エピローグ アゲハと小鳥
はぁ………はぁ……はぁ………
顔を水面から出すたび、かすかな音が耳に届く。
観客の声援。周りを泳ぐ選手たちの荒い呼吸。そして、自分の腕が水をかく音。
はぁ……あと少し……
ピキッ!
ーーー
ジィリリリリリリ
大きな目覚ましの音と共に目を覚ました。
「またあの夢か……」
高校1年の夏、全国の舞台。
水泳の推薦で高校に進学した僕は、1年の時から周りに期待され大会に挑み、全国という大舞台に立つことができた。
周りからもかなり期待され、ついたあだ名はアゲハ王子。
なんとも恥ずかしい名前だ。
得意種目のバタフライで結果を残してきた僕には、いつの間にかこんなあだ名がついていた。
バタフライと言えば蝶々、蝶々で有名な種類と言えばアゲハチョウ、そうナミアゲハである。
みなみ→なみ→なみアゲハ→アゲハ王子。
多分こんな手順。
ほんと誰が考えたのだか………
アゲハ王子なんてあだ名をつけられて浮かれていた僕も、全国大会の途中に右肩の靭帯をやってしまいリタイヤ、その怪我で右肩は上がらなくなり、あえなく引退。
水泳しかやってきていなかった僕は、1年生にしてすべてを失ったのだった。
ーー
そんな最悪の目覚めを迎えた僕は、暗い気持ちになりながらも、重い体を起こして学校へ行く準備を始めた。
「もう入学シーズンか……」
水泳の推薦で入学したこの学校は、僕にとって見知らぬ土地にある高校だった。
以前は、各部活の有望な選手たちが集まる寮で生活していた。けれど、選手でなくなった僕に、その場所は必要ない。
去年の夏、僕は寮を出た。
そして今では、古いアパートで一人暮らし。
あれからもう半年か…
アパートを出た先にある桜を見て感慨深く思う。
去年は、桜を綺麗だと考える余裕もなかった。
でも今では桜を見る余裕もできたのだ。
何もマイナスにだけ進んでいるわけではない。
前向きな気持ちを胸に始業式へと向かった。
ーー
学校へ着くと早くも部活動の勧誘が行われていた。
うちの学校は進学校としてはそこそこだが、部活動が盛んで全国クラスの部がそこら中にある。
そのせいで、始業式からこの祭りなのである。
「水泳部に入りませんか?去年は惜しくも全国で入賞はできませんでしたが、今年こそは……」
何やら嫌な声が聞こえてくる。
もちろん、僕に言ったわけでも嫌味がこもっているわけでもない。
しかし、去年期待されていた人間としては少し心が痛む。
「水泳部は毎年、凄いよなぁ。」
今度は近くから知った声が聞こえる。
新入生に向けてではなく、僕に向けて。
そう話しかけてきたのは、この学校で唯一の友達である、友沢隼人だ。
「よう、アゲハ!」
「いまだにそう呼ぶのは、お前だけだぞトモちゃん。」
トモちゃんとは、友沢隼人のあだ名。
1年の時の自己紹介で「トモちゃんと呼んでくれぇ」とクラスで叫び、以後定着している。
「じゃあ、リコーダー王子って呼んだほうがいいか?」
トモちゃんがそう発した瞬間に僕は少し嫌そうな顔をする。
「ごめん、嫌だったか。」
「別に嫌味が合って言ったわけじゃないだろ?ただ、少し思うところがあっただけだ。」
なぜそのリコーダー王子という言葉に少し嫌な顔をしたのか、そもそもなぜ水泳部だった僕がリコーダー王子なのか……
それには深いわけがあるのだ。
ーー
それは、去年の夏…
僕が水泳部を辞めたあとの事だった。
周りからは哀れみの目と慰めが飛び交い、学校さえ辞めてしまいたい、そう思っていた。
そんな僕を支えてくれたのがトモちゃんだ。
彼は和太鼓部に入っており、水泳部で培った体力を生かさないかと誘ってくれた。
しかし、いざ見学へ行くと厳しい現実を突きつけられる。
和太鼓は音を聞かせるとともに魅せる演奏。そのため、身体を大きく動かしながら演奏するのだ。
