第8話 祈祷
「神よ、どうか私たちを大いに祝福してください。祝福の地境を広げてください。御手を私たちの上に置き、あらゆる災いから護り、すべての苦しみを遠ざけてください。そうして、一切のことを御心のままに行ってください。あなたこそ、生きておられる唯一の神だからです。あなたの深い御愛に心から感謝致します。その憐れみは、永久に尽きることがありません。慈しみ……」
並ぶ十の遺体を前に、若き神官が錫杖を携え、延々と続く聖詩を詠う。
本来宴会場として使われていた大広間は、防衛戦で臨時作戦本部となり、最終防衛術式が展開して以来、教会の雰囲気を擬えた儀式場となっていた。
各処に戦闘の痕跡が残るものの、信仰のシンボルを飾ったことにより廃れた静寂が流れ、集う者に落ち着きをもたらす空間とかわった。
頭を垂れて、両手を組む。
現在屋敷内の者はほぼ全員が壇上の少女の声に耳を傾けている。
西大陸に住まう者の多くは信者であり、生まれた時から神に祈り、神を敬ってきた。このような絶望的な状況下で、自ら命を絶とうとする者が出なかったのは、ひとえにまだ神官が残っているからにほかならない。
神はまだここを見捨てずにいる。
そんな確かな信念が人々を支えている。
「では、これにて葬儀を終了いたします」
目の前の聖典を閉じて、金髪の少女が宣言する。
若干疲れが滲む顔に、精一杯の落ち着きを漂わせながら。
ここ数日の、身に纏った神官服に恥じぬ働きをするために、彼女の苦労が伺える。
その不慣れを覚えつつも懸命に頑張ろうとしている少女の姿を、クリシスは見上げた。
ただほかの者と違って、さきほどのでき事が脳内に遊離しているせいで、真剣に祈りを捧げることはできなかった。
葬儀は死者のためではなく、生者のためにある。
そういう理屈に合った逃げ道もあるけど、亡くなったクンペルに申し訳なく思えて、クリシスはさらに落ち込んだ。
せめての救いは、リサとベーゼがこの場にはいないことだ。
リサは事情があって教会の儀式には立ち入れない。
ベーゼは堅苦しい場が苦手だと肩を竦めて颯爽と立ち去っていった。
そばにいればリサはかまってくるし、ベーゼは絡んでくる。
一人でいたいクリシスにとって、どちらも避けたいものであった。
「遺体は聖水を浴びせたのち空いた部屋に運ばれます。みなさん、改めて申し上げます。くれぐれも許可なしに部屋にお入りにならないでください。神の定めた日時以外の日に埋葬するのは死者への冒涜、どうか、眠りに落ちた彼らに安らぎを」
壇上、見習い神官のトリアが目礼をして、儀式が一段落になったことを告げる。すると、人々は一礼を返して、ぞろぞろと大広間の外に向かい始めた。
時は夕暮れ、そろそろ夕食の準備に入る頃合いだ。クリシスの記憶では屋敷全体が忙しくなる時間だが、いまや異常なほど静かだった。
――今晩もまた十人も亡くなる。
この事実はいやでも突き刺さって、どんよりした空気を作った。
「隣、よろしいでしょうか」
あっ。
顔をあげると、神官服を纏った金髪の少女が横から覗き込んでいた。
クリシスは極力目立たないように隅のほうに座っていたつもりだが、まさかわざわざ傍まで寄ってくるとは思わなかった。
「ええ、トリア様、どうぞ」
それでもなんとか笑みを作って、クリシスは平常心を取り繕おうとする。
「無理して気を張らなくても構いませんのよ。わたくしは大丈夫ですから」
綺麗な蜂蜜色の瞳が何度も瞬きして、トリアは優しく微笑む。
静かで、何もかも受け入れようとする聖職者の雰囲気だ。
その真意を悟った途端、クリシスの細い肩ががくんと落ちた。
「やはり、気づかれてしまいますよね」
「あっ、ええと……」
まさか自分の一言で相手がさらに落ち込むと思わなかったのか、トリアは言葉に困った。
「申し訳ございません。上に立っていると見えてしまうもので、その……クリシス様が辛そうな顔をしていましたから」
「いいえ、謝るのはむしろ私のほうです。申し訳ありませんでした、トリア様。もともと私が仕切らなければならないのに、全部あなたに押し付けるような形になってしまって」
「そんなの、とんでもございません」
トリアは慌てて手を振る。
本来まとめ役を務めていたクンペルが亡くなり、代替の者が必要になった。
元々警備隊長のファルミが最も適任だったが、頭がそこまで回らないとやんわり断られて……かといって、クリシス自身も要塞に戻ったばかりの身で、記憶喪失の状態である。
それでトリアにお願いしてみたら『迷える子羊を導くのが、神がわたくしたちに与えてくださった大事な役目ですから』と二つ返事で了承した。
実のところ、トリアもかなり無理をしていることぐらい、クリシスも察している。
司祭が詠う時、聖典はただのお飾りのはず、にもかかわらず葬儀の途中、トリアは何度も聖典を捲り、目を通した。
過去で見たブッソラ司祭のミサでは、一度もなかったことだ。
――未熟ゆえの見習い。
しかしそれでも、彼女は懸命に小さな体を張って、この場で神官の役割を果たそうとしていた。現に傷心しているクリシスに気を使っているのも、なによりの証明だ。
それが逆に、欠陥姫の心を深く抉ることになった。
「ええとその……ところでクリシス様、最初お目にかかった時から気になっていたのですが、クリシス様は時折変わった歩き方をされています、よね。もしかしてどこか具合が悪いのでしょうか」
