第八十一話 上の悩み、下の苦しみ その5
「あの者が希望の悪魔であるならば、リリー、あなたは異端者ということになります。」
立ち上がったヴィスコンティ枢機卿が、宣言した。
表情が、ない。声の抑揚も、ない。
彼女が押し殺している感情は、奈辺にあるのやら。
「明日にでも、審問が開かれます。それまでは、この部屋に留まってもらいます。」
「結果は欲しい、でござるか。」
千早の目が、尖る。
「悪魔に唆されたものであっても、受け入れる覚悟がおありに?」
「リリーのすることを、私は信じます。リリーを、信じます。」
「猊下……。」
「答えてみせなさい、リリー。私にも。主神にも。あなたの魂に穢れなきことを、証してみせよ!」
頷いた、リリー。
背を向けて、再び薬作りを始める。
その姿を確認したところで、枢機卿が俺たちに目を向ける。
「見張りをつけなければ、いけませんね。」
「見張りをつけるとなれば、理由を告げぬわけにもいかず。理由を告げたら、作業を見守ってくれるわけもない、ですよね?」
「あのゴーレムが、再び接触を図る可能性もあると。」
「某以上の腕を持つ者は、この修道院にはおらぬ様でござるなあ。」
「メルのご一党は、話が早くて助かります。お願いしますね?」
軽く口にしたものの、枢機卿の顔は、意外にも、笑っていなかった。
異端の問題は、彼女でも、「押さえ込む」ことができないのか?
「女子修道院に外泊、ですか。父には、全て説明せざるを得ませんが?」
「教団に対するカードを手に入れた」という話になって良いはずなのだが。
イーサンも、口調に軽さを持たせようとして、それを果たせずにいる。
「構いませんわ。デクスター子爵閣下から先には、広がらない。そう確信しております。」
ヴィスコンティ枢機卿、歯軋りでも聞こえてきそうな表情になっていた。
「ともかく、お願いします。私は各所に指示を出してきますので。明日までは、この建物に誰も近づけさせません。」
リリーの背中をじっと見つめた枢機卿。
祈りの言葉をつぶやきながら見せたその後ろ姿はしかし、下を向いてはいなかった。
「話は済んだ?じゃあ、僕は寝る。何かあったら、起こしてよ。」
少年がひとり、床に転がったと思ったら、即座に寝息を立て始めた。
「ノブレス君は、強いな。」
呼吸に伴い上下する背中を眺めて、イーサンがつぶやく。
「……ありがとう。」
その思いは、たぶんこの場の全員が抱いている。
ノブレスのことだ、意図してとった行動ではないに決まっている。
それでも、いや、それだからこそ、感謝したくなる。
「じゃあ、俺も、仮眠をとらせてもらうよ。……皆さんも、寝たい時や、眠くなった時には、寝てください。幽霊が見張っているから、大丈夫。」
「ヒロ殿も、別の意味で強うござるな。」
夕陽が眩しくて、目が覚めた。
南西向きの部屋だったか?
「これで、完成。」
リリーの声が聞こえてきたのは、目が覚めてすぐのことだったと記憶している。
たそがれ時、星がひとつふたつ、見える頃。
「間に合ったんだ。」
「患者に投与して、効果を確かめなければいけないんだけど、その時間はないみたいだね。」
どんな薬なの?
聞こうとしたら、どこからか念話が聞こえてきた。
「君達の世界……、いや、君が『元いた世界』か。ともかく、そっちで言うペニシリンだね。」
姿は見えないが、近いところにいる。
あいつだ。希望の神。
「なぜそれを俺に……って、いや、分かった。お前、ズルイよ。」
リリーの身体からは、霊気が、滲み出していた。少しずつ、抜け始めているのだ。
時間が、無い。
何事も無ければ、薬は広まるだろう。
だがもし、何か。主に宗教的な事情だが。
何かがあって薬が広まらなかった場合には、俺に委ねると。
薬の絶大な効果を知っている人間に。
「みんな、見ていて?再現可能性がないといけないから。」
もう一度、作れたら。
「あたしの仕事は、終わる。あの人が、迎えに来てくれる。父さんのところに行ける。」
「本人の再現実験だけじゃなくて、第三者の再現実験が必要でしょ?」
「リリーさん、私の夫もね、傷が原因で亡くなったの。それで、この道を志したんですよ?」
「最強の実験助手と呼ばれていたんですよ~わたし。」
3人の女医も、再現実験を始めた。
真夜中を過ぎた頃だったと思う。
ゴーレムが、希望の神が、どこからか姿を現したのは。
リリーの背中に、そっと寄り添い始めたのは。
斬りかかる意思は、失せていた。
お前は、悪魔だよ。
15の女の子に、何てことをしたんだ。
「15なら、もう、おとなだ。」
「そういう事を言いたいんじゃない!分かってるはずだ……。夢を見る者、希望を抱く者に、細い可能性を見せて……。」
「それを、彼女は選んだ。彼女だけじゃない、皆、自分で選んだんだよ?」
俺の方に、首を傾けて来たから、手を振ってやった。
「いいから、彼女を見てろ」って。
「彼女は、破滅しなかった。駆け抜けて、踏み越えて見せた。美しいと思っただろう?」
「それだけは、同意するよ。彼女は、美しい。」
涙が、止まらない。
どうしても、ゴーレムに斬りかかる気に、なれない。
リリーの霊が、笑顔を浮かべる。
ゴーレムから抜け出た、希望の神に思い切り抱きついて、キスをして。
そして彼に抱きしめられながら、霧散していった。
白衣を着た女の子と、動かなくなったゴーレムと。
朝の光の中、そっと手を重ねて、机に突っ伏していた。