トモちゃんを含めた和太鼓部の人たちは演奏の途中途中で、右手を大きくうえに上げて、息をそろえながら太鼓を叩いている。右手を上に挙げれない僕にとってはこれは苦痛でしかない。
きっとこの部に入っても何もできないだろう。そう思って、僕はその場から逃げ出してしまった。
自分の情けなさに絶望したが、それでもトモちゃんは僕を追ってきてくれた。
一つのチラシを持って。
「ごめん。そんな気持ちにさせたかったわけじゃなかったんだ。それよりほら、部活動勧誘期間の時に貼られていたやつだけど、ここ見ろよ。」
トモちゃんが指さしたところにはこう書かれていた。
『肺活量に自信がある人大歓迎!!初心者も活躍中!!是非我が吹奏楽部に!!』
「水泳をずっとやってたお前なら肺活量に自信あるよな。どうせ入るなら水泳経験を生かせる部が良いって言ってたじゃん。」
「なんでそこまで僕のことを……」
「友達だろ、気にすんな。」
ここで僕は、こいつと一生友達でいようと思ったのだが、それは今は関係ない話。
「小さい頃に管楽器をしたいと思ってたしありかも。うん、吹奏楽部に決めるよ!!」
「おい、ちょっと話はまだ……」
決めたなら即行動の僕は、すぐさま入部届を担任に出した。
トモちゃんがこのとき何を言おうとしたのかは今ならわかる。いや、入部してすぐに理解はできていた。
吹奏楽部は全日本吹奏楽コンクール前だったのだ。ピリついた雰囲気の中、吹奏楽部に関係ない先生が通した入部届で入部した、言わば部外者が紛れ込んでる状況。
「なんで、アゲハ王子が吹奏楽部に?」
「怪我したからって直ぐに全国前の部活に入ってくるなんて……」
僕への視線が怪我後よりも厳しいものになっており、また逃げ出したくなっていた。
しかし、一人の先輩によって状況が変わる。一個上の先輩で名前は竜胆花先輩。彼女が僕にある楽器を渡してきた。
そう、リコーダーだ。
「今、この部活にあんたにかける楽器はないから。あと、リコーダーの音でも邪魔になるし、まともに吹けるようになるまで屋上で練習してて。そこなら誰も使ってないし、私たちに聞こえることもないだろうから。」
遠回しに部活から出てけという宣言。もうやめようと決め、それでも一度は楽器をという思いでリコーダーを持ち屋上へと向かった。
ふぅ………
屋上についてリコーダーを構える。
ピュ〜♬
息を吹き込むと拙いながらも音が出る。当然と言えば当然で、初めて吹いたわけでもないし、ほかの楽器みたいに音を出すが大変なわけでもない。
しかし、水泳という音が極端に感じにくい競技をやっていた僕は、音を永遠に感じられるリコーダーに心を惹かれてしまった。
そこからは顔を出しにくい部活に顔を出さずに、屋上でリコーダーばかり吹いていたのだ。
夏から新年度の今まで。
そのせいもあってか、リコーダーの腕はかなり上達した。それでも部長となった竜胆先輩からは呼び出しの声はかからず。
リコーダー王子という不本意な変なあだ名をつけられることになるのである。リコーダーの語源はrecord、小鳥のさえずりを意味する。華やかな成虫であるアゲハチョウから生まれたての小鳥に退化したというわけだ。
つまりは嫌味なあだ名と言うわけだ。
ーーー
これが、少し嫌な顔をした理由である。
それでもリコーダーを吹くのは楽しいし、音楽を愛してしまった僕には、むしろ名誉にも感じているわけだが……
「今日も行くのか?」
トモちゃんは聞いてきた。
「もちろん、入学式だろうと、屋上でリコーダーを奏でるのをやめるつもりはないさ。」
僕はカバンに入っているリコーダーにそっと手を当てて答えた。
このときは、まだ気づいていなかった。
今日、出会うこととなる素晴らしい出会いについて。
一人の天才音楽家との出会いを。