しゃがみこんで、トリアはクリシスの手を取り、包む。
聖職者なら信者に対してよく行う会話の一種で、周りからでもごく自然に見えるが、クリシスはふっと違和感を覚えた。
「あっ、ごめんなさい。驚かせてしまったようですね」
その一瞬の困惑を、トリアは見逃さなかった。
「女性らしくないでしょう」
控えめな笑顔を作って、トリアは手を開いてクリシスにみせる。それは柔らかい少女の柔肌ではなく、やや黒く、やや硬く、仕事をよくこなしていた手だった。
「でも、ありがたかったです。私の故郷、不死者のせいで滅んでしまいましたの。運良く助けられて、教会の孤児院で生活するようになりました。それでお手伝いでね」
薄々と語る言葉。
悲しみのむこうに漂う感謝の念は、とても嘘とは思えないほど深い情念がこもっていた。
――不死者。
それは西部諸国において魔族よりも忌まれるもの。
神に選ばれる者にだけ授かる祝福に対し、不死は呪いとして災厄を撒き散らす。
一説によれば、不死者が出現した地はすべて荒野になり果てるとか。
およそ十年前、ハルトマン領の隣に位置する小国ヒルンドー王国も不死者で地獄に変わった。
教会が不死者討伐の専門家――異端討伐隊を送り込んで、なんとか災難を沈静化させたものの、結局国は滅んでしまうほどだ。
当時難民が一気にハルトマン領になだれ込んだことは、いまでもクリシスの記憶に新しい。
だからこそ、彼女はこのような状況でも頑張れたのでしょう。
苦い感情を抑えて、クリシスは本心でそう思った。
「辛気臭い話はやめましょう。その、話をそらしてしまいました。さきほど一度申しましたけれど、クリシス様は時折歩き方が辛そうなのですが、もしかしてお怪我をされていませんか」
「それは、はい……でも、かなり爛れていると思いますが」
丘で駆けたせいで、ひどい火傷を受けた足。
クリシスが屋敷に戻ってきて以来色々ありすぎて構う余裕はなかったけど、言われてみればじんわりした痛みが過る。
もしかしてベーゼからもらった薬の効果がきれているかもしれない。
その経緯を、クリシスはトリアに説明した。
「よろしければ見せていただけませんか。わたくし、こう見えて神官の端くれで、治療はよくこなしているのです」
さきほどの陰鬱を打ち消すように、若い神官は薄い胸を張る。
その好意を拒絶するほどの余裕を、いまのクリシスは持ち合わせていなかった。
「では、言葉に甘えさせていただきます」
ブーツを脱ぐ、続いてタイツ。
クリシスの肌足が露わになるとともに、草薬の匂いが混じった生臭さが一気に蔓延した。
自分では見えにくい足裏だけど、クリシスはどんなひどい状況か想像がつく。
「ごめんなさい。やはり、」
「大丈夫ですよ。おまかせください」
言い終えるよりもはやくのことだった。
薄い光がトリアの錫杖に集い、クリシスを包み込む。すると温かい感触とともに、痛みが引いていく。
「尊き神よ、我らの願いを聞き入れたまえ」
上級治療術……。
クリシスが目を見開く。
身体の一部ではなく、継続的に全身を治療する魔法を、トリアは長い詠唱を省いたまま使った。クリシスの知る限り、これは大司祭レベルでしか使えない高度な技だ。
「驚かせてしまったようですね」
若干申し訳なさそうに、トリアは手に持った錫杖に目をやった。
「実は、全てこの錫杖のおかげです。なんと申せばいいか。教会の技術で、このように聖職者であれば誰でも使用できる祭器を創り上げました。元々ブソッラ司祭が所有しているものですが……亡くなって、わたくしが継ぐような形になりました」
「そう、ですか」
教会がこのような技術を所有しているのも驚きだが、クリシスはむしろトリアがこんな秘密を軽々しく口にしたことに衝撃を受けた。
「いいのですか、こんなことを私に教えて。一応、教会の秘密のようですが」
はてなと、クリアが頭を傾げた。
この娘、いつも肝心なところが抜けているような気がする。
クリシスは頭を押さえるのだった。
「トリア様、遺体運搬の準備が整えました」
甲冑姿の人が近づいてくる。
ファルミだ。
後ろには生き残りの守備軍が構えていて、クリシスを見て一様に拳を胸もとにぶつけて、一礼をした。
葬儀が始まって一番前に立っていた彼らは、終始毅然とした顔だ。
今晩が狙われるというのに、戦友の遺体を前に、むしろ決心を固めたように見えた。
「ええ、すぐ参ります」
会釈して、トリアは再びクリシスの足を見る。するとほんの一瞬だけ、息が止まった。
?
「どういたしましたか」
クリシスは若干の不安を覚えて問うが、トリアはにっこり微笑んだ。
「いえ、ただほかの方よりも回復の速度がはやいので、ちょっと驚いただけです。クリシス様。少し動かしてみてください」
言われた通りクリシスは足を勝手な方向に曲げたり、地面についたりして、痛みはすでに嘘のように消えていた。
「ありがとうございます。トリア様」
「大したことではありませんよ。教会に信仰を捧げる者として当たり前のことをしただけです。では、わたくしはこれで」
立ち上がって、トリアは再び壇上に戻る。
その後ろ姿を見て、クリシスは深い息を吐き出す。
他人に迷惑をかけてばかりで……ほんとう、なんのために戻ってきたと思った。




