第18話 魔族
これは、夢。
そうクリシスははっきりと認識できている。
城塞から一望できる下町の風景、賑やかな朝市。地平線のずっと先まで続く畑に点在する農家。それは幸福と安心が漂う、かつてのハルトマン領だ。
頬を撫でる風は暖かく、紅蓮に燃やされていなければ、煙で空を覆われてもいない。人に落ち着きをもたらす、自分の生まれ故郷。
なのに、クリシスの身に纏っている服は術式に戻った時のままだ。
シャツを着込んでからのコルセット式のスカート。下はガーターつきのタイツにロングブーツ。動きやすさを重視する、選びうる最善のコーディネート。
そのうえ、服も乱れ、爪痕があちこちに食い込んで出血している。
だからこれが夢だと分かる。
分かって、受け入れていた。
「サルース、これどう処分すればいいだろう」
「そうだね……でも処分という言い方は失礼だよ。彼女は少なくとも半分は人間だ。すぐ謝ったほうがいい」
「はっ、確かに無神経だった。すまなかった、お嬢さん」
城塞内部、下ベイリーにある練兵場の片隅に、まだ勇者候補だったサルースと守備軍小隊長のファルミは佇む。日々鍛錬を怠らない二人がここにいることは決しておかしくないが、二人とも腕を組んでいる姿はクリシスは初めてみた。
どうやら何かしら悩み事でもあったようだ。
「どうなさいましたの?」
「や、クリスではないか。我が可愛い妹よ!」
見るなり抱きつこうとする兄を、クリシスはすっと避けて、半眼になる。
「お兄様、十歳の女の子をこのように扱うのは犯罪ですよ」
「しくしく、クリシス、兄さん、悲しいよ。二ヶ月十日前までお兄ちゃんっ子だったのに」
燃えるような赤い髪、意志の宿る赤い瞳。第86代目の勇者サルース・フォン・ハルトマンはいたたまれない顔持ちになる。
普段は優男のサルースは妹のクリシスをみるといつも甘やかそうとする。いまだからこそクリシスは思うが、もしかして兄はその時から妹馬鹿と呼ぶべき存在になったのかもしれない。
「クリシス様、おはようございます」
ファルミはビシッを伸ばし、クリシスに軍礼をした。
いつものように命の恩人であるサルースに対して砕けた言い方をするが、ほかの者に対する態度はつねに生真面目で丁寧だった。
「おはようございます。お兄様、ファルミ」
スカートを軽く摘みあげて、クリシスは一礼をする。
「で?ここで何をなさっていますの」
首を傾げて、少女は疑問を繰り返す。
「はっ!実は」
そう言いながら、ファルミは身を一歩引く。その後ろ、幾つか木製の檻があった。シミと汚れが付着して、お世辞にも綺麗とは言えない状態のものだ。
その中身を確認した瞬間、クリシスは目を丸くした。
「人?」
小麦色の肌の少女が、中に縮こまっていた。
背の丈に合わないシャツを着込んで、琥珀色の髪もひどく薄汚い。人を見る目はぼんやりとしていて、焦点が定まらない。
まるで捨てられた人形のようだと、クリシスは思った。
「昨日闇市を取り締まったところ、違法経営の奴隷商人が魔族を扱っていることが明らかになりました。魔族は全部教会のほうに届いたのですが、このお嬢さんは人間と魔族のハーフでして、処分に困っているところです」
「なるほど……」
クリシスは頷く。
教会にとって魔族は悪と断ずるならば、勇者にとって人間は善であり、護るべき対象だ。だからサルースはすぐ彼女を教会に届けず、ここに置いたのだろう。
半分が魔族でも、あと半分は人間である。
もし教会に預けたら、行き先は異端審問という名の処分になる。
それにしても……獣みたいに檻に入れたままなんて。
震える少女を見て、クリシスは苦しい表情になった。
「彼女を出して大丈夫でしょうか。身柄を確保するなら、別に檻に入れなくてもいいのでは?普通の犯人みたいに扱えばいいですし」
そう提案すると、サルースは難しい顔をした。
