十話 全てを超える竜の力
「大丈夫? まま」
振り下ろされた刀身は、俺の眼前に現れた竜の少女の手によって阻まれた。
お腹の下の『竜の心臓』が赤熱し、ワンピースドレスの下で脈動している。
ぺたんと尻餅をついた俺の頭上で、みしみしと刀身が握り潰されていく。
あの黒き魔女が作り出したアーティファクトが、握力だけでいとも容易く。
「ああ、『六つ羽根』か」
愛着も未練もないのか、あっさりと剣を手放したヒイラギは何歩か距離を取ってから吐き捨てた。
「斬りつけたもの全てを強制的に魔力へ変換する、自信作だったんだけど」
なんだそれ怖い。
そんなものをあっさりと受け止められたのは『竜』だから、で説明がつくのだろうか。
ぱたぱたと揺れる六枚の羽が今はとてつもなく頼もしい。
カラン、と音を立てて落ちた剣が湛えていた光は輝きを失い鈍くなっている。
俺が呼び出したのかそれとも自分の意思で現れたのか、『竜の心臓』はかつてないほど赤い光を漏らしている。
この場所は恐らく、外界とは物理的に隔絶された場所だと思うんだけど……リチェルのことは分かったようでいて、まだ何も分からないな。
手をぐぱぐぱしながら振り向いたリチェルの表情はしかし、複雑に混ざり合い歪んでいた。
この子のこんな顔は初めて見る。
「ままの匂いがする」
今にも泣きそうな声色に、ようやく我に返った俺は立ち上がりリチェルの手を取った。
ぴく、と小さく強張ったその手はすぐに握り返されたけれど……微かに震えている。
俺とヒイラギとを交互に見るその目は揺れていた。
その姿に焦燥を感じて、握った手に力を込めた。
「リチェル、手は平気?」
「……まま」
体重を預けてきたきたリチェルを抱き締め、視線はヒイラギに固定、いつでも転移できるように心構えをしておく。
しかしヒイラギは既にこちらを見ておらず……頭上を見上げていた。
暗闇に満たされた半球状の空間、恐らくはその頂点を。
「なるほど『変質』……本当に面白い使い方をする」
独りごちたヒイラギの目が俺を射抜き、思わず身がすくんだ。
身体が強張ったのを感じ取ったのだろう、リチェルは顔を上げ、俺を守るように前へ出た。
「私を殺した人」
「……へぇ」
リチェルの言葉に、ヒイラギは素直に感嘆の声を上げた。
殺した……額に『神槍』が突き刺さっていたあの時あの状態、限りなく薄かったけれどあの巨大な体躯に魔力は廻っていた。
あれを生きていたと表現するのは、若干以上に抵抗があるけれど。
「お前のその姿には興味が尽きないけれど……」
ヒイラギはそう呟いてから屹立したままの台座にふわりと飛び乗り、再び頭上を見上げた。
何が見えているのだろう、俺の目には暗闇しか見えない。
「『竜』は嫌いなんだ」
ヒイラギがそう吐き捨てた瞬間、暗闇に溶け込むようにその姿がかき消えた。
剣を台座を、俺をリチェルをこの場に……青かったこの洞窟に置き去りにして。
唯一の光源だったヒイラギがいなくなったことで、半球状の空間は完全に暗闇で満たされていた。
いや。
俺のお腹の下、『竜の心臓』から赤い光が漏れ、リチェルの両の目も光を湛えている。
「……どこ行ったんだろ」
俺の言葉にリチェルは、一度きゅる、と鳴いてから真上を見上げた。
さっきまで居たヒイラギのように。
「外にいるよ」
「……分かるの?」
「うん」
リチェルの碧色の瞳に薄く輝く金が混じり、俺には見えない『何か』を捉えている。
……『竜眼』か。
さて、しかし。
お腹の下に手を当て、『閲覧者』を取り出した。
「ともし火」
手にした分厚い魔術書に魔力を流し込むと、柔らかな光を放つ手の平ほどの小さな球体が出現した。
それは俺の意思に従い分かたれ、増えた先からまた分かたれていく。
数回の分裂で百ほどの数に達したともし火は、一斉に空間内に広がっていき暗闇を晴らしていった。
照らし出された空間には先ほどやり合った爪跡は微塵も残っておらず、やはり静かで……しかし無機質な岩肌に囲まれていた。
灰色で、乾いている。
横たわる台座は改めて見ると、ああ確かに棺のようだった。
貫通はしなかったのだろう、出口を求める鮮やかな赤が、中心にぽっかりと空いた穴を満たし表面張力でまぁるく盛り上がっている。
蓋などない、ただの直方体の石の塊は、もう開くことはない。
その事実が空っぽになった頭の中に染み込むにつれ、飲み下した吐き気が再びせり上がり首の後ろを痺れさせた。
まだ真上を見上げているリチェルの視線の先、暗闇はともし火により晴れたけれどやはり何も存在せず、ただのっぺりとした石壁が頭上を覆っているだけ。
一切の音もない、ここはもう、終わってしまっている。
左手の手の平をちらりと見た。
二つあった核の一つをヒイラギに奪われ(取り戻され、か)もう魔力は今までのように時間経過による回復は見込めないだろう。
無駄遣いはできない。
けれどこの空間からの脱出方法……考えても、やはり選択肢は一つしか思い浮かばない。
視線を感じて顔を上げると、リチェルの輝く瞳と目が合った。
間近で見ると頭の中まで見透かされているような錯覚に陥るリチェルの『竜眼』。
ただ一言、嫌いと言って姿を消したヒイラギは、この竜の少女に何を見たのだろうか。
「リチェル、ここが何処なのか分かる?」
俺の言葉にきゅる? 首を傾げたリチェルは、羽をぱたぱたとさせながら身体ごとぐるりと洞窟内を見回した。
ゆっくりと一周してからきゅるる? とさらに逆側に首を傾げたリチェルは、再び俺の目を見つめて口を開いた。
「わかんない!」
……今の今まで、自分が何処にいるのか分かっていなかったらしい。
『竜』という生き物はみなそういうものなのだろうか……今のこの現状も、些事だと。
その無邪気な頬を撫でると、目を細め気持ち良さそうにされるがままになる竜の少女。
尻尾がべちん、と固い石の地面を叩き、空気が震える。
この子がその気になれば、壁も天井も簡単に粉々に崩せるのだろう。
しかしそれは最終手段だ。
『吸血鬼』を拾い上げた。
小さな手を引き、横たわる台座に背を向ける。
覚悟を決めたのだから。
無機質な岩壁に埋まるように、その精緻な模様が刻まれた木の扉はある。
さっきも試したけれど、もう一度触れてみる。
「……開かないか」
妙にしっくりくる手触りの表面を一度撫でてから離す。
となればやはり、転移の魔術しかなさそうだ。
左目との併用は魔力の量が心許ないけれど、他に方法が思い浮かばないし仕方がない。
「リチェル、おいで」
空間全体を照らし出していたともし火を消し、リチェルの手を握る。
ほんのりと薄い魔素に満たされた暗く静かな終の棲家に、あの女の言葉を思い出す。
連れてきてくれてありがとう。
「……」
その言葉を鵜呑みにするならばこの場所は『神の樹』の近く、ということになる。
けれどここはこの場所は、俺が目覚めた青い洞窟だ。
そしてあの時この場所に、あの女も居た。
「……ここは、なんだろう」
何か取り返しのつかないことをしてしまったような、しかし言葉にできない焦燥感のようなものが背筋を震わせた。
その正体が分からないまま、急かされるように左手で左目を覆った。
この世界を、俯瞰する為に。




