プロローグ 目覚め
黒焦げた大地。
正確に言えば森だった場所。
少女は膝を抱えて、丸まっていた。
緑が潰えて、パリパリと断末魔をあげている木々。
その華奢な身体は腰まで届く深紅の髪に覆われ、細い息を繰り返す。
周りは視線の先まで続く焼き払われた跡。炭化した植生から赤い糸が明滅して……そのたび、少女の整った顔は歪んでいく。
彼女は夢を見ている。
手足がぬるぬる溶けて、胸の底から煮えくりかえった灼熱が零れる夢を。
血がめぐるたびに身体中がはり裂けそうな痛みにおそわれ、激痛で思考が麻痺して声すら出せない。穴という穴から熱気が噴き出し、ただ本能のまま四肢を振り回し、藻掻く。
(じょ……ゃん)
誰かが呼んでいる。
藁にも縋る思いで必死に身体の制御を取り戻そうと、少女は逆に抱える膝に力を込めてしまい、指が柔らかな肌に食い込んだ。
(じょうちゃん)
「くっ」と苦しげな声が喉の奥から零れる。
少女の美しい顔がさらに苦痛の色に染まり、半ば本能的に首を守ろうとする。しかし意識が混濁したせいで、文字通り自分の首を締めることになった。
「嬢ちゃん!」
突如耳元に響く大音量。少女はビクッと震える。
おかげで自然と目が開き、真っ暗闇に包まれた獄炎から解き放たれた。
体が空気を求めて反射的に口を開くが、喉に引っかかって、咳を起こす。
「よぅし、ちゃんと目覚めたな」
少女のぼんやりした視界に、無精髭が目に映る。
それが男の顔だと認識できるまで何秒もかかった。
「ぁっぃ」
零れる第一声は、彼女自身も驚くほど弱々しいものだった。
「そりゃ無理もねぇよ、辺りはこんなざまだしな」
男は苦笑する。
上は曇天の空。焼き払われた大地の間に挟まれ、すぐにでも押し潰されそうな剣呑があった。こんな所で、むしろいい夢を見るほうがおかしい。
「爆風に巻き込まれた時はまずいと思ったが、とりあえず無事だったようだな」
にんまり笑い、男は少女から離れるように立ち上がる。
年齢は、四十代前後だろうか。恣意に伸ばした無精髭で判断しにくい。みすぼらしいマントを羽織って、腰には長短不揃いの剣が二本下がっている――いかにも冒険者らしい装束だ。
でも、男の姿を確かめた途端、少女は半ば反射的に背向けた。
「隠そうとしても意味ねぇぞ。さっき隅から隅まで診てたからなぁ」
「隅から隅までって、あなた、私が寝ている間に何を、!」
しゃがみ込んで、少女の頬は茹でたように紅潮する。
なぜなら、彼女がいま体を抱きしめる手から伝わる感触は生地のそれではなく、肌の温もり――つまり、裸なのだ。
「おっとと、そりゃひでぇぞ嬢ちゃん。こっちは大事なスクロールを使ってまで助けてやったのによ。感謝されることはあっても、怒られる筋合いは無ぇぜ。足元を見てみろ」
「それは……」
少女は視線を地面に落とす。
木々の残骸に、一枚の羊皮紙が転がっていた。
魔道具の相場について疎い少女でも、これはかなり高価なものということぐらい分かる。そして、周りがひどい状態にもかかわらず自分の体のどこにも異常がない違和感も浮かび上がった。
すこしだけ身体の向きを変えて、少女は男を覗く。
へらへらと口を割って、少し離れたところであぐらをかいている。
真人間には無縁だろうが、さすがに邪悪には見えなかった。
「申し訳ありません。その……状況を把握できずに勘違いをしてしまいました。せっかく助けていただいたのに、お礼は、屋敷に戻ったら必ずいたします」
しゃがんだまま、少女は若干上ずった声で詫びと感謝を述べる。
彼女が幼少期から叩き込まえた礼儀作法に沿えば、本来なら相手に向き合って話す言葉だが……ただでさえ最近女性としての身体が成長し過ぎて戸惑っているのだ。一糸まとわぬ姿を男に見せるわけにはいかない。
「ですけど、おじさん、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「どうして私は裸のままなんでしょうか。もしかしてスクロールの使用に衣服の着用禁止とか、そういう条件がありましたか」
「いや、そんなことはない。ただ……」
さっきまでの男が纏っていた飄々とした雰囲気が消えた。
彼は言い淀んで、一度目を逸らして煙で黒ずんだ空を見る。
「あれだ。爆風に直撃されたから、嬢ちゃんの服は全部焼かれたんだ。スクロールで治したのはいいが、服まで戻るわけではないんで」
「そう、ですか」
思いのほか重傷であることに、少女の心から納得の感情がこみ上げてくる。
だからあんな夢を見てしまったのか。火に溺れて、苦しく藻掻く夢を。
「ところで、私はどのぐらい寝ていたのでしょうか」
「ふむ、ざっと三時間ぐらいかな。それなり長かったが、気に病む必要はない」
手を広げて、男は自慢げに言い放つ。
「こんな殺風景なところで何時間も無為に過ごすのもどうしようもないと思って、体のほうをじっくり鑑賞させてもらったよ。ハハハッ。いやぁ~~、おじさんとしてはいい経験だったよ」