前髪を掻き上げて、視線を斜め上に向ける。
クリシスは知っている。
兄が悩む時、たいていこうなるのだ。
「お父様が?」
「ハハハッ、さすがクリシス。よく分かりましたね」
「いいえ、長くお兄様と一緒にいれば私でなくても分かると思いますよ。そうでしょう?ファルミ」
「いいえ、自分には分かりませんでした」
生真面目にまた礼を一つ。ファルミは返事する。
「あなたは馬鹿ですからいいわ」
短く息を吐いて、クリシスは檻のほうに向き直る。
貴族家で育てられた彼女にとって、正直いま鼻に当たる匂いは少し耐え難いものだった。排泄物の臭気と汗の酸味が混じり、鼻のずっと奥まで刺さってくる。
でも、きっとこの娘も好きでこんなふうになったわけではないとクリシスは思った。
「このような形で申し訳ないけれど、お菓子、食べます?」
視線が合うように、クリシスは屈む。
歳相応に振る舞おうと、普段は甘い物を持ち歩いていたおかげで、こういう時は役に立った。
「どうやら飴というものを知らないらしいな。いや、それよりも言葉が分かるどうかも怪しいか」
クリシスがポケットから出した飴を、少女はさきほどと変わらぬぼんやりとした視線で見る。それを見たサルースはため息混じりにクリシスに説明した。
「そう、なんですか」
クリシスは一瞬暗い顔になるが、すぐに気持ちを切り替えた。
!
「うぬ!うぬ、うぬぬぬう!」
相手を驚かせないように、クリシスはゆっくり手を伸ばす。
それが柵を通った途端、少女が突如声にならぬ絶叫を喚きはじめた。
縮こまる瞳、琥珀色の髪を振り回して必死に後ろに縋ろうとする。
しかし檻に囲まれているせいで、その挙動は徒労に終わる。
これが怯え、だろうか。
生まれて初めて直面する感情に、クリシスはひどく衝撃を受けた。
「クリシス!」
「大丈夫です。お兄様、ちょっとびっくりしただけですから」
依然震えが止まらない少女に、クリシスは挫けずさらに手をのばす。
すると少女はパタと瞼を閉じて震え始めた。血色の抜けた肌がさらに蒼白に染まり、胎児のように膝を抱えて縮こまる。
襟の隙間から覗く肋骨。
檻に閉じ込められたことでも想像がつくが、少女は重度の栄養失調に侵されていた。恐らくいままで人間、あるいは動物以下に扱われていただろう。
「怖がらなくていいよ。私はあなたの味方ですから」
自然と込み上げてくるのは、クリシス自身も驚く優しい声だった。
「うっ!」
きょとんと、少女は目を丸くした。
「これ、食べてみる?」
無論、これを見逃すクリシスではない。
飴を取り出し、言葉では通じてないと思って、クリシスはまず手本を見せることにした。
(舐めているよ)
と飴を口に含んで、指で自分の頬を突く。
若干戸惑いつつも、おどおどと、少女は琥珀色の瞳でクリシスを覗く。おかげで逃げようとする動きもぱたりと止まって、クリシスは飴を少女に握り込ませることができた。
それで安心しただろうか。
少女は視線をクリシスの顔に止めたまま、見様見真似で恐る恐る飴を口に含んだ。
あわわ。
ぱっと、少女の顔が咲いた。
クリシスにとってそれはとても喜ばしいことだが、なぜかその琥珀色の瞳から突如ボロボロと涙が溢れ出た。
「兄さん、」
予想外の事態に、クリシスはどうすべきか分からなくなった。半ば反射的にうしろの兄に助けを求めようとして……しかし振り返ると、あっと言葉を失った。
「何をしている」
いつものローブ姿で、父――ズィーゲル・フォン・ハルトマンがそこに立っていた。
「お父様……」
「何をしているんだ。クリシス」
口調は硬い。
でも怒ってはいない。
クリシスは知っている。
父は厳格だけど公正な人だ。
人を差別するはずもなければ、感情的に物事を進むのを恥とさえする。
ただ、二ヶ月前母が心の病を患ってからずっと不機嫌だった。
「父上」
クリシスが固まって答えないのを見て、サルースが一歩寄ってきた。
