応の形にはなっていた。
人体実験に踏み切ることはならず、結局、自分自身でぶっつけ本番となったけれども、ちゃんと成功していたらしい。
その結論に至るまでに、ずいぶんと魘され、食べものを吐き、痩せてしまった。
だが今は楽になったものだ。
あの原料ハーブがこの世から無くなりでもしない限り、この世に哀れな子は産まれない。
アレイニは安楽であった。
なにも憂いは無い。
じっと寝転がり、五体を投げて、便壺の代わりをしていればいつかは終わる。
この人生が尽きるまで、そうしていればそれでいい。
ふと、転寝から目を覚ます。なにか異様な焦げ臭さを感じた。
ベッドサイドで、夫がたばこを喫っていた。
アレイニの視線に気づき、彼は慌てて、携帯灰皿へそれを捨てる。
「嫌いだったかい? ごめんごめん、習慣でね――」
「……嫌いじゃない。私も、持ってるの。その匂いじゃないけど」
初めてまともに会話らしいことをして、男は嬉しくなったらしい。また飛びついてくるのを、アレイニは黙って受け入れた。そうしてまた表情を消した。
目を閉じれば、現実ここにはいない、男の声が聞こえてくる。
低音だが、まだ少年の幼さがかすかに残る甘い声。最初は照れくさそうに、ぎこちなく――だんだん強く、切なく囁く彼の声を、アレイニはいつだって思い出すことが出来る。
アレイニ。
アレイニ。俺、もう一生喫わない。
そう言って彼はシガレットケースを、アレイニの生活の真ん中に置いた。アレイニはタバコを喫まない。ゆえに、あのタバコの本当のにおいは知らないままだった。
思い出すのは彼の指。
摘まんでいた香草がかすかにしみこんだ、あの男の体臭を、アレイニはいつも思い出す。
きっとあれに火を付ければ、記憶はより強く思い出せるようになるだろう。だがアレイニは決して、シガレットケースを開かなかった。
一本のタバコが尽きるまで、ここにいてくれと願った。
彼はそれに応えてくれた。
たったの一本たりとも、失うわけにいかないのだ。
(――私の人生は、ここでおわり。これでもうおわり)
揺さぶられ、空中をもがきながら、アレイニは思う。
(それでいいの。これが私の選んだ道だから。ずっと逃げ続けてきた私が、最後に選んだ、私の死に方)
(だけどもし――もしかしたら)
もしかしたら、またいつか。
名を知らぬ男の下で、アレイニはテオの名を呼んだ。
(――俺の恋は、あれで終わり)
テオはそれで、納得していた。なるべく思い出すこともしないようにした。
思い出さないように、考えないように、出来る限りそう努めている、
――本当に、終わり?
――それでいい?
彼女は本当に、幸せでいるのか。ふたりはどうしているだろうか。
――もしかしたら、まだ自分を想ってくれてはいないだろうか。
考えると気が狂いそうになる。
別に、狂ってしまってもいい。それでなにか前進するならば。
だが今はどうにもならない。ならば悠長に、想い憂いている場合じゃない。
力がいる。権力がいる。知識がいる。金がいる。
なにもかもまだ足りない。
やっと二十歳、ティオドールにはまだまだ足りないものが多すぎた。二年前の、自分の行動は確かに短絡的だった。無鉄砲すぎたのだ。
もっと準備が必要だった。ちゃんと用意して、整えよう。もっと強く、大きく、何にも負けない強い男になる。
そうして、彼女たちを取り返す。
テオは静かに拳を握った。
リタの家から移動する道、オストワルド将軍が、他の騎士から通信を受けた。
「バルゴの生体反応だ。西に二キロ。北東へ分速二十メートル程度で移動している。ゆくぞ、ラトキアの騎士たちよ!」
「ラジャりましたー」
その言葉は自分だけが言った。
悲恋に終わった彼らが再び合いまみえるのは、この五年も後のことである。
お読みいただき、ありがとうございました。
あらすじにもありますが、この物語は拙作「鮫島くんのおっぱい」の外伝となっております。
サブキャラの虎、鹿をダブル主人公にした悲恋譚。この続きというわけではないですが、彼らの本当の顛末は本編のほうで語られるでしょう。
クーガ、そして地球人の栗林梨太にもご興味を持っていただけたら、本編のほうもぜひよろしくお願いします。




