8.22_空を見よ。月を見上げよ。
『あはははははははははは――――。』
常夜の都に迷い込んでしまったアイは、狼狽する。
手に持っていた買い物かごが、石畳の上に落ちる。
袋の中から、リンゴが後ろへ転がっていく。
「これは――!?」
周囲を見渡す。
‥‥‥‥。
その、狂った嗤い声を知っている。
その、女の正体を知っている。
月の女神。
彼女たちは、ゲームの中の、フィクションの存在では無い。
この現実世界に――。
そして、どこか遠い魔法界に存在している。
夜の西洋風の街並み。
風の吹かぬ街には、石鹸の香りが立ち込めている。
香水で例えるなら、ホワイトムスクの香り。
ホワイトムスクの、シャボンな香りに混じり、ジャスミンやローズ、バニラやサンダルウッド――。
官能的な匂いが入り混じり、喉に詰まる。
浅く吸い込む空気が香りの粘性を持って、むせ返る。
淡い期待を込めて、スマートデバイスを取り出す。
刹那に連絡をしようとするけども、当然のように繋がらない。
デバイスに、電源が入らない。
魔法の街灯が輝く明るい街の、路地裏の暗がり。
街灯でも、月灯りでも照らせぬ暗い場所から、人の手ではない腕が伸びて来る。
緑色の肌。
丸太のように太い腕。
人間の倍はあろう背丈。
肉食動物のように発達した犬歯。
それを、オークとでも呼称しようか?
緑色の怪物が、月明かりの往来へと姿を見せる。
馬車2台が楽に離合できる道に転がる、リンゴを拾う。
リンゴを鼻に近づける。
香りを、嗅いでいる。
首をかしげる。
オークが手にしたリンゴは、王林と呼ばれている青リンゴ。
主に青森で生産されている、甘くてシャキッとした歯ごたえの品種だ。
オークから見ると、不思議でならない。
見た目は青いのに、甘い香りがするこの果実が、不思議でならない。
一口で半分ほど齧る。
犬歯で齧り、臼歯で咀嚼する。
地球のゴリラみたいに、軽快な咀嚼音を街に響かせる。
咀嚼が止まる。
口を開けたまま、齧ったリンゴを鼻につける。
咀嚼を再開。
よく噛んで、飲み込む。
口を開く。
半分だけ残ったリンゴを口の中に放り込み、腹の中に収めた。
アイは、オークから視線を外さぬよう、ゆっくりと後ろに歩く。
刺激しないように、だけど目は逸らさないように、後ろに歩き距離を取る。
オークは、鼻を利かせている。
地面に転がっている袋から、リンゴの匂いがする。
その場から動かず、買い物かごをジッと見る。
‥‥オークが身震いをする。
身震いのあと、しばし動きを止めて――、怪物とアイの目が合う。
『――――ッッ!!』
オークが吠えた。
暗い洞窟に突風が入り込むような、不気味な雄叫び。
両手を大きく広げ、自分の体躯を大きく見せる。
それが威嚇行為だと、アイは本能的に悟る。
ギアを起動させる。
スマートデバイスが使えない、この狂った世界でも、ギアは問題なく起動する。
身体にネクストが流れ込み、超人的な運動能力を獲得。
オークの突進を、上方向に飛び越える。
アイは考える。
この場を離れるべきか? ここでオークを制圧するべきか?
