epilogue
《エピローグ》
「晴れたね」
公園に向かって歩きながら、春の薄水色の空を見上げて花は目を細めた。あちこちに満開の桜の木があって、朝の風に乗ってちらりちらりと花びらが降ってくる。今年の桜の開花は例年よりかなり早いと昨日もニュースで言っていた。
「ほんと、卒業式日和だね」
藤井君も目を細めて気持ちよさそうに上を見上げる。昨日は曇り時々雨。今日も夕方から天気が崩れるらしいけれど、午前中は晴れマークだ。
二人の間を歩くハナの背中に、淡いピンク色の桜の花びらが一枚ついている。ハナに桜で花冠を作ってあげたいなと花は想像した。ミルクティー色のハナに、淡いピンクの桜の花冠はとってもよく似合いそうだ。
「お母さん、卒業式来るって?」
「ううん。でもお父さんは来てくれるって」
「そっか。よかった」
おばあちゃんが泊まりにきたあの七月の夜、おばあちゃんとお父さんと散歩をしながら、花はお母さんとの色々を正直に二人に話した。おばあちゃんはそう驚いてはいなかったけれど、お父さんは相当ショックを受けたようで、黙りこくって何度もため息をついていた。
それから二週間くらい経ったある夜、お父さんがそうっと花の部屋にやってきて、お母さんには内緒にねと言って、リボンのついた小さな箱を置いていった。開けてみると、かわいらしい小さな水色の革のお財布が入っていた。そういえば少し前、お父さんに「花は何色が好きなの」と訊かれて、水色と答えたことを花は思い出した。ちゃんとHANAと名前が刻印してある。今度はお母さんに取られたりしないように名前を入れてくれたんだな、と花は思った。とっても嬉しかった。
お母さんは今も、花が「外の人たち」——中村先生や藤井君や藤井君のお父さんとお母さんや琴音——に、お母さんのした色々なことを「告げ口した」ことを「裏切り行為」だと言い、「許すことができない」と言っている。中村先生からの三者面談、あるいはお父さんを加えての四者面談の提案も断固として拒否し、提案に応じて三者面談をしたお父さんを、妻よりも娘の味方をするなんてと非難した。
今は暴力や心無い仕打ちはなくなったけれど、代わりに、ある種の冷ややかさがお母さんと花の間に常にあるようになった。夏休み頃にはお母さんはしきりに、「言いたいことは山ほどあるけど、ま、言わないでおきましょ。またあることないこと外の人たちに告げ口されたらたまらないもの」とか「物語の中の子供達はみーんなお母さんを大事にするのにね。現実は大違い。わかってたら子供なんか産まなかったのに」とかいう類のことを言っていたけれど、それもだんだんなくなって、会話を交わすことも随分減った。
お母さんにとっては、花こそが「楽しくて幸せだった家庭を自己中心で幼稚な要求で滅茶苦茶にした」加害者であり、自分は「何一つ悪いことをしていないのに、腹を痛めて産んだ娘に攻撃された」哀れな被害者であるらしい。どんなに話し合いを試みてもお母さんが頑なにその考えを変えないので、何をしても無駄なのだと、花ももう諦めている。
この前藤井君の家でみんなで観た——ハナは花の脚に顔をのっけて途中から居眠りしていたけれど——『ザ・インタープリター』という映画に、「私たちは平行線ね。川の対岸に立っている」というセリフがあって、花はお母さんのことを思った。私とお母さんも、平行線。決して交わることのない二本の線。遠く離れた違う岸辺にそれぞれ立っている。お互いが見えるけれど、でも手を取り合うことはない。
でももうそれでいい、と花は思えるようになっていた。
わかり合えないならわかり合えないで、それは仕方のないことなのだ。家族とはいえ、血がつながっているとはいえ、結局は異なる人間の集まりなのだから、お互い全く違う考え方をする者同士だったりもするし、どうしても気が合わなくてお互いを好きになれないことだってあるのだ。親も子供も、お互いを選んで親子になるわけではないのだから。
夏の間は、まだそんなふうに思えなかったので、ずいぶん辛かった。
何度話し合おうとしても、自分の非を一切認めようとしないどころか、
「親子の間には愛情があるはずでしょう?親のやることが自分の好みと少しくらい違ったって、『産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう』って感謝して、親孝行して親を幸せにするのが子供のするべきことじゃないの。それを親のやり方が気に食わないからって、被害者ぶってよその人達に言いつけて回るなんて!花ちゃんは愛情が薄いのよ!お母さんに対して憎しみを持ってることは最近感じてたけど、ここまでお母さんを憎んでるなんて。花ちゃんはお母さんの信頼を裏切ったのよ!お母さんの気持ちなんて考えもしないんでしょう!」
などと言って泣くお母さんのことを理解できなくて、花は途方に暮れた。
夏休みをなんとか切り抜けることができたのは、藤井君や藤井君のお父さんやお母さん、そして何よりハナのおかげだった。毎朝ハナに会えて、どれだけ気持ちが助かったかしれない。藤井君の家にもしょっちゅう遊びに行かせてもらった。
「ハナはね、魔法使いみたいだよね」
ニコニコしているハナとくっつきあって座りながら花はよく言う。