不意に体を支配しようとする脱力感を堪え、少女は半眼になる。
何かに呆れて、あるいは軽蔑を表したい時、彼女はいつもこんな目つきになる。
「正直な答えが聞けて嬉しいですが、気持ち的にはとても納得できません。女性としては最悪の経験です」
「ごもっともだ。すまんすまん」
ボリボリと頭を掻いて、男は悪びれる様子もなくヘラヘラとマントを差し出してくる。
少女はすぐそれを身に纏った。
汗と焦げた匂いが混じってはいるが、わがままを言っている状況ではなかった。それに……
「おじさんは一応私を守ってくれたようですね。改めてお礼を言わせてください。ありがとうございます」
「おお、話が分かってるじゃねぇか。嬢ちゃん」
立ち上がって、今度こそ相手に向き直って少女は頭を下げる。対して男の態度は誰から見てもぎこちなく感じてしまうだろう。
感謝半分、呆れ半分。なんとも言えない微妙な感情が少女の心を捉えた。
「クリシス・フォン・ハルトマンと申します」
とりあえず、少女――クリシスは自己紹介をした。
双方の情報を交換することによって、命の恩人(仮)に対する警戒が解けるかもしれないと思ったからだ。
「その、状況が少しわかりませんが……おじさん、お名前を教えていただけないでしょうか」
しかし、その一言で男の顔がこわばった。
「嬢ちゃん、さっきから薄々勘付いてはいたが、まさか記憶が抜けてるのか」
「記憶が……抜けてる?」
クリシスは首を傾げる。
言われてみれば確かに頭に何か靄がかかったような焦燥感がある。
「最後まで覚えているのはいつだ」
「そう…ですね。日時で表すなら教皇暦1657年の9月8日の辺りかしら。昨日寝る前に本を読んだところまで覚えていますわ」
「そっか……こりゃ少々厄介だな。一ヶ月ほどの記憶が抜けてる」
「一ヶ月、ですか」
「ああ、今日は10月13日だからな」
クリシスは考えふける。
もしや騙されているのでは?
と一瞬頭に過ぎった。
でも、嘘にしてはあからさまに怪しい……
居場所は焼き払われた森の中、記憶喪失のことはさておき、知らない間に自分の身にただならぬ事態に陥ったのはたしかなのだ。
「やけに冷静だな。嬢ちゃんは」
「慌てたところで意味がありませんので」
じっくりと、クリシスは男を観察しはじめた。
ボサボサの鼠色の髪、無精髭、加えて身に纏った服装には汚れと染みだらけ。長旅でろくに手入れしていないせいだろうか、下町でもあまり見かけないみすぼらしさだ。
でもクリシスには分かる。これはあくまで騎士を計る時の基準だ。
背中には雑嚢。ベルトには多くの小道具。加えて腰には長短不揃いの二本の剣。長いほうは包帯で巻かれて形しか分からないが、短いほうは至るところに傷痕が見えた。かなり長い歳月を共にした相棒だろう。
そして、なによりこんな廃れた場所にいるにもかかわらず、男の顔には終始余裕たっぷりの笑みが浮かんでいる。手足に包帯を巻いているところといい、まさしく修羅場をくぐり抜けた猛者の雰囲気だ。
「ではおじさん、状況説明をくださります?」
ひとまず、クリシスは話を聞いてみようと思った。
「その前に嬢ちゃん、念のため一応情報を照らし合わせしてみよう」
「というと?」
「オレが知る範囲の情報と、嬢ちゃんの記憶が一致しているかどうか確かめるんだ。現存の記憶に齟齬があったら大変だしな」
ふむ、とクリシスは唸る。
「一理ありますね。でもどうやって?」
「簡単さ、オレが嬢ちゃんに関することを言って、もし違うと思ったらすぐに言うといい」
「なるほど、これなら私が不意に情報を流すこともありませんし。かつおじさんが本当に私の関係者なのか確かめられるわけですね。妥当な提案です」
男は苦笑した。
「嬢ちゃん、まさかオレを信用してないのか」
「当たり前です。助けていただいていたとはいえ、何時間も女の子の裸を鑑賞するような変態さんを安々と信用するほどお馬鹿さんではありませんよ」
はは、こりゃまいったな、と男は快活に笑った。
「とにかく知ってることは言ってみるよ。クリシス・フォン・ハルトマン、くん」
フルネームで呼ばれ、クリシスは無言で続きを待つ。
「辺境伯ハルトマン家といったら、まずは勇者の輩出する家系として知られているだろう。いま86代目の勇者サルース・フォン・ハルトマンはまさに嬢ちゃんの兄だ。それに、先先代?82代目、」
「83代目です」
曾御祖父様の称号が間違われそうなので、クリシスは訂正する。
「あぁ、そうそう。83代目も確かハルトマン家の出だったな。とにかく、古い名門に生まれた嬢ちゃんはしかし父と同じく生まれつき体が弱く、ゆえに武を嗜むよりも本をかじることが多かった」
「それは、」
「それは違う。と言いたいのは分かるぞ。知ってるよ、これは世間一般的な見方だ。なにせ嬢ちゃんは別に体が弱いわけではない。ただ、幼い頃から兄がすでに勇者に選ばれたから、万が一のため後継者を残す意味でもこっちのほうが好都合なだけだ」
「……」
どうだ?