下手に動くと、彼奴のような存在に目を付けられるかも知れない。
だからとここに留まれば、彼奴の仲間が集まってくるかも知れない。
‥‥‥‥。
1対1のあいだに、制圧する。
常夜の都に立ち込める、香水の香りがそうさせる。
曖昧な人間な思考を、そっと指先で撫で上げて、昂らせる。
好戦的に誘導された、アイの思考と感情。
オークは四つん這いとなり、アイに襲い掛かる。
人間の何倍も速い動きで距離を詰め、右腕を横から振るう。
後ろに飛んで避けたアイに、左腕を上から振り下ろす。
速い。
速い上に隙が無い。
懐に潜り込めない。
四つ足となったオークが、激しく体を揺らす。
左右に、大きく体を揺さぶり、大声を張り上げた。
『――――ッッッ!!!!』
鼓膜をつんざくような大音声。
――アイの身体から、力が抜ける。
膝が砕け、腰が抜け、ペタリとその場にへたり込んでしまう。
身震いが、止まらない。
人間の身体は、大きな音に当てられると、驚愕反応反射を起こす。
大きな音によって、筋肉が緊張したり、逆に弛緩したりする反射のことだ。
至近距離の雷鳴によって、足がすくんだり、腰が抜けるのは、これが原因である。
オークの吠え声も、驚愕反応反射を利用したもの。
大きな声量に魔力を乗せ、感情や本能を強く刺激する。
驚愕反応だけでなく、情動脱力発作に似た症状を人体に及ぼす。
へたり込んだアイは、身体を両手で抱きかかえる。
耳から入り込んだ恐怖に心を支配され、動けなくなる。
ギアが停止する。
アイの感情とネクストが、感応しなくなってしまう。
オークが近づいてくる。
‥‥悪い、夢のようだ。
夢の中で、刃物を持った殺人鬼が近づいて来る感覚。
逃げたいのに、身体は一向に動いてくれない感覚。
金縛りにあって、身体が動かない、悪い夢のようだ‥‥。
アイは、あっけなくオークに捕まった。
オークに背を向け、何とか這う這う逃げ出そうとするも、捕まった。
オークに背を向けたまま、両手で掴み上げらる。
リンゴを潰すように、強く握られる。
「か゛ぁっ――!? だ‥‥め――――ッッ!!」
宙に浮いた脚が、虚しく空気を蹴る。
怪物の膂力は、ちょっと頑丈な機械程度では上回れない。
アイの呼吸が早くなる。
過呼吸。
浅く、早く。
(なんとかしなきゃ‥‥! なんとかしなきゃ‥‥!
なんとか――!!)
常夜の都に迷い込んだ、迷い人。
超常的な怪物に襲われ、窮地に晒される。
感情も、思考も、濁流となって氾濫し――。
悪魔の血が、目覚める。
破壊を待つばかりだったアイの周囲に、粉雪が舞う。
周囲の大気、それと香水の香り。
凍てつかせて、粉雪に変える。
アイの口から、白い吐息が漏れる。
息せき切る呼吸が、白く染まって目で見えるようになる。
細く長い指が、怪物の両手を掴む。
冷気が、怪物の体温を奪っていく。
『――――!?!?』
オークは、アイの変貌を察知。
彼女を手放そうとする。
しかし、上手くいかなかった。
氷だ。
氷が皮膚に張り付いて、彼女を手放せない。
両手が凍り付く。
魔力の氷に、覆われていく。
機能が停止したギアに代わり、魔力がアイに流れる。
彼女を、魔女として覚醒させる。
アイが、オークの指を握りつぶした。
凍った指が砕ける。
崩壊は止まらず、連鎖的に氷が砕け、両腕の肘から先が無くなる。
造花の魔女が地に足をつける。
辺り一帯に、氷の花が咲く。
氷の薔薇が、オークの脚を絡め取り、体温を奪っていく。
魔女が拳を構える。
右手に、魔力を――――。
刹那が言っていた。
魔力は血のような物だと。
‥‥‥‥。
オークが吠える。
相手を恐怖に陥れる吠え声。
魔女は聞く耳を持たない。
魔力で守られた身体が、精神への干渉を無効化する。
アイの力は、吠え声すら凍らせる。
彼女の服や肌に、薄く氷が張り、声を固めた。
魔女が地面を蹴る。
全力で踏み抜いた足は、石畳を割る。
拳を握り、冷気を纏う一撃が――、オークの胸に突き刺さる。
