桜の澱み
宮廷の回廊に吹き抜ける風は、どこか湿り気を帯び、饐えた血と灰の匂いが混じり合っていた。
若き法師——名は静賢。
まだ二十歳を越えたばかりの若さでありながら、その法力と智謀を買われ、帝の側に仕える侍法師として殿上を許された男である。
墨染めの法衣の裾を軽く翻し、静賢は長い回廊の影で深く、深く息を吐き出した。
(……今日も、お出ましにならぬか)
胸の奥を刺すのは、重く濁った憂国の情であった。
国の要たる帝が雲霞の奥へとお隠れになってから、もうどれほどになるであろうか。
朝政は滞り、公卿らは困惑の溜息をつくばかり。
事態はそれにとどまらない。
禁裏の奥深く、後宮にあっても女官はもとより帝の妃たちでさえ、ご尊顔を拝することが叶わぬというのだ。
「静賢殿、また御前へのお取次ぎを拒まれたのか」
暗がりから声をかけてきたのは、老齢の公家であった。その顔には疲弊と絶望の色が濃く刻まれている。
「はい……。帝からはただの一言さえ、賜ることができませんでした」
「ああ……なんと嘆かわしきことよ。一朶の桜のために、帝は私たちをお見捨てになるというのか……」
公家は絞り出すような声で呟き、力なく首を振った。
「桜の君」——
重重たる御簾の向こう、帝の御所に出入りを許されているのは、そう呼ばれる女ただ一人。
その女が何者であるのか、何処より現れたのか、誰も知らぬ。
夜陰に紛れるようにして禁裏の奥深くに入り込み、瞬く間に帝の閨を独占せしめたのだ。
だが、静賢は心の中でその言葉を強く否定した。
(ありえぬ!帝が背を向けられることなど……!)
静賢が知る帝は、そのような愚かしき弱さとは無縁の方なのだ。
御幼少のみぎりより、その聡明さは群を抜き、将来を嘱望された方であった。
徳を備え、仁を知り、誰もが自ずから頭をたれる比類なき君。
何より、静賢の脳裏に焼き付いて離れない光景がある。
突然の狂乱の末に殿舎を火にかけ、竹の園生を焼き尽くさんとした先帝。
火の海と化した宮中において、その凶刃の前に毅然として立ちふさがり、命を賭して高御座を守り抜いたのが、若かりし現帝であった。
全身を返り血に染めてなお、微塵も威容を失わぬその姿。
この方にお仕えすることを許されたのだと、静賢を熱く焦がした誉は今も違わず、この胸にある。
静賢は握りしめた数珠に力を込めた。手のひらに硬い木肌が食い込む。
(悪しき妖が帝を惑わせたか……さもなくば、日輪たる御身に何かが巻き起こっているのか)
帝とは、この地上をあまねく照らす日輪の化身。
その日輪たる帝が磐座にお隠れになり、光が途絶えたことで、この国はいまや底なしの混沌へと転落しつつあった。
日輪の恵みが失われた国には、災厄が吹き荒れる。
天候は不順を極め、田畑は枯れ果て、山々からはおぞましき魑魅魍魎が里へと溢れ出していた。
一歩、禁裏の門を出れば、そこには目を覆うような地獄が広がっていることを、静賢は知っていた。
道端には、病や飢えで倒れた者の屍が弔われることもなく捨て置かれ、腐臭を放っている。それを貪るのは野犬か、あるいは人肉の味を覚えた餓鬼であろうか。
人々の心からは慈悲が消え失せ、僅かな蓄えを巡って家族が血を流し合う。親は生き延びるために幼子を売り飛ばし、食扶持のない老人は寒空の山中へと捨てられてゆく。
民は誰もが皆苦しみに喘ぎ、この世の終わりを祈るように叫んでいた。
天が陰り、地が朽ち、国という器そのものが、ドロドロとした暗黒の泥に呑み込まれようとしているのだ。
「このままでは……この国は滅びる」
輝き天子の元で弥栄を誇ったこの千年の都が——
——「桜の君」が日輪を覆い隠さんとするのならば、なんとしても討ち果たさねばならぬ。
静賢は唇を噛み締め、滲み出た血の味が口中に広がるのを静かに呑み込んだ。
妖の手から帝をお救いせねばならぬ。この国にはまったき帝が、日輪の恵みが必要なのだから。
それができるのは——侍法師たる、この己だけなのだ。
「静賢殿?」
不審そうに顔を覗き込んでくる老公家に、静賢は静かに首を振ってみせた。
「いえ……。私は少し、お堂にて祈祷を捧げてまいります」
「そうか……。せめて天にお心が届くとよいのだがな……」
深々と頭を下げ、静賢は老公家と別れた。
歩みを進める静賢の袖口から、短刀の柄がちらと覗く。法力で満たされたそれは、まるで揺らめく焔を纏うようであった。
暗い回廊で眼を爛爛と光らせ、静賢は固く閉ざされた後宮——妖が巣食う凝った闇を睨め付けた。
爛漫たる桜の、その淀んだ甘い香りが、風に乗って微かに、しかし確かに静賢の鼻腔をくすぐる。
どろりと生臭いようなそれは、まさしく日輪を腐す澱みであった。