「これが例のハーフの子?」
「はい、魔族はみな教会のほうに届きました」
いそいそとクリシスは立つが、すぐサルースの傍に控えた。
一方魔族の少女は再び怯え、口に咥えた飴を隠すように身を背ける。
そんな少女を見て、ズィーゲルは手を顎に添えた。
「サルース、お前はどう処分すればいいと思う」
クリシスにとってはいつものことだ。
何か決断する時、父はよく兄に聞く。
満足のいく答えがでたら頷くが、そうではない場合は自分の意見を述べる。
次期当主を育成する、ハルトマン家のやり方だ。
「正直判断するのが難しいところです。子供にはなんの罪もありません。かといって、魔族の血が半分混ざっていれば……この状態だと、常人みたいに生活するのは難しいでしょう。教会の孤児院に預けることもできません。それに、魔族だって彼女を仲間として扱ってくれると考えにくい。結局のところ、辺鄙な山村に届け、そこの誰かに預けるしか」
それは、いまより少しばかりマシな程度のものかもしれない。それでも闇市で捌かれ、奴隷としていたぶられて死ぬよりずっと人間味のある結末だ。
満足に至らなくても、納得のできる結論。
でも、クリシスの知る兄ならそこで終わらない。
なぜなら、彼もまたハルトマン家の一員だから。
「しかし、勇者としては常に人類のために正解を選び続けなければなりません。心苦しいですが、たとえこんな状態でも、彼女は魔族の血に染まってしまったのです。彼女自身が人間の敵にならない保証はないし、産んだ子供が災厄になる可能性もあります。来るべき大戦に備えて、魔族は、一人でも多く減らすべきです」
「それは駄目!」
クリシスは口走ってしまった。
すぐに後悔の念に駆られてしまったものの、一度発した言葉は決して取り消せない。
威厳に満ちた赤い瞳が、クリシスのほうに向いてくる。
「珍しい。クリシスが意見を述べるとは。では、きみの理由を聞こう」
「そ、それは」
クリシスは動揺を隠せなかった。
でも……。
檻に囲まれた少女。いま震えながら、まるで奪われるのを恐れるように飴を咥え続けている。彼女の命運が自分の手に握られていると思うと、逃げてはいけないとクリシスは思った。
短く息を吐いて、クリシスは落ち着きを取り戻す。そして正直な思いを口にした。
「私の心が、そう告げているからです」
ズィーゲルが目を見張った。
驚きか、怒りか、同時に呆れたような視線を、自分の娘に注いだ。
「ファルミ、きみはどう思う」
「はっ!自分は馬鹿ですので、分かりかねます」
ズィーゲルはファルミに問うが、甲冑を着込んだ戦士はきっぱり答える。
すると無論、質問は兄であるサルースに行き着く。
「サルース、きみは」
「はい、確かにクリシスはまだ十歳で、子供じみたように聞こえるかもしれませんが、それでも彼女はハルトマン家の一員です。ある意味、喜ばしい答え、と私は思います」
やけに嬉しそうに、サルースは満面の笑みで答えた。
一方、ズィーゲルの顔色はいっそう沈む。
いまのクリシスだから分かる。
それは重いものを取り除いた、同時に思い詰めたような複雑な表情だった。
その目は、その赤い瞳は、非常に悲しそうに見えた。
「では、この娘はクリシスに任せよう」
空、正しくは西のほうをしばらく凝視して、ズィーゲルは結論を出す。
それは聖王国にて療養中の母のいる方向だと、クリシスは分かっている。けど……。
「お兄様、お父様は……」
重い足取りで歩いていく背中を見て、クリシスは兄を見上げる。すると、大きな手が頭に乗ってきて、何度も撫でた。
「大丈夫ですよ、クリシス。父上はただ、きみを見て母上を思い出しただけさ」
サルースの口調は優しかった。
子供をあやすように、まだ小さいクリシスを落ち着かせる。
しかし、あの日からしばらく、クリシスが欠陥姫という噂は屋敷中に広まった。