緑色の怪物は、魔女の冷気によって、氷像に変わった。
足元と胸から氷に代わり、拳に穿たれ、砕けた。
アイが地に足をつけると、砕けた氷像が、彼女の後方で散らばる。
身体から、魔力が抜けていく。
倦怠感と眠気が身体を襲い、地面に両手をつく。
黒く美しい髪が、頬を伝ってしだれる。
――道の向こうから、足音が聞こえる。
人の、サンダルの音だ。
黒髪をかき上げ、背中に流し、前を向き、立ち上がる。
狂った嗤い声の主が、アイの目の前に現れる。
暗い月のリリウム。
水曜の女神。
芸術と狂気の女神。
「この都で殺しとは、関心せんな。」
美しい鈴の音の如き声色は、なのに狂気と威圧感を抑えきれない。
深海の瞳は、たいそう愉快に、髪の乱れた魔女を見ている。
「だが、それも許そう。
なぜなら、これは女神の遊戯なのだから。」
リリウムが右手を上げる。
アイの背後で、砕けた氷像が動き始める。
身構えるアイ。
横に飛び、リリウムと氷像を視界に収められるようにする。
「そう構えるな。」
氷像は、影に沈む。
リリウムの足元から影が伸び、影なる深海から、オークの姿が浮上する。
彼は、女神にかしずくよう、片膝をついている。
「この者を、恨まないでやってくれ。
私が、この者をお前にけしかけたのだ。」
オークは立ち上がり、アイの方へ向き直る。
両手を合わせ、魔法を唱える。
アイの周囲に、満開の花畑が咲き誇る。
リリウムは右手を上げる。
オークがアイにお辞儀をすると、彼は月の光に溶けて消えた。
この場には、アイとリリウム、2人だけとなる。
リリウムの姿を観察する。
セントラルで見た姿と、寸分変わらぬ姿。
肩まで伸ばした銀髪。
下の肌着が見えてしまうほどに、薄い服。
自らの美しさを隠そうともしない、短いズボン。
女の嫉妬と、男の羨望を集める、完成された彫刻のような肢体。
――そして、女と子どもの悪いところを煮詰めたような、終わっている性格。
彼女は、思い付きと気まぐれで、アイを常夜の都に呼んだ。
呼びつけを、断る権利は無い。
暗い月が、そう望んだのだ。
だから、世界はそのように動かなければならない。
「案ずるな魔女。私は、お前のことを気に入っているのだ。」
気に入っているから呼んだ。
相手の都合など、知ったことではない。
「あは――。あはははは――――。
愉快だ! 素晴らしく愉快だ!
新月が温めていた卵を奪い、お前が悪魔を誑かしたのだからな!
くくく――。
あの夜の新月は、傑作なほどに無様だったぞ――!」
魔女? 悪魔?
奪った? 誑かした?
アイは、自分が魔女であることを知らない。
刹那が悪魔と呼ばれていることは、彼自身も知らない。
だが、リリウムの話しから推察し、魔女とは自分の事を指し、悪魔とは刹那のことであると理解した。
アイは、リリウムに質問をしようとして――。
口をつぐまれた。
喉を、見えない手に握られ、気道を塞がれる。
「おい、気を付けろ。
お前がここに呼ばれた理由は、私の質問に答えるためだけだ。
それ以外、一切の行為を禁止する。」
‥‥滅茶苦茶だ。
この女は狂っている。
気に入っていると言うた相手に、この仕打ち。
自分以外のすべてを、路傍の石や玩具としか思っていない、傲慢な振る舞い。
ゆっくりと、リリウムがアイに歩み寄る。
暗い瞳が、歪んだ三日月が、冷たい深海が――、近づいてくる。
すぐ目の前に。
造花の赤い瞳を、覗いて抉ってしまいそうなほど、近くに。
暗い月からすれば、容易いことだ。
この造花を手折ってしまうことは。
ゆえに、アイは彼女に逆らえない。
「暗い月が命じる。
私の問いに、一切の嘘も、偽りも許さん。
ここは女神の膝元で、いまは神の御前と肝に銘じろ。
私の聞いたもの、見たものが全て真実になると、そう心得よ。」
‥‥何も返せない。
頷くことすら、否定することすら。
ただただ、女神の言葉を待つことしか、許されない。
「さあ、造花の魔女よ。
お前は、悪魔に何を願う? 何を望む?
