十四話 本能の赴くままに
私の嫌な予感は、当たるのだ。
その小さくなっていく後姿には寂しさも勿論あったけれど、それよりも心の奥底の一部がなくなってしまったような喪失感の方が強かった。
その白くて小さな女の子の姿がだんだんと白んでいく空に吸い込まれるように消えていく、その光景を私は最後まで見送ることができなかった。
予感、いやこれは半ば確信だったのだろう。
音、匂い、魔力の揺らぎ。
自身で知覚できないほんの小さなそれらが結びつき棘のように鋭く刺さる。
私の手の届かない場所に行ってしまった、それが我慢できないから癇癪を起こしている、それだけな気もするけれど。
街から少し離れたこの先端に見送りに来たものはいない。
ちょっと出かけてくる、そんな風に見えたしそのつもりだったからだろう。
だけど私には、どうしてかそうは思えなかったのだ。
嚥下できずに気持ちが悪い、小さな痛みを伴うそれは魚の小骨のように引っかかっている。
「……シエラちゃん」
人形のような可愛らしい少女の名前を呼ぶ。
ずっと一緒にいようと言ってくれた、あの方が遺した最後の娘。
その言葉に嘘はなく、だからこそ私は待つべきなのだろう。
陽はようやく頂点に差し掛かったばかりだ。
あの方に刻まれた魔術の紋様に魔力を流す。
人間の姿は好きだ。
細やかな動きができるし、世界の色が鮮明に見える。
何より、シエラちゃんを喜ばせてあげられるから。
青い炎に纏っていたあの方の残滓が解け、足を踏み出す。
あの面白い人間が作った靴はそれなりに歩きやすかったけれど、私にはやはりこっちのほうがしっくりくる。
直に地面を感じられる。
遠く街を横目に駆ける。
あの街の人間は危機感を覚えていたようだった。
包囲していた人間たちにではなく、脅威を追い払ったシエラちゃんに対して。
シエラちゃんは気にしていないようだったけれど。竜の子に至っては何にも気がついていなかったようだけれど。
なんて恩知らずなのだろうと思う。
人間を眺めているときのシエラちゃんはいつも、とても悲しそうにしていた。
その横顔は憧れにも似ていた。
きっと自分では気がついていないのだろうと思う。
どんな時でもシエラちゃんは寂しそうに、せつなそうに他の生き物を見ている。
私と口付けを交わす時だって。
南北に伸びる街道を横切り、真っ直ぐ西へ。
この辺りには多くの人間の匂いがまだ残っている。
美味しそうな匂いもちらほらするけれど、シエラちゃんに食べちゃ駄目と言われたから、ちゃんと意識して思考の外に追いやらないと。
人間と人間の争いには興味がない。
いつでもどこでも彼らは血を流しあっていて、勿体無いとは思った。
たまに住処に侵入してくる人間を返り討ちにするくらいしか、そもそも接点もなかった。
人間なんて、ただのおいしい餌だとしか。
思っていなかった。
森を突っ切り、ひた走る。
思えばこの姿で駆けるのはどれくらいぶりだろう。
最近は人間の姿でいるときの方が多かったから、風の感触が気持ち良い。
名前を付けてくれた。
シエラちゃんの言葉はあの方と同じで魔素を介し、耳に心地良く滑り込んで柔らかい。
言葉数が少なくて、時々乱暴な言葉を使う、けれど優しい白い少女の姿を思い浮かべると胸の中が温かくなる。
魔獣と人間が相容れることはない。
人間が内包する魔力は魔獣にとって、あまりにも魅力的に過ぎるから。
そしてその身体は魔獣と比べて、あまりにも脆弱すぎるから。
あの少女は、あの方からの贈り物なのではないか、なんて考えたりもした。
魔術以外には毛ほども興味を示さなかったあの方が、そんなことをするなんて万に一つもないのだけど。
しかしそう思ってしまうほどの魅力があの少女にはあった。
人間の美味しい要素を孕んでいるのに、とても頑丈で。
憂いを帯びた声で私を呼んでくれて、宝石のような瞳で私を見つめてくれて。
私の全てを受け止めてくれる。
(早く、会いたい)
まだほんの数時間しか経っていないのに、牙の付け根が疼いている。
どうしてこうも駆り立てられているのだろう。
理由の分からない焦燥感が私の身体の中をぐるぐると廻っている。
竜の子は、悪い子ではない。
