九話 相反する二つの色
「……っ」
俺の……本当の、俺の身体。
呆気にとられ、口からこぼれた煙草に似たそれが地面に落ち、青白い炎を上げて消失した。
入れ替える? つまり、魂を。
どうやって? 魔術を究めたこの女の手で。
それで、どうなる? 女は悲願を達成するのだ。この神を殺す器で。
それで……俺は、どうなる?
そんなの、分かりきったことだ。
この女は全てを利用してきたのだ。
「……お断りです」
殺されるに、決まってる。
今この瞬間に俺が無事なのはこの身体……千切れた四肢が僅かな時間で再生すらする、この女の傑作品だからだ。
立ち上がり、『吸血鬼』に魔力を注ぎ込む。
ヒイラギはしかし座ったまま口元を笑みの形に歪めた。
「残念」
その声と同時、コツンと指でテーブルを叩く音。
応えるように俺のすぐ後ろでゴトン、と屹立していた台座が倒れ、振り向くと既にその表面は元通りつるりとしたものに戻っていた。
……あの身体は無事なのだろうか。
俺の目には死んでいるようにしか見えなかった。
しかし、黒き魔女と呼ばれた者がわざわざ俺に同意を求める理由。
恐らく完全ではないのだろう、この邂逅自体も。
想定外だと言っていた。
できるのならとうに済ませている筈だ。俺が無防備に屹立した台座を眺めていたあの瞬間に。
脅しに使うつもり、というわけでもなかったらしい。
ただ気だるそうに魔素の煙を吐く黒い髪の少女が、何を考えているのか分からない。
「……その身体は、借り物ですよね」
テーブル越しの少女は長い年月を内包した笑みを浮かべている。
ちぐはぐで気持ちが悪い。
「よく見えているね。そう、なんて名前だったかな……まぁ、どうでもいいか」
あの場所あのタイミングでわざわざ現れたのには、何かしらの理由があるのだろう。
彼女にとって看過できない、何かに俺が近づいたから。
「ルッツ・アルフェインも器だったんですか」
俺の言葉を受けてヒイラギは、ああ、と目を少しだけ見開いた。
「そんな名前だったね、懐かしい。……いや、これは違うよ。でも、そうありたいと願い、そう変わったみたいだから」
使わせてもらった、と。
呟いたその声色にしかし感慨は微塵もない。
「世界の支配だとか破滅だとか。そんなことを言っていたっけね」
他人事のようなその言葉に、ない筈の胸の奥が痛んだ。
彼ら鈍色は、正しく黒き魔女の後を追いかけていると自負していたというのに。
「彼は、生きているんですか」
「生きているよ。目の前にいるだろう」
感情の機微を細かくそして目ざとく読み取ってきた筈のこの目が、相対する少女の声からは何も……本当に何も感じ取ることができない。
生きている……匂いはすれどこの左目にはしかし、あの少年の魔力は欠片も映っていない。
俺とヒイラギの『生きている』という定義はきっとどうしようもなく乖離している。
恐らくもう彼と言葉を交わすことはできないのだろう。
「……ここから出してください」
外に一人でいる筈のリチェルのことが心配だった。
この場所が『神の樹』のすぐ近くだという確証もないけれど。
「解放すると思うかい? まだ未完成のお前を」
少しだけ可笑しそうに言ったその言葉は、この身体に宿るアーティファクトのことだろう。
未完成……確かにその全てを集めてはいない。どこにあるのか分からなかったし。
それに。
必要も、ない。
四肢に魔力を廻らせる。
『吸血鬼』を一度振るい、石のテーブルから身体を起こしたヒイラギを睨みつけた。
「良い顔をするようになったね。この世界は血生臭かっただろう?」
冷たい石のテーブルがヒイラギの小さな手によって押し込まれ、地面にずぶずぶと埋没していく。
「よっ」
子供のような可愛らしい掛け声とともに椅子から飛び降りたヒイラギは、咥えていたそれを指で挟み、一度大きく煙を吐いてから言葉を続けた。
「一応聞いておこうかな。お前がそんな中途半端な状態で『神の樹』を目指した理由を」
最初は、ただ確かめたかっただけだった。
けれど、今は違う。