あれは、お前の物だ。
好きに願い、望み、叶えるがいい。
悪魔は魔女を縛り、魔女は悪魔を縛る。
その絡んだ因果に、何を見いだす?」
‥‥‥‥。
言っている意味が分からない。
暗い月の質問の意味と、その真意。
そして、何が正解なのか?
思考を巡らせ、瞳が泳ぎ。
――アイの口元に、歪んだ三日月が浮かんだ。
知らず知らず。
思考に意識を取られ、感情が口元に出てしまう。
深海が、欲にまみれた、その口元を目敏く覗き込む。
図らずとも、リリウムのお眼鏡に適ったようだ。
彼女が満足する答え、彼女の琴線に触れる答え。
それを、アイは示した。
リリウムは、アイに絡みつく。
蛇のように、造花の後ろに回り込み、長い肢体で、造花を舐める。
――この女は、狂っている。
リリウムは、アイの中に狂気を見いだした。
見逃しはしない。
リリウムは、魔女に告げた。
悪魔はお前の物。
悪魔は魔女を縛り、魔女は悪魔を縛る、と。
この言葉に、この魔女は、悦びを示した。
いつ、女神の気まぐれで、首を手折られるやも知れぬこの状況。
その中でこの女は、魔女と悪魔の、決して切れぬ因果に、震えたのだ。
燃え爛れる愛情。
執着、独占欲、承認欲求の裏返し。
悪魔が自分の物と知り、彼女は悦んだのだ。
躊躇いや動揺は無く、知らず知らず悦んだ。
――素晴らしい。
期待以上だ。
やはり人間とは、こうでなければならぬ。
この造花こそ、人間と呼べる。
路傍の花よりも生命力に溢れ、愛おしい。
よい。
それでよい。
暗い月に巻き付かれたアイに、天啓がもたらされる。
リリウムの思考が、流れ込んでくる。
人間の本質とは欲望。
身体とは、欲望を皮で覆っているに過ぎぬ。
そして、欲望の本質とは、狂気なのだ。
なぜ? 最初の生命は、生きようと願った?
なぜ? 最初の生命は、増えようと願った?
ただイデア (原子・分子)として世界を漂っておくには満足せず、なぜ生命に至った?
なぜ? 地球の人間は、空を飛ぼうとした?
なぜ? 地球の人間は、宇宙を飛び、月を目指した?
それは、飽くなき好奇心。
合理など欠片も存在しない狂気が人々を動かし、大成に至った。
狂気こそが人を大成させ、破滅させる。
この世の全ては、狂気から生まれる。
狂気の孕む、混沌により生まれる。
愛情も狂気であり、正義も道徳も狂気である。
信念とは、狂気の沙汰。
沙汰を進むは、茨の道。
狂気で熱された信念は、茨の棘により砥がれる。
ゆえに、愛も正義も、狂気を失えば陳腐となる。
薄く、つまらなくなる。
だから、お前の悪魔はつまらん。
だから、魔女のお前は面白い。
――面白いお前には、我が祝福をくれてやる。
暗い月の奇跡‥‥、お前たちが「夕暮れ」と呼ぶものだ。
ゆめゆめ忘れるな。
暗い月は、人の内の深く、深海に映えるのだと。
私を、決して失望させるな。
深海より、お前を見ている。
◆
アイは、暗い月に絡みつかれたまま動かない。
女神の天啓と狂気に触れ、瞬きもできずにいる。
アイの背から、暗い月が消える。
常夜の都が、消えていく。
世界が、元に戻っていく。
呆けてたアイは、気づけば東京の街中にいた。
世田谷区の三軒茶屋。
足元で、リンゴを失った買い物かごが倒れている。
スマートデバイスが振動する。
取り出す。
‥‥刹那からの、電話。
赤い瞳は潤み。
紅い唇は歪んだ。
‥‥‥‥。
‥‥。




