十五話 そしてあなたと
空が明るいところと暗いところで半分ずつになった頃、ようやくニャンベル・エクスフレアの転移の魔術の準備が終わった。
「あんな風にほいほい使えるのはあいつだけだからな」
床に魔法陣が刻まれた湿った地下室。
壁に寄りかかり焦れる私にそう言ったのは、相変わらず酒精を帯びているルデラフィア・エクスフレア。
この人間のことはそんなに嫌いではない。
シエラちゃんはどうだっただろう、少しだけ怖がっていたようにも見えたけれど、頼りにしていたようにも見えた。
「放っておいてもすぐ戻ってくると思うけどな」
私の頭をぐしぐしと撫でながら呆れたようにフィアちゃんは言った。
そんなことは言われなくても分かっている。
そう文句を言おうと思ったけれど、フィアちゃんの表情はそんな気を霧散させるほどに優しいものだった。
この人間はこんな顔もできたらしい。シエラちゃんに向けたところを見たことがないのだけど。
ぞわり。
全身が粟立つ感覚に階段の方を見やると、奥の方から扉が開く音が聞こえた。
そのままじっと見ていると、長身の人間がカツカツと足音を立てながら姿を現した。
ヴィオーネ・エクスフレア。
「そんなに警戒しなくてもいいのに」
それは無理な話だ。
あれだけのことをされたのだ、実際今も片笑みを浮かべたその顔を見ているだけで背筋に寒気を感じている。
シエラちゃんにも同じことをしたのだろう。恐ろしい人間だ。
まして今ここには私一人しかいない。膂力だけでは計れない脅威をこの人間からは感じる。
警戒するに越したことはない。
くすくすと静かに笑うヴィオーネ・エクスフレアを視界の端に置きつつ、フィアちゃんの手に頭を委ねる。
きっとシエラちゃんで慣れたのだろうその手つきは乱暴なようでいて意外と繊細ところもあり私を満足させてくれる。
シエラちゃんの手は優しすぎて時々触れられているのかどうかも分からないときがあるから。
そこがまた、たまらなく好きなのだけど。
「五感ではないそれを、あながち馬鹿にはできないわよ」
意外と肯定的だったその言葉は、この家の長から末女に向けてのものだった。
嬉しいような怖いような、この人間の口から吐き出される言葉を素直には受け止めづらい。
「そういうもんかね」
「そういうものよ」
言葉少なに交わされるそれを撫でられながら聞きつつ、魔法陣の中心に立つニャンベル・エクスフレアを見やる。
準備が完了したから来て、と言われたから来たのに当の本人は目を瞑り未だ口を開かずにいる。
何をしているのだろう。早く会いたいのに。お前だってそう思っているのではないのか。
私の内心の焦りを読み取ったのか、フィアちゃんはくしゃりと私の髪を乱暴に撫でた。
「私にはあいつがどうこうなる所が想像できねェよ」
それは魔術師としての意見なのか。それともシエラちゃんを知る一個人としての気持ちなのか。
それとも両方で、それとももっと別の何かなのか。
フィアちゃんの表情は変わらず柔らかい。ヴィオーネの表情も、また。
私の『頼み』にニャンベル・エクスフレアはあっさりと応じた。
それにフィアちゃんが付いていくと言い出したことに対し、ほんの少し難色を示した長女の態度が意外だった。
その理由は私には分からないし別にどうだっていい。
結局長女が折れていたから些細な理由だったのだろう。
手をひらひらと振るヴィオーネの表情はやはり浮かない。
何を心配しているのか知らないけれど、そんなに気になるのなら強く引き止めればいいのに。
勿論そんなことは言わない。
それに多分、私もあんな顔をしていたのだろうと思い至ってしまったから。
「……ベルちゃん」
「なに」
この魔法陣に魔力が満たされたら、次の瞬間にはシエラちゃんが目の前にいるだろう。
この人間のことは好きではないけれど、何も聞かず何も言わず応えてくれたことには感謝している。
だから目を合わさずに言った。
「ありがとうございます」
「……うん」
この人間も私のことは好きではないだろう。
けれど目的は一致していて、想いは苛立ちを覚えるほどに重なっている。
だから目を合わせられない。
暗く湿っぽい地中の部屋の中、足元からぼぉと淡く光が滲む。
配された魔石が色を失っていき、刻まれた紋様が満たされていく。
ヴィオーネが小さく溜め息をついた。
フィアちゃんが四肢に魔力を廻らせ、ニャンベルが小さく言葉を紡ぐ。
囁くようなそれに耳を傾けながら目を瞑った。
目蓋越しに光が溢れ、肌を撫でる魔術の波動に心が震える。
さあ、言い訳を考えなくては。
柔らかな履き物越しに伝わる地面の感触は乾いていた。
弱々しい風に乗り鼻腔をくすぐったのは潮の香りと嗅ぎなれた血に似た香り。
どこかで同じような臭いを嗅いだ記憶があるけれど思い出せそうにない。
両脇の二人が小さく息を呑む気配が伝わってきた。
シエラちゃんの匂いがしないことを不思議に思いながら目を開く。
視界に広がる死骸の群れ。
おびただしい数の死骸は全て綺麗に断ち切られ、しかし歪な形をしている。
数百、いや千はいるだろうか。ぴくりとも動かないその残骸の中に、ようやく目的の白い少女を見つけた。
