十一話 神を殺す為の器
見えたものに最初に抱いた感想は真円。あるいはドーナツだった。
その綺麗な円の中心はしかし空洞ではなく、魔力の塊が無数にひしめき合う集合体。
物の姿形ではなく魔力そのものが見えているのだろう、正しく世界の真ん中にあるそれから放射状に伸びているのは、地中を這う『神の樹』の根か。
脈打っているようにも見えるそれの中を途方もない量の魔力が流動し、世界の隅々にまでその恩恵を行き渡らせている。
なるほど神の名を冠するにふさわしい威容だった。
海を隔てて『神の樹』を囲むように配された五つの大陸、その下を太い根が支えている。
世界を魔素が循環している。空から大地へ、大地から空へと。
何かに見られている、そんな感触に引かれて世界の中心を凝視する。
後頭部がちりちりと焼きつき、左目から何かが垂れ始めた。
俯瞰する。
急速に拡大されていく魔力の塊、その中に見えた。
そしてそいつも、俺を見た。
黒い髪をした、どこか少年の面影を残す、しかし人形めいた、血のように濡れた赤い瞳。
そいつは、にぃ、と笑った。
どろり、と左目から熱い液体が垂れるのを無視して、人差し指の付け根を噛んだ。
燃え上がる青い炎を、青かった洞窟に残して。
縦にも横にもズレることはなく、完璧に意識した場所に現出し、着地した。
おびただしく地面を覆う木の根、引きずり込まれる前の場所が遠くに見える。
完全に魔術を制御できたという初めて味わう感触と、身体の中に残っていた魔力のほとんどを使いきってしまったという焦りで、足元が一瞬ぐらついた。
「……お前は本当に、私を困らせる」
相対したヒイラギは薄く笑っている。
その感情はやはり読み取れない。
ひんやりとした空気が肌を撫でた。
そしてリチェルの手を掴んでいたことを思い出し、握り直す。
横目で見たリチェルはヒイラギを見つめている……薄く輝く瞳で。
「ヒイラギさん」
足元から魔力が吸収されていく。
緩慢だけれどしかし確実に死へと追いやられていく。
今の俺にとってこの場所は墓場と地続きだ。
「理由を聞いてもいいですか」
この身体を動かしている魔力は直に底を尽き、繋いでいる手は解き放たれる。
不完全な黒い髪の少女には『竜』に抗う力はないだろう。
異邦の者は消え、この世界はまた健全に時を刻み始める。
爪跡は深く、針は折れ曲がったままだろうけれど。
「……本を、返したかったんだ」
懐から取り出されたそれはぼろぼろで擦り切れていて、装丁に刻まれた文字は読み取れなかった。
手の平に少し余る文庫本。
……この世界に持ち込まれた、異物。
言葉は続かなかった。
その一言こそが、彼女を突き動かしていた原動力。
それだけの為に。そう思うのは簡単だ。
しかし彼女には、彼女にとってはそれだけが……この世界での拠り所だったのだろう。
その思いを否定することは、俺にはできない。
「……リチェル。待ってて」
頷くのを見てから手を離し、ベルトの『吸血鬼』に手を添えた。
ほんの一瞬だけ迷い、ヒイラギの姿を見てから、お腹の下に手を当て直す。
『神槍』を取り出し、左手で掴んだ。引き摺る、長すぎるそれの穂先が根を切り裂き、ごうごうと青い炎が背中で立ち昇る。
「ああ、怖いな」
呟くヒイラギの口元は歪んでいる。
燃え盛る青い炎を背に歩み寄る白い少女は同郷の魂を内包している。
「私を殺すのかい。唯一の仲間だというのに」
その声にはやはり抑揚がない。
「神さまを殺したら、この世界はどうなるんですか」
ずっと気がかりだった問いを投げかけた。
けれどその答えは、もう、どうだってよかった。
「壊れるよ」
何でもなさそうに答えたヒイラギの目は落ち窪んでいて、疲れ果てていた。
ヒイラギの周囲を覆っていた恐らくは結界だろうそれを一振りで切り裂き、役目を終えた『神槍』をお腹の下にしまった。
「油断がすぎるんじゃないか」
「いえ」
肉薄した。
立ち尽くすだけのヒイラギには、もう既に俺と同じくらいの魔力しかその身体に宿していない。
あの輝かんばかりの魔力は消え失せてしまっている。きっとあの場所でしか。
だから、抱き締めた。
「……なんのつもりだい」
「よく見えている、と言ったのはあなたでしょう」
急ごしらえだったのだ。
その身体には核も魂も馴染んでいない。
崩れ、剥がれかけている。
青い洞窟での邂逅、あれは最後の賭けだったのだろう。
「……お前はこれから、どうするの」
何かを諦めたその声はようやく少女特有の柔らかさを帯びていた。
撫でた黒い髪は乾いていて、滑らかではなかった。
「こんな世界で、お前は」
乾いた声が頬を撫で滑っていく。
同郷である女の気持ちを、一番の理解者である筈の俺はしかし、理解してあげられない。
「生きていきます」
そう呟いた俺の声にヒイラギは一度小さく笑い、身体の力を抜いた。
希薄になっていく魔力を存在を俺はこの時恐らく、許せないと思った。
「……んぅ」
口付けた。
黒い髪の少女の目が見開かれ、そしてすぐに納得したのだろう、鮮血のような赤い瞳がすぅ、と閉じられた。
人間の温かさはどこにもなく。
ただ人の形をしたものと人の形をしたものが、唇を触れ合わせているだけ。
そこに温度のやり取りはない。
魔力を、吸収した。或いは、魂だったのかもしれない。
額がこつんとぶつかり、あの時と同じように抱きしめられた。
最期の言葉はなかった。
視界が青白く燃え上がり、後には何も残らない。
「……ふぅ」
身体の中を魔力がぐるぐると廻っている。
『無限の相克』は元通りこの身体に納まり、再び魔力を生み出し続けている。
足元から吸収されるよりも遥かに早く身体を満たしていく。
懐かしさと同時に、何かに至ったという感覚が身体中を廻った。
なんだろう、身体が熱い。そして軽く感じる。
揺れ動いた魔素を感じ、振り返る。
リチェルがこちらを見ながら、尻尾で木の根をべちんべちんと叩いていた。
この木の根に痛覚は……どうだろう、なんとなく痛みに悶えているような気もする。
手を広げるとリチェルはぱっと笑顔を咲かせ、一目散に飛んできた。
まばたきの間にもう目と鼻の先にいた。
転移かな?
「わっぷ」
ぶわっ、と物凄い風でスカートが捲くれ上がり髪がぐしゃぐしゃにかき混ぜられた。
いや単純に速すぎるだけだこれ。
急制動したリチェルを抱き止めると、きゅるきゅると鳴きながら抱きついてきた。
「終わったの、まま」
「んー……、いや、むしろ」
これからかな、という言葉を言い終える前に、『拒絶空間』を背中側に展開した。
ぢ、という音の後、熱が俺とリチェルの脇を過ぎ去り、爆風が後を追いかけて髪を揺らしていった。
振り返る。
太ましい根っこが縒り集められた足元、祭壇の上。
そこに何かがいた。
こちらに手をかざしている、人の形を模した、何かが。