俺がこの世界の神さまに会いにきたのは殺す為なんかではない。
この世界で目覚めた理由も、今となってはどうだっていい。
もう生きていく覚悟は決まっている。
「『木々を食むもの』……彼らを、故郷に帰してあげたい」
「……?」
初めて、黒い髪の少女の顔に感情の色が浮かんだ。
考えもしていなかった、想定の外からの答えだったのだろう。
ぽかんと半開きになった口が閉じるまでにたっぷり五秒もかかった。
「……それも優しさ、なのかな。魔獣に情愛を注ぐなんて、ね」
獣の耳のことだろうか。
ヒイラギは改めて俺の身体をしげしげと眺め、剣呑な目つきになった。
「そんなものを生やしているから、まさかと思ったけれど」
会話が微妙にズレているような気がした。
その声色からは魔獣に対する冷たさしか感じ取れない。
ソラはあんなにも想っていたというのに。
重たい無言が続いた。
「……帰る気はないんだね」
呟く、ヒイラギの鮮血のような真っ赤な両の目が閉じられた。
咥え直したそれが散り散りになって消えてから、ようやく開かれたその目には、もう何も映っていなかった。
ヒイラギの纏う空気が変わった……のを感じ取った瞬間、半球状の空間から色みが失われた。
その消え失せた魔力は全て一点に集約された。
相対する、黒き魔女の元へ。
「思い違いをしているかもしれないから、教えておくけど」
光源のなくなったこの空間を満たすものは限りなく薄くなった魔素だけ。
しかしその姿をはっきりと視認できるのは、小さな身体からゆらゆらと陽炎のように魔力が溢れ出しているから。
輪郭すら滲ませる濃密な魔力が気化して神々しい……いや、禍々しい。
「『アーティファクト』はその身体の為にあるんじゃないよ」
直視することすら難しいヒイラギの声色は平坦で抑揚がない。
感情の伝わってこないその言葉にはしかし、はっきりとした意思が一つだけ乗っていた。
あまりに純粋で、あまりに研ぎ澄まされすぎていてすぐに感じ取ることができなかった。
それは、純然たる殺意。
「『私』の為にある」
『吸血鬼』の柄を放り投げ、『閲覧者』を取り出した。
前面に大きく展開した『拒絶空間』は何かを防ぎ、しかしすぐに融解した。
稼ぐことのできた僅かな猶予で右手の人差し指を噛み、ヒイラギの後方遠く、岩壁に埋め込まれている木の扉の前に転移した。
「……っ」
やはり開かない。
押しても引いてもビクともしないそれを早々に諦め、ぞわりと逆立った獣の尻尾を頼りに『拒絶空間』で自分を取り囲む。
眩い閃光が結界の表面から走り、半透明な全てを拒絶するそれがどろりと溶けて解けていく。
その向こう、暗闇の中で一際輝く黒い髪の少女。
「上手く使いこなせているじゃないか」
楽しそうな声色にはしかし背筋を震わせる殺意が乗っている。
飛来する何かを獣の耳が捉え、左手に『神槍』を取り出した。
一閃。
断ち切ったのはなんだろう、下に落ちた何かが暗闇の中でもぞもぞと動いてから解けて燃えた。
俺が振るった『神槍』を見て、ヒイラギの眉がぴくりと動いたのを見逃さなかった。
ヒイラギの真後ろに転移、その無防備に見える小さな背中に向けて真っ直ぐ突きこんだ。
手応えがあった。
生きている者を刺し貫いた、確かな手応えが。
「ああ、良い顔をする」
しかしそれは、俺の目に映っているそれは、屹立した今は色味を失った石の台座だった。
その上に座り小さな足を投げ出しているヒイラギは俺を見下ろし、心底楽しそうに口角を歪めた。
込み上げてきた吐き気を飲み下す。
震える手で抜いた『神槍』には僅かに血液が付着していた。
燃え上がることなくぽたぽたと垂れるそれは赤く、色味の失われた世界で鮮やかだった。
後ずさった俺の目の前に降り立ったヒイラギの手には一本の剣が握られていた。
ひと目で分かった。間違いなくこれも、アーティファクトだ。
その刀身は青く輝き透き通っている。
「ここまで連れてきてくれてありがとう」
振り上げられたそれを見上げることしかできない。
振り下ろされるそれを見つめることしかできない。