「ハナとくっついてるだけで、とっても幸せな気持ちになって、元気になって、どんなに落ち込んでる時でも大丈夫になるもんね。魔法使いハナだね」
だからハナは最初の日から、私にくっついてくれてたんだよね。私に甘えてたんじゃない。私に元気をくれてたんだよね。魔法の力をくれてたんだよね。
秋のある日曜日、また藤井君のお父さんがケーキを焼いたので、おやつにお呼ばれした。
早めに行って、いつものようにハナとくっついて居間の床に座って藤井君とおしゃべりしながら、花は、一体この世はどうなってるんだろうな、とぼんやり考えていた。
前の日に、またお母さんと話し合おうと試みてキレられてしまい、お母さんが花の部屋の本棚の手の届くところにある本を全部つかみ出して、部屋中に投げ散らかした。
あれが私の家で私の家族で、この平和で穏やかないい匂いのしている柔らかい空間が藤井君のお家で、ダイニングキッチンで楽しそうにおやつの支度をしてるお父さんとお母さんと、ここにいるハナが藤井君の家族で…。おんなじ世界なのに、こんなにも違う空間があるなんて。同じ道の上に建ってる家なのに。それぞれの家の中はまるっきり別の世界なんだな…。ある家の中は天国みたいで、ある家の中は地獄みたいで…
「どうしたの?」
ぼうっとしていたので、藤井君に訊かれてしまい、思わず、
「私も藤井君家の子だったらよかったなあ」
ため息と共に心からの願望が口から転がり出てしまって、花は慌てた。そんなことを言うなんて、はしたない。
藤井君がにこりとする。
「うちの養女になったらいいよ」
「そんな、無理だよ」
「法的にじゃなくてもさ、気持ちだけでも。海藤さん誕生日いつ?」
「十一月十日」
「僕が六月十二日だから、僕の方がちょっと上。だから海藤さんは僕の妹で、ハナのお姉さん。藤井花。で、どうして今は海藤家に暮らしてるかっていうと、そうだなあ、何かの修行のためとか…」
うふふと花は笑った。面白い。
「そうねえ、スパイとして何か探るためとか…、あ、心理学の研究のためとかは?異なる家族タイプの研究」
藤井君が指をパチンと鳴らす。
「いいねそれ!ぴったり!で、大変な研究でストレス溜まるから、ちょくちょく家に帰ってきてさ、こうして休憩してるんだよ。兄と妹と一緒に」
幸せな気持ちで胸がいっぱいになる。ここが私の家。
「お兄ちゃんと妹かあ…」
うっとりして、脚の上のハナの顔を撫でる。ハナが顔を上げてニコニコする。
花お姉ちゃん。
「うふふ。妹のハナちゃん」
「ハナも養女だもんね。うちの養女はふたりとも『はな』」
「すごい偶然だよね。…そっか、そういえばハナも養女だったね」
すっかり忘れていたけれど、ハナも最初はよその家の子だったんだよね。小さい頃は可愛がってくれてた家族に、大きくなってもう可愛くないし邪魔だからって外に出されて鎖で繋がれて、構ってもらえなくて、お散歩にも連れていってもらえなくて、寒い冬にも毛布ももらえなくて…。声まで出なくされちゃうところだった。いっぱいいっぱい寂しくて辛い思いをしたんだよね…。
ハナの黒い目が花を見つめてきらきらした。
でも幸せになれたよ。花ちゃんも幸せになれるよ。
この日を境に、花はお母さんと無理に話し合おうとすることをやめた。もういい、と思ったのだ。
でもそれは、投げやりな、悲しい「もういい」ではなくて、明るい「もういい」だった。
お母さんのことは好きになれなかったけど、私には他にこんなに大好きなひとたちがいる。だから、もういいんだ。
公園には桜並木があって、まるで白と淡いピンクの夢の世界のようだった。ちょっと風が吹くと、たくさんの花びらが舞い落ちる。
「わあ、きれーい…」
「すごいね。桜の世界だ」
嬉しそうに一緒に上を向いたハナの濡れた黒い鼻に、桜の花びらがくっついた。くすくす笑ってとってあげながら、花は心から思った。
ああ、私は幸せだな。
まるで白とピンクの雲のような桜をバックにした藤井君とハナを見ていたら、なんだか目がうるうるしてきてしまった。
私の大事なお兄ちゃんと妹。
「藤井君、ハナ、本当に色々ありがとう。これからもよろしくお願いします」
心を込めてぺこりと頭を下げる。
ハナがニコニコして二人を交互に見上げ、パタパタと尻尾を振る。
よろしくです。
藤井君がそんなふたりを見て楽しそうに笑った。
「こちらこそこれからもよろしく、花&《アンド》ハナ」
読んでくださってありがとうございます。
初めての、隣の世界が入ってこない、現実世界のみのお話です。もう一つそういうお話を書いていて、実は書き始めたのはそちらの方が先だったのですが、完成はこちらが先になりました。
私自身が経験したエピソードなども少し入っていますが、「実話に基づく」というわけではありません。現実世界ではそう都合よく助けはこないし、そう簡単に「好きでいたい」という思いを諦められないし、「この人とはどうしたって平行線なのだ」と気付けるのが随分遅かったりするものです。
次の投稿は「9日間」関連の「3日間」になるといいなと思っています。
私自身の現実世界がこのところ激変しているので、隣の世界よりも現実世界が書きやすい時期であるのは事実なのですが(どうしても現実世界に気を取られてしまうため)、できれば早く「3日間」を完成させたい。頑張ります。