と言わんばかりに、男は得意げに笑う。
「父譲りの深紅の髪に、母譲りの白藍の瞳。整った顔立ちと、恵まれた家庭と教養による品の良さ。世間では花を愛でる清楚なお嬢様が共通の認識だろう。ただ実際のところ、嬢ちゃんは両親に冷遇され、勇者である兄に引け目を感じてる。まぁ、一言で言えば、ただの可哀想な娘だよ」
「それぐらいにして」
今度はクリシスの顔がこわばる。
「おじさんはいったい誰ですか。こんなこと、屋敷の中でも数人しか知らないはずです。知っているというよりむしろ知りすぎています」
こう糺しては認めたと同義だ。
でもそんなことどうでもいいぐらい、クリシスの心がズキズキ軋んでいる。そのせいで、気持ちが迷路に入ったように、落ち着きが抜けていく。
「肩書きはいくらでもあるんだが……ふむ。じゃ、ひとまずはベーゼとでも呼んでくれ。こっちのほうが分かりやすい。半月前、嬢ちゃんの父、ハルトマン卿に娘を勇者のところに届けるようにと頼まれたんだ。だからここにいる」
そう言って、男は懐から丸められた紙を取り出す。
「おまえの父からの手紙だ。読めば分かるだろう」
「お父様の手紙……」
受け取って、クリシスはしわくちゃになった手紙をなんとか戻し、目を通す。
字は、本当に彼女の知る父親の筆跡だった。
『特級冒険者 ベーゼ様へ』
という文面を初め、堅苦しい挨拶と、大体、先ほどベーゼが話した通りの内容が記されていた。しかし、読んでいるうちに、少女の顔からすっと血の気が引いていく。
「これは、いったいどういうことですか!」
――我がハルトマン領は直に異形に落とされるだろう。領主として、自分は城とともに朽ちる義務がございます。ただ、もし拙女が御眼鏡に適うならば、ぜひとも弟子にしていただきたい。ご覧の通り素質上欠陥のある娘ではあるが、貴方なら、きっとよく導いてくださるはずでしょう。
これでは、まるで遺言だ。
混乱に陥る寸前。
そしてハッと、クリシスは気づく。
起きてからずっと心を蝕んでいた違和感。
焼き焦げた森、焼き払われたが、ここは確かに見覚えのある場所だ。
「おい!嬢ちゃん」
クリシスは走り出した。
既視感を頼りに、癒えたばかりの身体が勝手に動いていく。
足裏からヒリヒリした熱さが伝わる。淀んだ空気で肺が圧迫され、目眩が激しくなる。
それでも彼女は止まらなかった。
前へ、前へ、躓きながらも必死に焦げ落ちた森の外へ掻き分ける。
名状しがたい焦燥がある可能性に繋がって恐怖となり、抑えきれない衝動と化す。
最後にたどり着いた場所は、領地のすべてが一望できる山添の山道。
草原と川と、城壁に守られた居住区。
そんなクリシスが慣れ親しんだ風景は、いまや赤の一色に塗りつぶされている。
無数の死体が転ぶ草原、血に染められた川、紅蓮に燃やされる居住区。そして…中で跋扈する人ならざる者の群れ。
いくつもの関節でできた脚で、何もかも踏み潰す異形。蟹の鋏がついた強靭な尾で人間を掴み解体し、顔と呼ぶのも憚れる軟体の胴体にひときわ大きな目玉がキョロキョロと動き回る。
あれは魔王の造物――関節型。
知恵を持たぬ代わりに強靭な肉体を手に入れ、本能のまま生者を貪る使い勝手のいい下僕。
クリシスは脳が割れそうな痛みに襲われ、同時に記憶の一部が頭の深部から這い出る。
なのに……どうしてそれらが視線の至るところに徘徊しているのか理解できなかった。
記憶の齟齬は、やがてとてつもなく残酷な形でクリシスの瞼に突きつける。
一方、滅びをもたらした元凶たちは少女の呆然など意に介さない。
建物の残骸をさらにかき回し、あるいはすでに姿形が崩れた血みどろの何かを咀嚼しながら……その多くは、一箇所に集まりつつあった。
緑。
天と地を繋ぐ柱を彷彿とさせる光の中、町の中央に陣座する要塞は押し寄せてくるモノ全てを阻む。
濁流の如く城塞に纏わりつく異形。
無限に広がる真っ赤な世界に、たったひとつ翠明の緑が天地を繋ぎ、異色を放つ。
「最終防御術式……」
死と絶望に潰された故郷をまえに、クリシスは崩れ落ちた。