明後日の方を向きだらりと力なく下がった手にはその背を超える長さの槍を握っている。
俯いている表情は見えない。
距離は離れているけど気がついていないことはないだろう。しかしこちらを振り向かずただ地面を見つめている。
両脇の二人が動かないから、一歩踏み出した。
声が届く距離まで近づいて、竜の子がいないことに気がついた。
匂いはしない。どうやらここは、魔素も薄そうだ。
「シエラちゃん」
声をかけるとぴく、と小さな肩が震え、斜めに傾いでいた身体がゆらり、と振り向いた。
穂先が地面を引っかき、乾いた砂が舞う。
「……ソラ」
懐かしく感じるその声と同時に、ようやくシエラちゃんの匂いがした。
そのことに妙に安堵しながら、少女の顔に垂れている髪が一房、鮮やかな黒に染まっているのを見て胸がざわついた。
「寂しかったので、来てしまいました」
色々な言い訳を考えていたけど、結局口をついて出たのは正直な気持ちだった。
心配だとか嫌な予感だとか、そんなものの前に私はただ単純に、寂しかっただけなのだ。
この少女から。離れるのが。
「……そか」
小さく笑ったシエラちゃんの身体に傷は一つもない。
それなのにどうしてかこの白い少女が今にも壊れそうだと思った。
「その……終わったんですか?」
「うん」
ぼう、と激しく青い炎がシエラちゃんの手から上がり、槍がさらさらと解けて消失した。
まだ胸の中がざわざわしている。
目の前にいる真っ白な女の子はシエラちゃんなのに、匂いがあやふやで酷く不安になる。
「おいで」
気負っていないシエラちゃんの声、魔力の余波も全くなかった。
ごう、と空中でさっきよりも二回りは大きく激しい青い炎が爆発するように燃え上がり、きゅるっと聞きなれた鳴き声が聞こえた。
「あぇ、いっぱいいるー」
最後に見たときよりもさらに大きくなった羽を広げた竜の子が、来訪した私たちを空から見下ろしている。
どうやらシエラちゃんの中とを行き来できるようになったらしい。
少しだけ羨ましい。
頭上に気を取られている間に、驚くほど気配がなくて声が出そうになってしまった、いつの間にかすぐ目の前にいたシエラちゃんに頬を撫でられた。
そっと優しい、ああ、シエラちゃんの手だ。
「待たせてごめんね。……帰ろっか」
「……はい」
もどかしいような違和感が胸の中でくすぶっている。
けど触れてくれた手がいつも通りに優しかったから、気がつかない振りをして頷いた。
「リチェル、帰るよ」
「はぁい」
手を握られ、フィアちゃんとニャンベルに小さく手を振るその姿を目で追いかけた。
このざわつく何かを、あの二人は感じ取っているのだろうか。
魔術師という種類の人間の中で上位に位置するらしいあの二人は、今どんなことを思いながら手を振り返しているのだろう。
一度だけ後ろを振り返った。
あの方の願いの終着地で、同郷だというこの優しい少女は何を得たのだろう。
見回しても歪な死骸が延々と転がっているだけで、私の目には他に何も映らない。
食べても美味しくはないんだろうな。
そんなことしか、思い浮かばなかった。
「ままは、『せいぎょばん』って言ってたよ」
「……せいぎょばん?」
シエラちゃんと竜の子は『神の樹』に辿り着き、その天辺で大きな花を見たという。
それに触れたシエラちゃんは溜め息混じりに、ああ、と呟いてからその聞き慣れない言葉を呟いたと。
「それで、気持ち悪いのがいっぱいきたから、やっつけた」
地面を埋め尽くしていたあの死骸は魔族ではないらしい。
『神域の庭』と『神の樹』を保護隠蔽隔離していた結界とともに、封印を竜の子が破ってしまったと教えてくれた。
あの方の匂いが強く混じるその姿は少しだけ落ち着かないけれど、何かしらの答えを得たのだろうシエラちゃんの表情に曇りはなかった。
微笑みかけてくれるその顔が眩しくて胸がずきずきして、他のことは全て些細なことに思えた。
しばらくを港湾都市で過ごした後、私と竜の子はシエラちゃんに連れられて湖跡の森にある今にも崩れそうな小屋に移った。
シエラちゃんは大きな切り株の上に座って、左手で左目を抑えていることが多くなった。
朝から晩まで、ずっと。
竜の子は相変わらずきゅるきゅる鳴きながらシエラちゃんの足元に寝そべっている。
私はシエラちゃんの隣で空いた手を握って、ちょっとだけ控えめに肩を寄せている。
ただただ静かに寄り添い、ともすれば眠っているような酷く小さな呼吸にだけ耳を澄ませるだけの時間。
ときどき身体を動かしたがる竜の子に付き合い、つるつるした湖跡で一緒に遊ぶ以外は緩やかな時間。
なんて素敵な時間なのだろう。
一度だけ、聞いてみた。
「何を見ているんですか?」
シエラちゃんは、探している、と答えた。
何を、とは聞かなかった。
私はもう心もお腹も満たされていて、隣に居られるだけで幸せだったから。
一緒に探しに行こうと言われれば勿論付いていくつもりだった。
求められたなら私の全てを捧げるつもりだった。
けれどシエラちゃんはただ静かに世界を俯瞰し続け、時折私の頬を優しく撫でる。
もう何もいらない。
私はずっと、こうしていられれば、もう何も。