シエラちゃんを慕いべったりと引っ付く様は見ていて少しだけ不愉快だけれど、シエラちゃんのことを大好きだという気持ちが伝わってくるから、悪い気はしない。
そして不本意だけれど、あの竜の子は私よりシエラちゃんより、遥かに強い。
竜という存在そのものが生物の頂点である以上、それに逆らえるものはいない。
少なくとも、生物である限りは。
だから私は、不安なのだ。
あの二人が向かう先は『神域の庭』。
きっと生物ではないものがいる領域だから。
山脈の足元の森は深く暗く、ずっと続いている。
これから向かう先のことを考えると、この陽の当たらない森のなかのように暗澹たる気持ちになる。
少しだけ足元がぬかるんでいるのは雨でも降ったのだろうか、そんなところまで私の気持ちを汲まなくてもいいのに。
何かを振り払うように駆け抜ける。
葉に溜まった露が弾け、しかし私に触れることはない。
ただ速く、ただ速く。
誰がそう呼んだのかは知らないけれど、人間の言葉を理解したときにそれを初めて聞いたとき、奇妙にそして確かに納得をしたのを覚えている。
『空を駆ける爪』と。
人間には興味はないけれど。
私を、私たちをそう名付けた人間を、一度見てみたいとは思う。
森を抜けた。
背骨に沿うように魔力を流し、刻まれた魔術を発現させる。
青白い炎に包まれ、私の身体が変化する。
初めはおっかなびっくりだった二足歩行にも随分と慣れてしまった。
見上げた空は明るく、しかし雲が多い。隙間から漏れる光の柱がとても眩しく感じる。
荷馬車での睡魔と寄り添いながらのゆっくりとした旅路もいいけれど、自らの脚で風を浴び土を蹴り魔素を吸い込みながら踏破するのもやはり、気分が良いものだった。
この調子なら目的地には陽が沈む前に辿り着けるだろう。
気は進まない。けれど他に当てもなく手段もない。
「……はぁ」
シエラちゃんに貰った魔力はお腹の下に確かな熱を持って留まり続けている。
この胸のうちに渦巻く不安が杞憂ならいいのだけど。
高低差のある森丘を駆け上がり、階段状に連なる崖の上に到着した。
目的地はすぐそこだ。
脚が少しずつ重くなっているように感じるのは疲れではなく精神的なものだろう。
あの人間は私の気持ちを逆撫でる。
シエラちゃんに似ているようで、しかし決定的に違う存在。
生物の枠を超えようとしてしかし超えられなかった、あの方の手による実験体。
これはきっと、同属嫌悪なのだろう。
どうしようもなく惹かれてしまうところも含めて。
「? シエラは?」
開口一番、私には目もくれずそいつは言い放った。
ニャンベル・エクスフレア。
シエラちゃんを困らせる人間。
いつも一緒にいる、そう認識されていることに少しだけ優越感を覚えたけれど、だからこそ今は肌に当たる風が寒々しく感じる。
以前とは違い拒絶的な意思が乗っていなかった結界のおかげで迷わずここまで来ることができた。
竜の子に壊されたのが効いたのだろう、そもそも来客を一切想定していなかったあの結界はどうかと思ったけど。
「『神域の庭』にいます」
あの竜の子の速さなら世界の端にすら簡単に到達できるだろう。
それならばもうシエラちゃんは着いている筈だった。
「ふぅん。置いてかれたんだ」
眠そうでやる気の一切を感じられないこの人間の声色はしかし私を苛立たせる。
すうぅ。はあぁ。
シエラちゃんがよくしているように、深く息を吸い込みゆっくりと吐く。
お腹の下の温かさを意識すれば、なんてことはない。
「はい。私は留守番です」
そして会話が止まる。
元々相性が悪いのに加えどちらもお喋りではないのだ。
これだから人間は面倒臭い。
シエラちゃんならどうしただろうか。
すぐに手を繋ぎたがる、あの白い少女を思い浮かべて思わず笑みがこぼれた。
「?」
首を傾げたニャンベル・エクスフレアに一歩近づき、その手を掴む。
小さく人形めいた恐ろしく軽い手を。
「……なに」
平坦で抑揚のない声、ピクリともしない眠そうな表情。
私にはこの人間が何を考えているのか全然分からない。
つぶさに観察し続ければ何かが理解できるのだろうか。
そんなことをするつもりはないけれど。
「あなたに、頼みがあります」
ほんの僅かに見開いた瞳が、私の目を覗きこんだ。
ああ、なんだ。意外と可愛らしいじゃないか、この人間も。




