三十五話 湯煙に混じり
「約束を果たしてくるよ」
俺の声を受け、嘆息して窓から外へ出て行ったソラを見送り、ニャンベルの部屋へ。
正面ロビーの大階段を上がって二階、部屋が多すぎて分からない……。
すっかり元通り綺麗になった廊下、その窓からは月明かりに照らされた木々の群れが見えている。
侍女に部屋を教えてもらおうと思っていたら、そのニャンベル本人がぺたぺたと前から歩いてきていた。
「どうしたの、シエラ」
相変わらず温かそうなスリッパを履いていらっしゃる。
「えぇと……これ」
『閲覧者』を取り出して見せると、ニャンベルはああ、と小さく呟いて……あくびをした。
「くぁ……眠い、から。明日、見せて」
「うん」
ずっと作業……結界を張り直していたのだろうか。
すみませんうちの子が……。
それじゃあまた明日、と振り返り、そういえば使っていい部屋とか聞いてないなと思い出した。
どうしよう、ソラは屋根の上かな……俺も外でいいか。
ひた、と。
音もなく忍び寄っていたニャンベルの小さな手が、俺の手を取っていた。
びっくりするからやめて?
「お風呂」
ぐい、と手を引かれ、再びぺたぺたと可愛らしい足音が廊下に響き渡る。
……これは逆らえなさそうだ。
おとなしく付いていくことにしよう。
ニャンベルのドレスめいたフリルの多い服は相変わらず脱がし辛かった。
ニャンベルが髪を纏めている間に靴を脱ぎ、ベルトを外す。
ワンピースドレスと白いタイツが青い炎に細かく散って、ポケットの中の物が床に落ちた。
「私の、ぱんつ、どこやったの」
「え? ……あ」
すっぽんぽんのニャンベルが、じとりと俺の身体に視線を這わせていた。
そういえば今穿いているのはアイファから貰ったものですね。
ニャンベル印のぱんつは……そうか、『断罪』で燃え尽きたのか。
「……失くしました」
「はぁー……」
盛大なわざとらしい溜め息とともに、ニャンベルが脱いだばかりのそれを手渡してきた。
ほのかに温かい、いや、なんで?
「あげる」
「……ど、どうも」
どうせなら新しいのにしてほしいんですけど。
一応善意なのだろう、無碍にするわけにも……これほんとに善意なのかなぁ……。
「座って」
はい、座ります。
前に来たときもこうしてニャンベルに髪を纏めてもらったっけ。
あぁ、そうだ。
「ベル、髪の毛のことなんですけど」
「知らない」
食い気味の即答だった。
まだ何がとも言ってないのに……。
まぁ別にいいか、害になるわけでもないし。
……ソラがちょっと不機嫌になるかもしれないけど。
「できた」
「ありがとうございます」
大きな姿見に映る小さな二人は、やはりどこか似ていた。
背丈もほとんど変わらない、いつも眠そうな少女と生気を感じさせない白い少女。
二つの、器。
「あ、ままだー」
「よォ」
大きな一枚石をくり抜いたような広い浴槽には先客がいた。
どちらもぐったりと湯船の縁に身体を預けている。
爆炎の魔女ルデラフィア・エクスフレアと、竜の少女リチェル。
前者は天井を仰ぎ見るように身体を反らし、後者は縁にもたれ掛かってうとうととしていた。
「このちびやべェな」
「えへー」
小さな翼がぱしゃぱしゃと返事代わりにお湯をかき混ぜた。
かなり激しく『遊んで』いたようだけど……庭は無事なのだろうか。
ニャンベルに手を引かれ、湯船に腰を下ろす。
少しぬるめだけど悪くない。
結界を破壊し体当たりをぶちかました子がすぐ近くにいるけど、ニャンベルは気にしていないのだろうか、俺の手を握ったまま目を瞑っている。
相当に消耗していたのか、ルデラフィアは茹で上がったリチェルを抱きかかえ、ふらふらした足取りで先に上がっていった。
なんだかんだで面倒見が良いですねお姉ちゃん。
残された俺とニャンベル、薄く湯気に覆われ物音もなく、ただただ静かな時間が過ぎていく。
「よろしくね、か」
老いることのない器、話を聞く限りではニャンベル本人はそのことを知らない。
そしてルデラフィアにも隠しているのだろう……どうやってか知らないけど恐らくは、魔術の類で。
あの言葉はしかし、諦めてしまったのだろうか。
同じく永遠の時を過ごせる俺に託して……いや、保険という意味合いのほうが強いのか。
それとも、もしかして。
「俺の為でもある、のか」
生き永らえるのなら、孤独よりも二人互いに寄りかかっていたほうが、傷を舐めあえると。
そういう、ことなのだろうか。
「ぶくぶく」
「あぁ、もう」
やっぱり眠っていた、静かすぎて気がつかなかった。
沈んでいくニャンベルを抱き起こし、頬をぺちぺちと叩く。
「ぅぷ……おはよう」
「おはようございます。……出ましょうか」
重さを感じない少女を持ち上げ、湯船から立ち上がる。
酷く不安になる、何かが欠け落ちてしまっている……本当にこの少女は、永遠の時を過ごせるのだろうか。
あの女……ヒイラギは、この身体を作る為の礎として様々な実験をそして試みを何度も繰り返した筈だ。
その過程でニャンベルはこうなった、ニャンベルでは駄目だったから、器足り得なかったからこの身体を作った筈だ。
老いず、頑丈で、神さまを殺す為の、魂の器。
何かがこの少女には足りないのだ。
「洗って」
「……、はい」
……いや、逆か。
『魂』を取り除くことができなかったから、空っぽなこの身体を作ったのか。
元々存在する生命という個では為しえないと分かったから、この身体を作るに至ったのか。
わしゃわしゃと泡立てながらニャンベルの髪を丁寧に洗っていく。
傷一つない小さな背中は滑らかで、やはり、人形めいていた。
髪を乾かし梳いているうちに眠ってしまったニャンベルをベッドに横たえ、目を切り替えた。
ぐるりと首を廻らせる……もう夜も更けている、それぞれ自室に戻ってい……あれ、ルデラフィアとリチェルの魔力が完全に密着しているように見えるけど……。
……まぁいいか。
頭上に見えた魔力の塊(大きめ)を注視して、人差し指の付け根を舐めた。
「……お?」
もふ、と本来の姿に変じていたソラの真上に現出し、ちょっと硬めな体毛に包まれた。
月明かりを受けて、僅かに青みがかった濃い灰色は少し黒っぽく見える。
ちらり、とこちらを横目で見たソラは眠いのだろう、その大きな体躯を丸めて俺のスペースを作ってくれた。
よじよじと這い、ソラのお腹にすっぽりと納まるとああ、いい感じ。
明るく大きな二つの月に見下ろされ、ゆっくりと上下する温かな体躯は揺りかごのよう。
「……おやすみ」
呟いた言葉は夜の冷たい空気に紛れ、誰にも届かず消えた。




