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「どう、して……」
あのヒトはそう呟いていた。でもそれ以上の言葉が出てこない。口はぱくぱくと意味のない言葉を噛み砕いて、顔はこわばってしまったのだ。ただ、こわばり方が、なんというか恐怖からというよりは、笑えばいいのか泣けばいいのかわからなくて、その中間で踏みとどまっているという感じがした。
わたしはあらためて『彼』を見た。
『ひさしぶり、かな』
『彼』はそう言った。
声まであの時、あの頃のままだった。
「ひさしぶり、かもね」
だからわたしも答えた。
あの頃とは違う声で。
「元気してた?」
『妖精に元気も何もあるかよ』
「妖精の王国ではうまくやれてるの?」
『かもしれない。言ったところでお前らにはわからないよ』
「へえ、そうなの」
何気なく交わされる言葉。
何気なく弾んでゆく会話。
そこには特に意味なんてないのだけれど、ふわりふわりと流されてゆくうちに、わたしは本当に妖精の王国に来てしまったのではないかと思い始めていた。
「ねえ」
『何だよ』
「ここは、妖精の王国なの?」
間があった。
『いや、ここはお前らの世界だよ。俺がそっちに来たんだ。何だか、呼ばれたような気がしてさ』
と、『彼』はわたしの隣りに目を向けた。
『どうしたんだよ』
「えっ」
『なんで俺なんか呼び出したんだ。お前、もう俺とは関わりたくないって顔してたくせに』
「違うよ。そんなこと思ってない」
『いや、思ってたさ。俺の言葉がもう信じられなくなって、騙されるものか、て顔してた。だから印を無くすんだよ。バカだなあ』
ぐっと言葉に詰まる。
その様子を見て、『彼』は笑った。
『そんな顔してどうするんだ。過ぎたことはいまさらどうにもできないさ。ただ……』
と、『彼』は一旦言葉を切ると、妙に人間臭い、淋しそうな顔をして、
『ひょっとすると、俺もお前らに憧れていたんだと思う。でなかったら、こんなところに戻ってこなかったからな』
思わず笑ってしまった。
「なに、淋しかったの?」
『じつは妖精は淋しがり屋なのさ。ヒトの世界にちょっかい出して、取り替えっこするのが俺らの数少ない楽しみなんだよ』
「それじゃあ、どっちが妖精で、ヒトなのかわからなくなっちゃうじゃない」
『わからなくていいだろ。じゃなきゃ取り替えっこは成立しない。でもその気になれば、いつでも取り替えっこできる。お前らがそうしたいなら、俺がやってもいいんだぜ』
「んー、わたしは遠慮したいな。もう逃げないって決めたから」
『そっか』
そう呟く顔はちょっと嬉しそうでもあった。
再び隣りを見る。
そこには置いてけぼりにされた、あのヒトの虚ろな顔があった。
『お前はどうする』
『彼』は言った。
『お前は、妖精の王国に行くか?』
つかのまの、沈黙。
わたしは、ひょっとするとあのヒトは行ってしまうのではないかと思っていた。だって、さっきまでの話が話だったし、妖精に憧れていたのは、他ならぬそのヒト自身だったから。
思えば、『彼ら』は互いが互いに持ちつ持たれつの関係だったのだろう。片や妖精を強く信じ、もう一方はそれをどこかで疑いながら、現実に属している。
ふたりは正反対のようで、どこか似ている。それはそのまま、妖精とヒトが、子供と大人が、空想と現実とが正反対のようでじつは同じモノだってことを示している気がした。それはコインの表と裏というほど生易しいモノなんかじゃなく、オセロゲームのように状況に応じてひっくり返ってしまうのだ。
だから、その時がきたら、あのヒトは行ってしまう。
と、思ってたら。
「いや、ぼくは行かないよ」
『へえ?』
「ぼくには行く資格がない。印がないって意味じゃなくて、ぼくはもう君といっしょにいる必要がないんだって思うから」
『やれやれ、まだ大人のフリがしたいのか?』
「いいや、ただ、途中で信じることを止めたヒトに、妖精といっしょに暮らすのは難しいと思っただけのことさ。ぼくはぼくなりにやるよ。君の提案に乗るのは、もうそろそろ止める」
『つれないやつだな』
「大学ではよくそう言われるよ」
『まあ、それがお前の選択ならべつにいいけどさ』
と、『彼』は破顔すると、まるで門限があるからという具合にわたしたちに背を向けて、
『まあ、また来るからさ。ヒマがあったらまた話そうぜ。俺はいつもこの辺にいるから』
そう言って、いつの間にか消えていた。
なぜか別れぎわの『彼』の声が、わたし自身の声のように聞こえ、耳にこびりついていた。